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親になる & 親をやる ②

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昨今においては大学にいく目的は2つ、「なる」と、「する」に分けられる。「大学生になる」のが目的なのか、「勉強する」のが目的なのかだが、近頃の大学生は、7:3くらいで前者であろうと、これはあくまで自分の見立てである。ただ、「学歴社会」という言葉は、「なる」を目的としている。好んで年寄りになりたいという人はいないだろうが、誰もが年を重ねて行く。

若者には若者の生き方がるように、老齢者にはそれなりの生き方があるが、どちらに共通することもある。巷に言われるのが、「他人の気持ちを考えて行動せよ」である。他人の気持ちを考えて行動するとどうなる?考えないでするとどうなる?答えは違ってくるが、他人の気持ちを考えず、自分しか見えない人間は、過保護に育てられた子どもに顕著な性向である。

さらに甘やかされて育った人間の特徴に心の会話がない。こういう事例をあげてみる。甘やかされて育った男が結婚し、子どもができた。やがて男に好きな女ができ、逢瀬を重ねることになる。彼はその女性のところに行くと、「死ぬまで君と一緒にいる」という。妻のもとに帰ると同じように、「死ぬまで君と一緒にいる」という。彼は嘘をついているのだろうか?

そうではない。彼は嘘などついている気は毛頭なく、彼にとって存在しているのは現在だけだということ。毎日毎日、あっちに行き、こっちへ行き、そこでは本当の気持ちを言っていた。つまり彼は、その時その時で、自分が一番楽になれる言葉を吐いていたのである。こうした衝動的な人間は、子ども時代に甘やかされたことで時間の観念が異なるのだから救いようがない。

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誰でも簡単に親にはなれるが、親に、「なる」と親を、「やる」に分類すれば、親をやるのは難しい。人には「なる」が、人を「やる」のは難しいように…。近年、不倫が横行するがこれを、「他人の気持ちを考えて行動せよ」は一方通行のようだ。この場合の他人とは妻をいうが、不倫の相手女性も他人である。妻の気持ちを考えないが、相手女性の気持ちを考えるから逢っている。

「誰が誰に好意を抱く、あるいは恋をし、愛してしまおうとも、その気持ちに罪はない」という言葉は、普遍的で真理と思っている。言い換えるなら、「誰が誰を好きになってはならない」ということは避けられない。それを道徳や倫理で戒めることはあっても、それはあくまで制御であって、感情そのものは罪悪とはいえない。ただ、行為が道徳や法で規制されることはある。

それを秩序という。人間社会に秩序は必須である。かつて浮気は姦淫と法規制された時代もあったが、も罰せられるのは女性に限定されていた。「男はよくても女はダメ」というのは、男中心社会の名残りである。浮気は感情の発露であり、それを抑制するのが理性だが、何のために抑制するのかを考える時、単に倫理や道徳を守るためというのは子どもの発想だ。

大人はそうもいかない。80km/h制限の高速道路を100km/hで走るのは違反であるが、「何のために守らにゃならんのか!」と考えたときに、「別に危険という意識もないし、取り締まりにかかったらそれも仕方ない」という事で違反をする。なかには、「取り締まりにかかることはないだろう」とタカをくくって違反をする者もいる。正しくない点ではどちらも同じ。

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正しくないことは絶対にしないという信念と実践で生きる者などどれほどいようか?学校の校則のようなくだらない決まりも、決まりとして存在するが、決まりや道徳のような定言命法よりも、価値に高いものがあると若いころから感じ取っていた。不倫や浮気を性目的とする人を、自分らの年代的には肯定はできないにしろ、性も人間の重要な問題であると否定はしない。

人は誰も人間としてのの問題を背負っており、個人と社会の枠のなかで、公益と私益をうまく妥協させて生きている。人間肯定論者は、人間が究極的に目指すものは人間であることを肯定するもの。どのように考えてみても、人間の楽しみは他人の不愉快に支えられているといいう事実を知れば、平凡な人生を生きる者は、どことなくズルく立ち回っている人たちに映る。

ある意味核心、ある意味偏見であるから、理解されぬこともあろうが、平凡であることがまるで「善」であるかのような言い草は、強者として生きる人間にとっては、「悪」なのである。なぜなら、善良なる市民は常に被害者の立場をとろうとする。実際においては加害者であるにも関わらず、常に被害者づらをする人間の類に、「善良な人間」が含まれている。

こういうズルさを秘めているばかりか、善良な人間というのは、彼らの腹にある悪を認めない。それが善良な人間だと勘違いしている。自分のなかには悪などないと決めつけて生きている。それが善人というなら、「欺瞞人間」ということだから笑って許そう。欺瞞人間を批判してみても治るものではないから、ほっとくに限る。個人的には是々非々に対応すればよい。

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それが偽善者との付き合い方。曽野綾子の『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか』を開いたとき、彼女は達観したのか、それとも偽善を隠すための偽善を編み出したか?など想像をした。彼女は犯罪者になった息子を守ると公言した女。そのような人間に理性の欠片もない。彼女は多くの著書で美辞麗句を並び立てるが、実践とは無縁の人。文筆業とはそういうもの。

妻子ある男に不倫をやめさせる最善策は、相手女性が去ること。それで間違いなく終焉する。女が逢いたいと、それを拠り所に都合のいい逢瀬を重ねているが、逢うを拒否されることで、妻帯男が独身女と性行為する資格がないのを知る。男がバカなら女が賢く明晰であればよいのだが、残念ながら一部の女は感情と淫欲を抑えられず、妻帯男の性戯に溺れてしまう。

それらのことは当人同士の問題で、他人がいちいち目くばせすることもないが、下世話好き人間もいる。不倫は刑事罰のない罪であるから、正当な罰のある立小便にさえ劣るが、他人の不倫を寄って集って、あれこれこき下ろす善人気取りの部外者がこれまた滑稽だ。「踊る阿呆にみる阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々」の論理が、不倫を増大させているのかも知れない。

親には成れても親をやるのは難しいように、人に生まれて、人間をやるのも難しい。男女が意気投合すれば不倫関係になるのは簡単である。あげくこの場合は、「やる」のも難しくはない。すべてにおいて、「なる」より、「やる(する)」は難しいと思っていたが、なるほど、例外があった。さらに熟考すると、男女関係は(真に)親しくなることり、やる方が簡単という、妙な結論となる。

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