一卵性母娘という言い方は社会的にネガティブな意味に解されているが、それを知らずでか、「娘とは仲がよくて一卵性親子なんです」などと自ら公言する母親もいる。確かに母親との関係性は、人との距離感を測るベースになることから、それがうまく行くことで、娘であれ、息子であれ、他人とは良好な人間関係を築きやすいと言われる。自分は経験無いが実態はどうであろう。
経験がないのでよくわからないと蓋をするではなく、実例を見たり書物を読んだり、人から聞き及んだりで理解するのも社会勉強である。何事も、「過ぎたるは及ばざるがごとし」というが、仲が良すぎるというのも問題がある。そうした問題点についての客観的意識を母なり娘なりが持ち、節度を保つならそれほどの問題はないと思うが、その節度がなかなか難しい。
言葉でいうのは簡単だが、「節度」とは理性的な抑制である。感情主体の女性にはそうした自制心のようなものが芽生えず、自己を客観視しないで突き進むことが問題を生むのではないか。「一卵性父子」という言葉はなく、「一卵性母娘」が問題になるのは、父と息子にはない、女同士の感情的密着度が根底にある。自分がすること、したいことはイイことである。そのように思考する女と、自分がしたいことは果たしてイイことなのか?
と疑念を抱く男との顕著な違いを実感させられる。自分は親になった時に、親が子どもにしてやりたいことは良くないことが多く、親が子どもにしたくないことの方に、むしろ子どもにとって正しいことが多いのではとの考えで対処していた。それによって、「親の欲」という感情を抑制することができた。
「親バカなんだよね」という自己正当化を最も嫌ったのは、「親がバカでいい訳がない」という当たり前の思考であるが、それほどに、「親バカ」というのは、親の「業」として人間社会の理解を得ている。人間以外の様々な動物の生態を追ったドキュメントなどを見るに、その子育てにおいて動物には、「親バカ」という態度は微塵もみられない。そこに「ハッ」とさせられる。
例えば子どもが自力で餌を捕れるほどに成長するや否や、絶対に子に餌を与えないところは人間からすれば驚きであると同時に感動である。どれもがそうであり、人(動物)によっては甘い親もいるなども皆無である。動物の親は子どもによくないことは絶対にしない。祖父母から伝授されたわけでも、教育書を読んだわけでもない、プログラムされた本能という驚きである。
そういう話を酒席で話したときにある母親が、「動物は動物、人間は人間でしょう?弱肉強食で生存競争の激しい動物の世界では、何でも自分でやらなければ生きていけないからね」などと言った。それを言った人間も、その時の誇った物言いも、顔の表情もくっきり思い出せる。30年以上も前のことであるが、若さもあってか、「こういうバカもいるんだ」と思った。
「論」とは言わぬまでも、教育に対する思考や実践は人の数ほどあろうが、人間が子の親になった時に、「みんな仲良く、好き嫌いはいけない」、「大人の言うことはきちんと聞きなさい」、「学校の勉強は大事」、「わがままはダメ」、「決まりを守る」、「嘘はつかない」、「何でも親に相談する」などの言い方が、本当に子どもにとって正しいのかを思考させられた。
大事なことは、「生きる楽しさ」であり、それを子どもに掴んでもらうことだと思うが、「生きる目的」だの、「幸せになるべき」などの歩留り論に終始する親が多い。「歩留り」とは、本来大量生産などの場で不良品が生じる率的な意味で使用される言葉だが、教育現場に歩留り論を持ち込んだのは実は親ではなくて、競争原理を持ち込んだ日本の誤った教育制度にある。
「あなたは頭がいいんだから、もっと勉強しなさい。もっと良い学校へ行くべき、行ったほうがいい。もっと高い収入を約束する資格を取りなさい」というふうに、子どもたちが持っている知的な資質を受験という、「ゲーム」で高得点を取るためだけに限定的に使わせようとする。が、強制に反発する健全な子どもは、「じゃ、やらない」と学校からは脱落してしまう。
