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Channel: 死ぬまで生きよう!
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平凡のつまらなさ

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同世代諸氏に共通して言われることは、「お前は昔のことをよく覚えているな」である。が、自分としては誰も同じではないか?と思うがどうも違うらしい。自分で体験したことのはずなのい…。例えば大惨事の列車事故、航空機事故、生死を分かつような地震や津波などの大災害を、ニュースで聞いた人はすぐに忘れるが、実際に体験したひとにとっては生涯忘れ得ないだろう。

自分の幼少体験は、それほどの惨事であったわけではないが、子どもにとって、少年にとっては決して生半可な、「生」ではなく、必死で生き、生き延びたようにも思う。あの時自分を騙した奴のその時の顔や仕草、自分のその時の虚しい気持ち、母親の鬼のような所業、かけがえのない父の優しさ、頬を力任せに叩いた教師、同じく根鞭で背中を強くたたいた教師もいた。

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ひどい時代だったと思うが、そんなだから必死で生きていたのだろう。そういう体験の記憶は忘れるものではないし、忘れない体験が多かったというのは、いかに自分が一筋縄で生きていなかったかという事になる。記憶がないというのは、いかに平凡に生きていたかという事かも知れない。何も自己肯定をしたいわけでもないが、平凡に生きるのは卑怯な人生と書いた。

適当に結婚をし、適当に会社に勤め、適当に暮らせたらいいという言い方をするが、いかにも平凡礼賛な言い方に思う。ここには石にかじりついても…という切迫感がない。他人の生き方に批判はないが、平凡が卑怯というのは自分の生き方への問題提起であって、他者批判を核としていない。平凡に生きるのはいいが、平凡が「善」のような言い方には異議がある。

そこまでいうならこちらも言おう。平凡というのは日向志向である。日向とは日陰の対義語の日向であって、近年は差別用語なのか、「日陰者」という言葉を聞かない。昔、普通に言っていた言葉の多くが差別用語と規定された。例えば天気予報を解説する際、「太平洋側は高気圧」、「日本海側は寒波が」などというが、以前は太平洋側を表日本、日本海側を裏日本といった。

換えていい言葉はあるようだ。当時は何とも思わなかったが、裏日本よりは日本海側の方がいい。平凡は日向志向といったが、よく子どもが生まれる際に、「五体無事であってくれればそれでいい」と願う親は多い。何でもない言葉の裏には、五体無事でない不具者の人生がどれほど惨めかを感じ取っているからであろう。だから、平凡というのは日向なのだと。

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さらには日向は加害者、日陰は被害者である。昔は妾の子といっていじめら、差別を受けた。あいのこ、混血児(現在でいうハーフ)といわれ、やはりいじめられた。終戦になって、夫を戦場に失った妻が子どもを抱えて生き延びるために、まともな職業はなく、駐留軍相手の水商売や売春婦となり、その間に生まれたこどもを侮蔑の意味を込めてそのようにいった。

「昨日まで敵国だった国の人間の子どもなんか生みやがって!」、そういった敗戦の闇である。森村誠一の『人間の証明』は、世界的なファッションデザイナーである母には、かつて戦後の混乱期に黒人との間に産んだ子がいた。その事実を隠匿するため、日本にいる母を訪ねてきた我が子を殺す。人に生まれるより、人間として生きることの難しさと悲哀を描いている。

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日向志向の人は、平凡であることをまるで、「善」そのもののようにいう風潮は、日陰といわれる人々を苦しめた。あいのこ、混血児という言葉は消えたが私生児という言葉は使われる。婚姻にない同士の間に生まれたことをいうが、仕方がないのか、侮蔑的な意味で言われている。法律用語では非嫡子というが、一般的には私生児という呼び名で言われている。

人間は自己否定によって真の自分を作っていくが、その過程なくて、自己肯定ばかりするとどうなるであろう。本人はともかく、他人から見ればかなり奇異な人間に映る。自己肯定はアイデンティティとして大事であるが、そのためには幾度も自分を壊し、蘇生してはまた壊しという過程があってこそ、大きな人間となる。自分に幾度も挑んだという意味は大きい。

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キリスト教という世界宗教は、ユダヤ教という民族宗教からおこったものだが、有り体にいうなら、ユダヤ教からおこり、ユダヤ教に背を向けた宗教である。したがって、キリスト教が他のどの宗教よりも大きな影響をもつようになったのは、ユダヤ教という一民族宗教の自己否定の上に成立したからである。決して最初から世界宗教として生まれたのではなかった。

ユダヤ教という特殊性の否定の上に普遍性が誕生したことになる。何かを否定して生まれた普遍性こそ、真の普遍性ではなかろうか。人が平凡を望むのはいいが、最初から平凡に辿り着くのではなく、自己のなかの誤謬と格闘し、自己の特殊性を戒め、放棄して到達した平凡なら価値もあろう。それなくして、自己の特殊性の自覚なしに到達する平凡な生活者が加害者である。

そのように定義をしたかったのだ。生まれながらに平凡に安住し、平凡を善とするものが、不具者を苦しめ、私生児に偏見の眼差しを送り、弱いものいじめの卑怯者となる。そういう平凡志向者が加害者であるといったまで。自分は他人とは違うのだという特殊性の苦しみを乗り越えた平凡なる生活者は、決して加害者にはならない。若い時分の自己否定が大切であろう。

子どものころから自分は人と違っていた。違うという意識を強く持っていた。人は無難を好み、権威者に従順であったのが不思議でならなかった。大人が子どもの見本であったからで、誰もそれを疑わなかったようだ。自分はもっとも身近な家庭に、どうしようもないバカと思える大人がいたこともあって、大人に対する妄信的尊敬心は芽生えなかったのだろう。


毎日毎日母と格闘し、理不尽な大人の考えや要求に屈しないように頑張った。確かに妄信する前に、自分の目でしかと見、自分の頭で考えることは大事である。「物を疑え、事象を疑え」は科学の基本であるが、疑うことの基本は批判ではない。本当に信じたいがゆえに疑うことが必要であろう。神を妄信する人は根拠など必要ないが、神を信じたい自分には根拠がいる。

本当を求めるなら安易はダメだ。本当に信じたいなら、信じるに値するものを見つけ、納得すべきである。「何でも考え、カンでも知って、何でもカンでもやってみよう」と教えてくれたのが科学のわが師である物知り博士ことケペル先生だ。少ない情報のなかで少ない情報を得る、それが学習だった。情報が氾濫気味の昨今は、学習意欲がなくなるのも理解に及ぶ。

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