Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

親になる & 親をやる ①

$
0
0
表題の意味の違いはどうであろうか?これはネットで、「尊敬される親になるにはどうすればいいでしょうか?」に引っかかった。「なる」である。どうにも違和感のある、「尊敬される親」であるが、「なぜ尊敬される親になりたいのか?」と聞いたら何と答えるのだろうか?そんなことは一度も考えたことのない自分は、なぜそういう考えにないのかを考えてみた。

と、同時に、「尊敬される親」になることで何がもたらされるのかも想像してみた。後者の方は簡単に答えがもたらされた。「心地よい」、「気分がいい」、「嬉しい」、「自己満足感」などなど、すべてが情緒的なものである。同じように、「立派な親になるのは?」、「子どもに好かれる親になるには?」などが乱舞するが、そういうものが本当に大事なことなのか?

イメージ 1

という疑問しか湧かない。自分の疑問というのは、子ども側からの視点で親を捉えよう、意識しようとしている点で、対人関係(親子であっても)において、そういう客観的な視点は大事であるようでもあり、あまり意識することでもないようでもあり、「どちらが良いか」というよりも、価値観の選択に思える。なぜなら、周囲や他人を意識しすぎると思ったことが言えない。

つまり、「こういえば相手がどう思う」とか、「こんなことを言えば嫌われるのでは?」とかについて、どういうスタンスを取るかによって、人の生き方は変わってくる。とかく嫌われがちな人は、「相手かまわずズケズケという」など言われるように、だから人は嫌われないように意識をし、発言を控えるのだろう。自分は最近意識して発言を控えるようにしている。

が、これは相手に嫌われたくないからではなく、他人の生き方に他人があれこれ言わずとも、本人が自身で考え行動すればいいと思うからだ。が、そういう理念を抱きつつも、とても本人が自身で考えたとは思えないような、言葉は悪いがバカげた言動については、指摘をすべきか否かを迷うところがある。そんな場合でも、人間関係の親密度を基準に、「言う・言わない」を決める。

若い頃は、あまりのバカげた言動に対し、「みるに忍びない」などと善意を発動させていたが、それが相手に採って善意でも何でもないことは多だあったであろう。人間関係でとかく問題になるのが、「善意の押し付け」だという。確かにそれはそうであろう。そういう疑問を背景に、「善意とは何であるか?」を考えたとき、「善意」には二つの意味があるのを発見した。

イメージ 2

「一日一善」の善は、「善い行い」である。そういう気持ちを、「善意」という。もう一つの「善意」の意味は、「相手を思う心」である。災害地などへの、「善意の募金」とは、善い行いを超えた、「相手を思う心」が主眼であろうし、あるべきかもしれない。募金をする自分の心を評価するのではなく、相手を思い労わる気持ちから発露された行為に純粋性がある。

募金をする自分に美しいと思いたい、そういう気持ちも善意行動の引き金になるけれども、昇華という点に於いては純粋性が勝る。「何をも期待ぜず、見返りを求めぬ親切こそが美しい」というのは、誰が考えてもそうであろう。「贈り物をしたのに礼の一つもない」らしき言葉はよく聞く。貰って謝意をしない側が悪いのか、文句の一つも言いたい贈り主が悪いのか?

議論の分かれるところだろうが、好き嫌いという判断以外に答えは出せない。それくらいに難しい問題だ。ただ、何らかの反応や言葉を期待した贈り主に対して疑問を抱く自分である。さりとて、礼を言わぬも非礼である。「忙しさのあまり、礼をいうのを忘れていた」というのもたまに耳にするが、事実であっても方便であっても、それは相手には関係ないので非礼となる。

「忘れていたから罪はない」などという考えの持ち主は、ひと年とった大人にしては未熟である。他人に金銭や物をを貸与して、請求した時に、「ゴメン、忘れてた」というのを自分は許さない。「金を借りて返済を忘れるような人間は、その資格はないと頭に入れておけ」と言ったりした。それに対して、「何様のつもり」と思う者、「確かに言われるとおり」と自戒する者。

イメージ 3

どちらであっても、自分の役割はそこで終わっている。金を貸したはいいが、請求しづらいというのをよく聞いた。そういう人間のためにも、借りて知らんふりをする人間には、金さん的な断罪をする自分だった。それが公益だと考えていた。公益性のためなら、自分の言動は正しいと考えていた。相手に憎まれるなどは屁とも思わなかった。今はそういう若さを卒業した。

理由は、周囲の人間関係が爺・婆であるからだ。若い時の人間関係は当然にして若者であり、彼らの将来のために是々非々な対応をしたが、爺婆相手に今さら何をいったところで無意味であると達観する。短所・欠点を引きずっている人に、今さら指摘したところで、豚に真珠である。改める気があるならとっくに改めているだろうし、特に時間や金銭は観念的なもの。

同じように、癖とか習性というのも、50年も60年も続けていれば、直しようがない。自己変革は、かかった年月だけかかるというのを読んで納得した。遅刻を正当化していた自分は、「目が覚めぬものは仕方ないだろう?」と、自己意識外の不可抗力と思っていたが、やはり遅刻はダメだ、良くないと感じ、改めようとしたら目が覚めるようになった。やはり意識の問題だった。

話の続きでいえば、爺婆相手に余計なことを言わない。今さら善意などというのは遅きに失すもので、未来のない彼らに善意などはないとしたものだ。明晰な老人といえる人は語らない人である。自分はそこを目指している。自己の主張はある。考えもある。それは老若に関わらず有するもの。したがって、個人的には躊躇いなく披露できるが、述べるにとどまっている。

イメージ 4

同じことを他人に向けて言うことはない。書くだけなら罪はないが、口を開けば罪を作る。所詮は、「善意」が、「相手を思う気持ち」であっても、悪意に取られて善意の資格はもはやない。正義の行使などと若さゆえの傲慢である。月光仮面のおじさんも、40、50歳には引退したハズだ。バットマンしかり、白髪で皴々顔のスーパーマンなど、見るも無残であろう。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>