日本の教育制度崩壊の最大の原因は、子どもたちを競争的環境に投じて数値的に格付けして点数順に社会的資源を傾斜配分するというシステムにある。点数の高いものには報酬を与え、低いものには罰を与えるという本質的な貧しさと卑しさが子どもたちを学びから遠ざけている。学校そのものが子どもたちの潜在能力の開花を阻み、健全な子どもたちを脱落させている。
こうした悪害をいつまで放置しておくのかと憂いていたが、教育産業の隆盛を放置・放任していたその事よりも、多額の教育産業マネーが政府要人や役人に還流していたことが問題だった。何が子どものため、何がこの国のためになるかの視点を改めることで、やっと政府も重い腰を上げたようだ。日本の未来を担うのは子どもたち、という当たり前のことに手を入れ始めた。
日本の未来を真に担えるような、知的で、感情豊かで、器が大きくて、目元涼しく、話がおもしろく、包容力があって…そうした輝ける子どもを育てなければならなかった。いかなる国とて、国家の最優先課題は教育である。学校教育に携わる人間は何よりもそれを考えるべきであったはずなのに、人間を試験で計ろうとするゲーム遊びに教育界全体が興じていたように思われる。
「子どもたちの自意識の抑圧や後退が発生しないような社会」、「強迫的なものでは無く、自意識が好き勝手にそれを選択させるような社会」、それらは子どもにとっての理想社会というより、大人も含めた人間としての理想社会ではあるまいか。官僚や役人や政府要人や教育産業が甘い汁を吸い、あるいは潤う社会は、人間を勉強のロボットにさせる懸念がある。
「動物は弱肉強食という生存競争を生きるために何でも自分でやらなければ生きていけない」といった母親の言葉は、哀しいかな人間社会に当て嵌まるが、何が弱で何が強であるかにそもそも問題があるように、何の競争か?にも問題がある。それが、「勉強さえやらせておけば幸せは約束される」、「学力は人を裏切らない」の歩留り論に親たちがなびいて行った。
社会には学力による序列がないという現実に蓋をし、能力=学力と短絡的に考える日本人にとって、学歴はゆりかごのようなもの。ゲイツやジョブズのように大学中退してまで何かを為得たいという人間は生まれないのではないか。高い学力をもって社会に参入したものは、周囲から認知されて幸福になるというのは非現実的である。社会で認められるのは行動的人間と自分は考える。
一卵性母娘の悪害とされる、「共依存」から、学歴信仰依存に話が及んだが、相対的な優劣を論じている限り、共依存体質からは抜け出せないと考える。何かに依存するのではなく、何かを創る、生む、そのための思考であるのだということにシフトしなければ、ゆりかごの快感に甘んじて昼寝半分の若者には、日本の危機感に対処できる資質はないと考えていた。
一介の市井人が考えていたところで屁のツッパリにもならないが、問題意識を書くというのも行動であろう。腹の中に据えていることを書くだけではツッパリにはならずとも、屁の臭気くらいは澱ませることはできる。何かに依存する(水と空気はともかく)を嫌う自分は、自給自足生活に憧れる。人に頼らず自分で何かを生み、創るというのは、人間の原初的な享楽であろうか。
少しづつ記事を改変する。やはり冗長は欠点である。生きた文というのは、①言うべきことを持つ。②言うに値すること。③適切に表現する能力を持つことであり、どれが肥大しても欠如してもよくない。短文への移行は脳の衰退と考えていたがそれが間違い。かつてある小説家が友人への手紙の末尾に、「今日は頭が冴えていないがゆえ長文となる」と書いていた。
一挙に半分くらいの文字数・段落にしたいが、とりあえず臨機応変を掲げて、何が何でも〇文字は書くというこれまでの姿勢を改める。後退ではなく前進である。横着ではなく一言一句に精鋭を充てたい。内容にも光を充てたいが、それは無理からぬことと従来どおりの戯言に変わりなし。書くという脳トレ、歩くという筋トレは続行するが、あっちの金トレは卒業か…。