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三島クーデター、成功の行方

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よもや成功するなどとは思ってもみなかったろうし、後の青写真など考えもせず、掲げることのなかった三島由紀夫は、主張通りに国軍となった市ヶ谷の隊員数名もしくは数十名、あるいは数百名は、重火器庫から弾薬・小銃など持ち出し、武装して三島隊長の元へ駆けつけたと仮定する。であるなら、「楯の会」三島隊長はどういうシュミレーションを描いていたのか?

いや、描いてなどいなかった。その後の綿密な予定など立てていなかったろう。数十名にしろ、数百名にしろ、賛同隊員の蜂起にもっとも困惑したのが三島隊長自身である。何をするにも予定のなきままに、隊員にいかに指揮し、命に添わせるのか?隊列を組ませ整列させ、その場でとりあえず、隊長の訓示などと悠長なことなどやってる場合か?して、三島隊長の決起後のプランは?

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そうこうする間に、政府は他の基地から自衛隊隊員・機動隊隊員などを呼び集め、市ヶ谷駐屯地包囲にかかれば袋のネズミである。プランも予定もなく、集団訓練すらなくて軍を統率できぬ三島部隊は右往左往するばかり。あげく包囲した駐屯地に向かって、拡声器から声が飛ぶ。「首謀者に伝える。周囲を完全包囲した。30分以内に武器を捨ておとなしく投降せよ」。

ならばこの場に及んで一戦交えるという気概もなかろう。決死覚悟の三島隊長はともかく、蜂起した隊員には妻子もいようし、ならば命あっての物種だ。あり得ないと思いながらも、図らずもこのような想像をしてはみたが、現実感なき机上の空論である。自衛隊隊員とてサラリーマンである以上、お先の見えぬクーデターに賛同し、生活の糧を葬るなどあり得ない。

かくなる上は投降拒否の三島隊長が、一戦交えんとするなら、それは誰のため?何のため?これ以上のシュミレーションは無惨であり無理があるので止めるが、ようするに、「三島クーデターの成功」とは、何をもって成功なのかということだ。その答えは求めるまでもなく、三島本人ですらわかっていないことだろう。あることを行為するとき、結果は2通りある。

成功か。失敗か。普通は成功を良しとするが、三島が成功を目論んでいた節は見られない。三日天下と言われた明智光秀のクーデターは、実際は山崎の戦いで秀吉に敗れるまでの実質13日であったが、市ヶ谷の政変鎮圧は、数時間後には成されたろう。などを考えるに、三島が蜂起に成功するというプラン及び、その後の緻密な行動計画はなかったと考えるのが妥当。

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そのようなことを論理建てて思考するに、三島のクーデター(のように見える)行為は成功を目論んではいず、あらかじめ失敗を予測していたと思われる。一分の成功さえも意図しない行為は乱痴気騒ぎの狂信的行為とみる人もいれば、行為に意味を見出す人もいる。中曽根防衛庁長官(当時)が言葉少なに吐き捨てた、「世の中にとって全く迷惑だ」というのも理解に及ぶ。

あの演説をして筒井康隆は、「とてもじゃないが演説の体を成していなかった」と言わしめたが、演説家ならずとも誠に下手な演説であったのは否めない。音声は風と怒号にちぎられ、取材に集まった報道陣のレポートの声に混ざっていた。聞こえぬ話に耳を傾けるなどは苦痛であり、野次の声は次第に増えていく。三島はしきりに、「清聴せい」と呼びかけた。

が、隊員に清聴する義務はない。三島は、「それでも武士か!」と叱責した。これには隊員も笑うしかなかろう。彼らは武士でも何でもない、ただの自衛隊員である。隊員の多くは東北の寒村から出稼ぎにきた者が多かったという。上官にあらずの一介の文士が、突如自衛隊隊員の命令者となって決起を呼びかけるなどは無茶苦茶である。三島に論理があったとは思えない。

「諸君は武士だろう」と、この言葉を二度も繰り返した。なぜ、こんな表現をしたのだろう。三島は自衛隊員を武士だと思っていたのか?そうではあるまい。めそめそする息子に対し、「男の子でしょう?めそめそするんじゃない!」と言い含める母親のごときである。三島は隊員を、「諸君は武士だろう」と言い含めたのである。その前提で、次のように扇動した。

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「武士ならばだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」。何とも虚しいかなこんな言葉が隊員の心に触れるなどあり得ない。自衛隊隊員らが憲法を守っているのではなく、国民として憲法を守っているのであり、防衛庁という組織が憲法を守らせていることでもある。三島自身とて憲法を守っているはずである。日本国憲法下に生息する国民の義務としてである。

「憲法がある限り、諸君は永久に救われんのだぞ。自衛隊は違憲なんだよ、自衛隊は違憲なのだ」。遂に三島は自衛隊隊員を逆なでするような発言まで用いてしまう。「はい、わかりました。自分たちが違憲の職業に従事しているなら、国家を転覆させて、違憲状態を変えさせねば…」などと、誰が思うだろうか。これはもう演説というより、国家へのハチャメチャな野次である。

生徒会長の立候補演説の方がずっとマシである。三島のこの日の行動は、二か月前から周到に計画されていたものだが、ならばどうしてこのような演説であったのか?三島は本気で、真剣に、あの日11月25日をもって自衛隊蜂起など考えていたのではなかろう。彼は妄想実験をしたのではないか。辞世を用意し、切腹用の担当を準備し、国家を騒がせた責任を取る覚悟で始めた。

あれだけのことをしでかしたのであらば、死ぬ理由には十分すぎるほどの理由がある。三島はハナっからこの日、自らの生を閉じる覚悟でいたようだ。三島らしいナルシシズムに描かれた脚本であった。「万が一にも、自衛隊の決起があったなら…」という考えは想定していなかった。ゆえにすべてが筋書き通りの結末となった。三島の辞世は以下のようであった。

 益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐えし 今日の初霜

 散るをいとふ 世にも人にもさきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

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三島自身は、己の行為を花ある行為と思ったかも知れぬが、感じ方はそれぞれである。辞世にはその人の生きてきた意味と、死ぬことの意義の二つが読み取れる。三島自身が逆にこの場を目撃する立場であったなら、「三島の行動は痛々しくも滑稽、一分の成功のない愚挙」と記したろう。三島は敬愛する大塩平八郎について以下のように述べている。

「大塩が思うには、我々は天といえば青空のことだと思っているが、こればかりが天ではなく、石の間に潜む空虚、あるいは生きる竹のなかに潜む空虚も同じ天である」。大塩の行為を、"かたくなな哲学"と共感を得た三島の記憶は、その精神性についての論評を除けば、「ありえないこと」をあらしめる行為であったことだけは、まぎれもない確かなことであった。


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