公立中学校の35歳の男性教師は、女子生徒が中学2年だった去年1月から授業前の校舎内などで複数回、みだらな行為をしたという。関係は、女子生徒が高校に進学した先月まで続いた。男性には妻がいるが、県教委の調査に対して、「頼りにされ、女性として意識するようになった」と話しているというが、神奈川県教委は、男性教師を24日に懲戒免職処分とした。
神奈川県は数年前にもわいせつ行為など不適切な言動があった公立学校教員7件の懲戒処分を行っている。7件のうち、飲酒しながら部活動指導した高校の男性教師(24)、男子児童10人にわいせつ行為をした小学校の男性教師(40)など5人は懲戒免職となっているが、小学校で女子児童のスカートをめくったなどで懲戒免職となった男性教師(59)は事実無根を主張、争う姿勢をみせている。
文部科学省が公立の小中学校や高校などを調査した結果、2013年度にわいせつ行為やセクハラで処分された教師は205人で過去最多となった。わいせつ画像を生徒や同僚などにメールで送る事例が増えている。体罰による処分も3953人と前年度8割増の過去最多となった。文科省は、数が増えたのは2012年に体罰で生徒が自殺した事案を受け、厳格な調査をした結果とみている。
教師が生徒にわいせつ行為、警官が電車で痴漢行為、元検事や弁護士が不倫をする時代である。何があっても、「驚き」という言葉は、報じるメディアにも聞かされる我々でさえもなくなってしまっている。引ったくりを捕まえた高校生が、捕まえた相手が警官だったと知ったとき、「世も末だと思いました」と述べたという。頭のいい高校生だなと率直に感じた。
そういう場合は、「いや~、驚きました」。「びっくりですね」などの感嘆言葉を吐いて繕うのが普通だが、「世も末」というのは、冷静に事の在り方をとらえた批評である。高校生あたりでこういう論評はなかなか出せない。それに触発され、「泥棒を 捕まえてみれば 警察官」 という記事を書いたが、「世も末」とは、仏教の末法思想による言葉で、「この世も終わり」との意味である。
また、「救いがたい世であること」も指す。それはそうだ、取り締まる側が泥棒したり、痴漢をしたり、人を教え導く側が快楽に乗じるなどは、「世も末」以外に言葉はなかろう。記事にも書いた表題は、「盗人を捕らえてみれば我が子なり」の慣用句をもじったもので、慣用句の意味するものを改めて考えてみたい。捕らえた盗人が我が子というのは、まさに驚きである。
これはそういった事象を捉えているのではなく、「人は誰でも自分の子を買いかぶるものだ」ということを現わしている。他にもいろいろな意味を感じることもできるだろう。犯人が我が子だと分かった時、警察に突き出すべきか、黙って見過ごすべきかなどと、思いもよらない意外なことに直面し、始末に困ることについて、一考せよと突きつけられているようでもある。
これによって、ある種の親の力量が試されると自分は考える。他人がやれば犯罪だが、身内がやると普通のこととまではないにしろ、身内の犯罪を庇い、隠そうとするのが親心というもの。これをして、「親バカ」というものだが、常々「親バカ」に批判的な自分は、子どもを突き出すというより、じっくり膝を立てて話し合う。その子のためには何が良いかを話し合う。
その結果、隠匿することになるかもしれない、自首させることになるかもしれない、未体験のことゆえ分からない。いずれにしろ、その子になにが最善かを、親として、先人として思考し、結論を出す。その際、子どもの態度も重要だ。親個人の判断や価値基準で子どもの良し悪しを決めるのは良くない。子どもの良し悪しは子どもにリンクさせ、一緒に考えるべきものと思う。
何よりも子ども自身の人生であるからで、親が決めることは製造者の傲慢である。会社を興した創業者には、創業者利得というのがある。起業利得ともいう証券用語で、会社設立に際して引き受けた株式を売却して取得する利益。株式市場で売却した場合、株式の時価と払込額面価額との差額をいい、利益率の高い企業の創業者ほど大きな創業者利得を得られる。
創業者利得はあれど、親が子どもから恩恵を受ける製造者利得というものはないと考えている。これは子どもを持った時から、あるいは持つ前からの持論であったが、つまり親は子どもへの義務しかなく、子どもから何がしかの権利というものは持ってはならないと戒めた。「親は子どもから親孝行をされる権利」などと吹聴する親は、「親バカ」の権化と見下していた。
子に親孝行を命じる親がいるなら、無視すべきである。親孝行などは主体的なものであって、子どもを愛し、大事にし、捨て身の覚悟で育てた親に対して、自然に育まれ、芽生えるもの。そう考えるなら、親孝行を強要する親というのは、欲の皮の突っ張った親と自ら公言しているようなもの。だから、「親バカ」の権化と称してみたが、こんな言葉を吐く親の憐れなりきである。
子どもが恨みの果てに父親を刺殺した。居合わせた母が子どもの身代わりになろうとするのは理解できる。が、現場の状況や動機や意図などを分析すれば、母親の作り話の自白が嘘であるのは明々白々となる。気持ちは分かるが、現実認識という点で甘い。母が甘いのはそれでいいが、母を殺した子どもを前に父はどのように対処するだろう。我が子を助けに炎に飛び込む母とは違う。
父は息子と夜を徹して語り合うかもしれない。起こした行為は元には戻せない。ならば、今後の息子の在り方、身の振り方、などについて時間の許す限り語り合うであろう。罪は行為者が負うものであり、服役した後に心の支えになるよう努める。身代わりになりたいのも近視眼的な母の愛情なら、遠くの岸から見つめて支える父親の愛情。これは善悪というより質差であろう。
印象に残るは盗人の息子を警察に突き出した母である。こういう母を目にするなら、母親の定義は難しいが、稀有な母だと考える。子を宿し、実際に子を産むなどの行為は男の自分には永遠に理解できぬことであるが、それでも我が子を殺める母親がいるという現実。これも稀有な母親という理解に及ぶしかない。付和雷同志向の日本人であればこそ少数派は輝くのか?
いや、少数派は葬られるものなのか?組織のなかで浮いた人間がいる。例えば貴乃花親方が話題に上っている。良く言えば一本気質だが、それも裏を返せば融通が利かない偏屈男にもなる――。そういう貴乃花親方を前に彼を身近に知る兄の花田氏は、「彼は損得の計算ができないかもしれませんねえ。だから私とも疎遠なんじゃないですか?」と印象を述べている。
利害や損得計算を念頭に行動する人間を打算的というが、良い意味では使われない。が、組織学のなかでは貴乃花親方の在り方は主流とはなり得ない。ばかりか、排除の憂き目にあう。貴乃花には彼の正義があるのだろうが、組織というのは一人では変えられない。自分は村社会に残る悪習や弊害に一人で立ち向かったことがあるが、その時は根回しをしたこともある。
しかし、裏では確約を取り付けても、公の場では多勢に無勢ということになる。裏で取り付けた話が、「そんなことは言ってませんよ」と公の場で覆されたとき、社会は実態である。生きて動いているものであるのを実感した。それぞれが自身の利害で多勢につこうとする。それを罪と責められない。老害を排除するパワーと、どちらが自分たちの利益か、熱意で訴える。