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仮面か正体か!三島由紀夫の11・25 ③

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三島の死については様々な論評がある。が、「やはり、ある瞬間、鉄砲が撃たれなかったらだめでしょう」という言葉のなかに、三島の意図する美学があった。こんにち、鉄砲を撃ちかけられることがないのは三島にとって想定内である。クーデター蜂起の後始末は司法によって断罪され、獄舎につながれる。そのような辱めは彼の辞書にはひと文字もなかったろう。

となると、自死以外に彼の美学は叶えられない。三島という人物は、非常に明晰な思考力があり、優れた感性の持ち主であることに異論はないが、そんな彼であっても、論理的に思考すると言う点において問題があったのではないか。あるいは三島は、論理的に思考することを敢えて避けていたのかも知れない。彼には終止美学的感性判断が優先していたのかもしれない。

女性が優越する家庭で育った三島は、男らしさというものにコンプレックスを抱いていた。また自己の貧弱な肉体も男らしさにはそぐわない。彼は優等生であり秀才であり、大学卒業後は上級職公務員になるが、学習院時代から小説を書くことを得意とし、東大に進学してからも小説を書いていた。彼にとって小説は人工美であり、コンプレックスを補償する一面があった。

三島の行動および自死については語りつくされており、今さら何をいうすべもないが、11・25の彼の命日に三島を思い起こす人は少なからずいるし、自分もその一人である。つまりあの日の三島のことは、我々の精神史に多大な影響を与えた、「永遠の瞬間」をあらしめたものであった。様々な側面のなかで三島の行動を、「大変孤独なもの」としたのは小林秀雄である。

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小林は、「三島の死は、我々を浸している疎隔感と、『何か大変孤独なもの』を通してのみ理解されるだろう」と述べているが、少なくとも当時は同じ事柄を見抜いていた人、感じていた人は少なくない。駐屯地のバルコニーで、野次と罵倒と嘲笑の渦巻くなか、誰一人として耳に入れようとしない三文役者の、死を賭けた切なる叫び声は、まさに孤立無援の様相であった。 

指示・命令系統で動くよう鍛錬された自衛官に、決起や蜂起を促すアジテーション演説などは茶番であり、パフォーマンスとしか映らない。かつて左翼のアジ演説で、「我々はあしたのジョーである」といった者がいた。三島のように終止真面目に訴えかけるより、聴衆に聞いてもらうため、聞かせるためには、「我々はあしたのジョーである」などは笑いの効用である。

坂口安吾はこのように述べている。「笑いは不合理を母胎にする。笑いの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであろう。ところが何事も合理化せずにいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。無意味なものにゲラゲラ笑って愉しむことができないのである。そうして、喜劇には風刺がなければならぬという考えを持つ」。

まるで三島演説の所感を述べているようである。もし、坂口が生きていたら三島のアジ演説には冷ややかな論評を与えたであろう。三島は知る人ぞ知る非常に几帳面な性格で、割腹自殺の前にも依頼された原稿の最終稿を、時間通りに仕上げ、これを編集者に渡している。死を覚悟の前の行動としては、多少なり「?」は否めないが、それこそが三島の几帳面さである。

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ナルシシズム傾向の強い三島は、自らの人生を自ら美的に演出した。自己の美学に陶酔し、ぎりぎりの場面においてぎりぎりの決断で死んだ。「日本人は今でも、ハラキリするのか?」など、外国人にとって驚きでしかない。こんにち、「ハラキリ」自殺するなどの日本人は誰一人とていないが、その意味で三島は、アナクロニズム(時代錯誤・時代遅れ)の思想家であったといえる。

三島由紀夫を夫に持った妻の平岡瑤子は、三島自決当時33歳であった。何も知らされていなかった彼女にとって、日本を震撼させた三島の一連の行動のニュースは、乗馬クラブの帰りの我が家に向かうカーラジオで聴くことになったが、いかなる心境であったろうか?夫の右翼ゴッコを、お遊びとして黙認していた妻はその日、ゴッコがただならぬ事態になったことを知る。

三島由紀夫、本名平岡公威は生後まもなく祖母に取り上がられ、母親は4時間置きに授乳をする以外は、わが子に逢う機会はなかった。祖母は孫の遊び相手に男の子は危険とし、三人の年上の女の子を呼んで、遊びはおママゴトや折り紙や積み木に限定され、およそ男の子らしくすることを許されなかった。そんな状況から、病弱で男の子の遊びを知らない三島に育つ。

男の子遊びを知らぬ初等科時代には、級友男子にいじめられることもあったが、反面、三島由紀夫の丁寧な言葉遣いや礼儀・礼節・義理立て報恩、人との約束の時間厳守や几帳面さは、祖母の影響が大きく作用したのではと母親は分析している。幼き三島母子は、祖母によって離れ離れにされたが、これがかえって、母子の絆を強めるという側面も持っていたようだ。

イメージ 4長年保育に携わった保育士は、「子は育てたように育ちます。子ほど、親の育て方がそのまま出るものはありません」というが、三島においても実感させられる。男子の名に、「功」と名づける親は少なくない。近年はキラキラネームと称する名が流行りだが、「功」という名は、「いさおし」という言葉を語源にする。「功(いさお)し」などは初耳という人もおそらくいる。

① 勇ましい。雄々しい。② 勤勉である。よく努める。③ 手柄がある。勲功がある。などの意味があり、「古来から此難事業に全然の績(いさおし)を収め得たる画工があるかないか知らぬ」と、これは漱石の『草枕』の一節である。 「いさおし」を賛美する武士がそうであるように、三島は自身の奥に潜む男の、「いさおし」を呼び起こす肉体改造や男の美学を追及した。

三島存命なら現在92歳である。92歳の三島は想像つかぬが、ナルシスト三島は、「老醜」を嫌悪していた。彼は若き絶頂の美のなか、国に殉じて死んで行くのが望ましく美しいものと考えていた。年を取り、老醜の姿を我が人生に晒したくないと願っていた三島は、「肉体の思考」という思想に辿り着く。「神々に愛されし者は若くして死ぬ」は、三島の理想でもあった。


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