「ごめんなさいを言わぬ女がいい」。といえば誤解を受けるかも知れぬが、本当に心からの反省とはいえぬ繕った謝罪もある。気持ちのこもらぬ口だけの社交辞令的な謝罪なら、ない方がまだましだと思っている。「謝罪とは何か?」。謝罪は言葉なのか、心なのか?その前に、「言葉は心を隠すために与えられた」というマラグリダ神父の言葉を考えてみる必要がある。
女はなぜ言葉を好むのか?おそらく、「言葉」の効用を知っているからではないか。言葉の効用とは、言葉で人を簡単にそそのかせることを女どもは本能的に知っている。他方、男は言葉を信用しない。特に手練れた男は女の言葉を真に受けたりしない。「自分は言葉そのものに興味はない。行動で示してくれんか?」。言葉に頼りきり、行動しない女を動かす言葉。
言葉=心であるべきだが、そうもいかない男女の関係。気持ち(心)のこもらぬ謝罪が存在するのは、謝罪は言葉でするものと思っているからだ。心のこもった謝罪というのは、言葉を必要としないという体験をした。企業の不祥事などでなされる3名くらいの役員らが一斉に、「申し訳ありませんでした」と腰を折る。あれほどバカげた謝罪はなく、まさに羞恥の極みである。
ああいう三文芝居的な演技謝罪を日本人は好むのか?形式ばったことを好む日本人、付和雷同型の日本人は、謝罪の場面でもあれをやる。バカの一つ覚えじゃあるまいに…。お前も日本人だろ?といわれても、あれほどみっともない謝罪は自分にできない。あの者たちは、どういう態度が消費者に受け入れられ、どういう言葉が謝罪として有効かを考えてやっている。
謝罪に形式は要らない。むしろ形式ばった行為が、真実を「虚」にさせている。まあ、元々「虚」であるなら何をやろうが…。謝罪のように見えない謝罪こそが真の謝罪也。山一證券社長(11月18日の記事)の、なりふり構わぬ態度と言葉、あれを笑う者は形式主義に侵された人間か。一般的に謝罪というのは相手に許しを乞うためになされるようだが自分の考えは違う。
謝罪とは罪を明らかにし、罪や過失を正直に認めること。ゆえに謝罪には一切の言い訳をしない。言い訳がましい謝罪は罪を認めていないがゆえに謝罪と伝わらない。つまり謝罪は自らの一切の、「利」を放棄することである。ましてや相手に許しを乞うなどを目的とせず、許さないという相手の怒りを受け入れて反省し、悔い、自らが高みに上ろうと精進することだ。
一切の言い訳もせず、弁解もしない謝罪ができるようになるには心の修養が必要である。人はこれを人生経験で得なければならない。承服できぬことを承服してこそが、相手目線に立った謝罪である。相手に過失があろうとも、とりあえず謝罪の場面ではそれを不問にすることだ。「文句も不要、謝罪も無用、賢者は黙して立ち去れ」と、カーライルから学んだことである。
そうした無言の善意が相手に伝わるかどうか、触発を得るか否かはは相手の問題であり、自分の預かり知らぬことである。しかし、人間は仏ではないのでそうばかりもいっていられない。理不尽な相手には自己の保身のために怒ることも、発言することも必要である。過日、体験談としてここに記した。前者は歯科医院。後者はVAN Shop『せびろ屋』の一件である。
歯科医院は自分が紹介した知人に対し、自分と同じ過ちを犯した。自分だけの時は不問にしたが、立て続けに知人に犯したのは、明らかな気持ちの緩みである。自分は捨て身の換言を決意し、帰り際に次回の予約を取る受付嬢に「今日で最後です」といった。受付嬢は驚き理由を問う。「〇〇さんに一切を話している」とし、その場であれこれ言う事ではない。
前日、古参の衛生士に事の始終を話し、「明日が最後なのであなたに処置をしてほしい」と伝えていた。言葉で伝えること、伝わることもあるが、信長の傅役(養育係)であった平手の爺こと平手政秀が、いっこうに所行収まらぬ信長に腹を切っての換言を決断した。こういう美学に殉じ、ささやかながらという気持ちである。確かに行為は言葉に勝る教えとなろう。
同じ行為であっても、感情的な立腹というのではなく、冷静でなければ相手を思う心は伝わらない。斯くいう自分も三島由紀夫と同様のアナクロニズムを背負った人間だろう。ただし、田舎によくいる、「ワシに任せろ!」的な威勢のいいオッサンとは事を異にしたい部分もある。人のために行動する思い上がりを諫めるには、自分の勝手な独善と自らを諭すのがよかろう。
前日に古参の歯科衛生士には、「明日で最後にするから、あなたに処置をしてほしい」とお願いしておいた。「開店一年で緩みが出ているように感じるので、お仕置きの意味で…」と伝えた。彼女はさすがにそういうミスはないが、開店一年の同輩で、注意する立場にもない。「その日全員で話し合いました。〇〇さん身を呈しての行為に感謝します」とメールがあった。
思うにそいう捨て身の行為を自分はよくやる。そこに美学を感じ取っているのだろう。いつも冷静で、腹を立てて憤慨はない。冷静な行動でなければ相手の自己啓発を生まない。別の『せびろ屋」の一件は、あり得ない責任転嫁をされたことで、腹も立ち、防御の意味もあったが、怒りの方が強かった。善に気どりの仏さま人間を是認する気など毛頭ない自分である。
頼んでもいない商品を金おいて持って帰れなど怒って当然である。ゆえに遣り合う必要があった。こんなことされて黙っていられるかを見せつける必要を感じ、本気で遣り合った。言うときは言うのも男である。その必要性がないなら言わないでおくのが賢者である。機に臨めば応じて変わることを旨とするが、どちらが好きかは遣り合う方だが、晩節を汚すのは避けたい。
世の中にうごめく様々なことに遭遇し、それをどう感じ、どう受け入れて、どのように処理するかを、人間は無意識に行っているが、感じ方、受け入れ方、処理の仕方で人間は異なる。したがって、製品や商品を提供する側の企業にとっては、なかなか一筋縄ではいかない難しさがある。個人の医院や商店と違って全国相手の企業にとって、クレーム対応も至難であろう。