三島にとって死がなんであるかについては、実践するものでしかなかった。三島は埴谷雄高との対談で革命の真意について語っている。「やはり、ある瞬間、鉄砲が撃たれなかったらだめでしょう。死の情熱がなければ大学紛争なども遊びの延長にすぎない」。埴谷の言葉に満腔の賛辞を表明したが、その後に芸術家自身はどうすべきかという話になり、埴谷はこう述べる。
「ぼくのいう芸術家は生身で、しかも、死んでいるふりができるのです」。つまるところ埴谷は、「暗示者は死ぬ必要がない」ということのようだがこれに対して三島は、「いや、ぼくは死ぬ必要がある」と、真っ向意を唱えている。「二十一世紀の芸術家は死ぬのではなくて、死を示せばいい」。「死んでいるふりしかできないなら、それは歌舞伎俳優と同じじゃないか」。
「知行合一」を説く陽明学信奉者三島の行動はその思想に基づくもの。自らの思想を実践し、美に昇華する思想が陽明学である。安岡正篤を師と仰ぎ、同じ陽明学に傾倒する中曽根康弘は、三島自害の当日、防衛庁長官として以下述べている。「三島は彼の思想である、"知行合一"を完遂したのだろうが、世の中にとってまったく迷惑だ」。と、治安を守る側の意を述べた。
「仮面夫婦」から、「仮面舞踏会」、「仮面の告白」と文は流れた。仮面親子、仮面友達、仮面師弟、仮面社員…、仮面のついたものは結構ある。人が仮面をつけるのは動かざる自分の顔という土台が必要で、その土台が状況や環境の変化で常時ぐらぐらしていてはダメだ。仮面とはその人の真正の顔が創作した別の顔に過ぎないが、創作した以上はその人の顔である。
三島由紀夫の心は病んでいたのか、正常であったのかについて、病跡学者の間で激しい論争があった。病跡学とは聞きなれぬ言葉であるが、歴史上の傑出した人物の精神病理的側面を検討し、それが彼らの創造活動に及ぼした影響や意義を明らかにしようとする学問・研究をいう。作家としての三島の作品に精神医学の照明をあて、創作の秘密を解き明かそうと試みた。
「犯罪精神医学入門―人はなぜ人を殺せるのか」などの著書がある精神科医福島章は、東京医科歯科大学助教授当時に三島について、「自決のかなり前から、ある種の精神分裂病を病んでいた」と指摘する。その証拠として三島の最高傑作『金閣寺』をあげた。作品は、一人の青年僧が国宝・金閣寺に放火した後、自殺に失敗して捕らえられた実話をもとに描かれている。
三島は青年僧が国宝・金閣寺に放火せざるを得なかった心の必然性を、以下のように描いている。「総じて私の体験には一種の暗号がはたらき、鏡の廊下のように一つの影像は無限の奥までつづいて、新たに会う事物にも過去に見た事物の影がはっきりと射し、こうした相似に導かれて知らず知らず廊下の奥、底知れぬ奥の間へ、踏み込んで行くような心地がしていた」。
福島氏は、「こうした表現が凡人の想像力を超えた三島美学の世界と映るでしょうが、精神科医の目からみれば、これは精神分裂病の発病初期の世界です。しかも、共感とか理解とかいうにはあまりにも生々しく、自ら体験するか、ごく親しく患者と接しなければ書き得ない一種独特の雰囲気を持っている。精神医学書を何度読んでも、あのように描き出すのは無理です」。
氏は三島に診断をつけるとすれば、妄想症か、妄想型分裂病とした。妄想症患者は、ゆるぎない妄想の体系を、数年ないし時には何十年もかけて、がっちり組み立てていくものだという。福島説と対立するのが精神病理学者の梶谷哲男。彼は三島を精神病者ではなく、性格の偏った人物とした。低い背の丈、虚弱な身体、女の子として育てられた生い立ちなどをあげる。
これらから生じた強い劣等感を、並外れた強い意識的自己統制で克服していく。その過程で作品が書き捨てられた。さらには弱い自分の本質を隠そうと、一見、自己顕示的に振る舞うことで、三島は次第に現実離れした人間になっていったと分析する。さらに梶谷氏は、「仮に妄想症であったとしても、それは病気ではなく異常性格が発展したもの」と診断をつけた。
精神病とかかわりを持つ作家は、夏目漱石、芥川龍之介、宮沢賢治らがいる。太宰治も現代医学で境界性人格障害と言われている。創造性豊かな人ほど精神に異常をきたしやすい傾向があるとの研究もあり、トルストイ、ヘミングウェイ、アラン・ポーらがいる。女性ではシルヴィア・プラス、ヴァージニア・ウルフらがあげられる。プラスは30歳で、ウルフは59歳で自殺した。
一般的な人間における精神病者の割合は1%に満たないが、これを世界史の中の天才400人を選び出すと、精神病者の割合は15%内外となる。そのなかから特別有名な天才78人を選出するなら、この割合は40%弱に跳ね上がる。そのなかでかなりの変わり者に当て嵌まる人物となると、実に90%が該当し、正常者はたったの3人となる。「天才と狂気は紙一重」と言われる所以だ。
こうした芸術や科学などの分野における無視できない部分が、狂気という形で純然たる精神病と深くかかわりあって生み出された。凡人には凡人なりの平凡な生活があつように、天才の狂気ともいえる性質が、特別なものや質の高いものを生み出した。もし、狂える人たちがこの世に存在しなかったなら、我々の心の文化ははかならずも貧しく、未開のものであったに違いない。
人間は子どもに時に頭に叩き込まれた図式が生涯抜けないといわれ、「三つ子の魂~」という諺がしめすようにである。が、しかし、必ずしもそのことが人間の宿命的なものとはいえない。なぜなら、自分の幼少時期はこうであったから、こういう考えをするようになったなどと自己把握をする傍ら、意識的に自己を制御したり、あるいは自己変革のための努力は可能である。
であるなら、幼児期に叩き込まれた環境や図式に生涯呪縛されることはなくなるであろう。三島もある時期からそのように自己変革を講じていった。自己変革は言葉通りに容易にはいかず、長い年月と強い意志力を要するが、不可能ではない。「人間に不可能はない」というのは比喩的に用いられるが、鳥になりたいから飛行機を作り、潜水艦を作って魚にさえなった。
三島の自己変革への強い意志と要求がそれを成し遂げ、やがて彼は国家の変革へと要求を掲げて行く。志士たちの国家を変えたい一心が倒幕運動を完遂させたように、そこには死をも含めた犠牲を厭わぬ意志があった。再び三島の言葉。「やはり、ある瞬間、鉄砲が撃たれなかったらだめでしょう。死の情熱がなければ、大学紛争なども遊びの延長にすぎない」。
「死の情熱」とは、「死を恐れぬ情熱」ということだろうが、三島の悲痛な叫びの中に以下の言葉があった。「俺は4年待ったんだよ。俺は4年待った。自衛隊の立ち上がる日を。そうした自衛隊の最後の30分に、最後の30分に待ってるんだよ」。野次と罵倒と嘲笑のなかで三島は、「天皇陛下万歳!」の言葉を最後に、バルコニーから姿を消し、世から消えてしまった。