こういう言葉があるということは利点もあるのだろうが、言葉の意味するものは母親と娘の共依存を表し、特に思春期以降の場合を指す。「一卵性父子」という言葉は存在しないことからしても問題点を含んでいる。母と娘が仲がいいというのは素敵なことである。母と息子の仲のよさは、時にマザコン傾向を示す。父と息子の仲のよさは、双方に自然な距離感が生まれる。
父と娘の仲のよさも、仲が悪いに比べるとよいことであろうが、自分の経験でいっても、娘を頻繁に連れ出して外食したり、買い物に出かけたりという密着度はない。ないというのは避けるではなく、そういう事を親の方が望まないこということだ。父と息子の距離感については、「父子鷹」という言葉に見られ、そういった境遇で成功したアスリートの例は少なくない。
この言葉を初めて耳にしたのは、宮沢りえ母娘だったように記憶するが、語源は美空ひばりとその母親が二人三脚でスターへの階段を駆け上がっていった姿を指したのが始まりと言われるが、はっきりしたものではない。ひばり母娘が本当なら70年前、りえ母娘なら32~33年くらい前となる。いずれの母の尋常でないステージママぶりをマスコミが揶揄したものである。
美空ひばりは戦中派世代であり、よくは知らないが、宮沢りえがデビューしたのは1985年で、彼女は小学6年生だった。二年後、初代リハウスのCMでブレイク、翌年には映画『ぼくらの七日間戦争』で女優デビュー、日本アカデミー賞新人賞を受賞する。清楚で目鼻立ちがくっきり感のかわいい少女で、程なく雑誌 『週刊セブンティーン』の表紙モデルとなった。
彼女が成熟するにつけて、母親との確執が深まり、婚約や婚約解消、男性との交際、さらに拒食症などで心身喪失状態になり、一時芸能界を遠さげている。りえは母娘の共依存を解消するために払ったエネルギーは大変だったと想像する。確かに母子家庭親子は、通常の親子関係に比べて母と子の絆は強まるのは理解するが、一卵性母娘については賛否があるようだ。
母と息子の共依存はマザコンなどの言い方で一般的には批判対象となるが、一卵性母娘に対する一般的批判はあまり聞かない。しかし、母親というのは息子に対する遠慮はあっても、娘には容赦ない感情を露わにするケースが多いという。『母は娘の人生を支配する―なぜ、「母殺し」は難しいのか』(NHKブックス)という著書もあり、母と娘は永遠のテーマとされている。
美空ひばりの母のことが書かれてあった。ひばりは当時人気の小林旭と盛大な結婚式を挙げ、5日間の熱海への新婚旅行も終えた。当然ながら小林旭はひばりが入籍をするものと考えていたが、入籍の話をふるとひばりの母喜美枝がのらりくらりと入籍を拒む。挙式をし、盛大な結婚披露宴をしてはみたが、婚姻後、旭とひばりは終ぞ入籍することはなかった。
結婚後は何かにつけて夫婦の事にひばりの母が介入する。そして加藤家(ひばりの本姓)のルールに従おうとしない旭とひばり母娘に不協和音が流れ、神戸・山口組田岡組長の説得もあって旭は離婚会見に臨む。「本人同士が話し合わないで別れることは心残り。しかし和枝が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるならと思い、理解離婚に踏み切った」。
喜んだのは母親の喜美枝。金のなる木のドル箱スターは手放せない。旭の会見後にひばりは会見した。彼女の語った言葉は、「理由を話せばお互い傷つけることになる」とか、「私が芸を捨てきれないことに対する無理解」であったり、「自分が幸せになる道」などである。母親との関係については、「芸を捨てて母を捨てることは出来なかった」と述べていた。
ひばりと旭は2年余りの結婚だったが、ひばりは入籍はしていなかったので戸籍上では独身のままであった。当時マスコミはひばり母娘を、「一卵性親子」と呼んでいたという。離婚してからというもの、ひばりは母・喜美枝とますますどっぷりになり、二人三脚時代へと突入する。「ひばりが歌をやめる時こそが、母が本当に死ぬ時」と言わしめた母であった。
ひばりを作り、支え、愛するが故に、和枝(ひばりの本名)の幸せをも幾度も奪った人でもある。しかし、この母がいなければ美空ひばりが、生涯スターであり続けることはなかったかも知れない。9歳でひばりが芸能界入りしてからというもの、自分が病気で身体の自由がきかなくなるまで35年もの長い間、マネージャーとして自らの全てをひばりに捧げた母である。
ギャラ、共演者、舞台公演、衣装、会見、その他全てのスケジュールに口を出し、関係者の間ではひばりの説得より、母の説得が困難であるといわれていた。当のひばりは、子どものころはもちろんであるが、成人しても子ども時代の延長なのか、もともと従順な性格なのか、仕切られようが、監督されようが、ほとんど母親のいいなりに近かったと言われている。
いうまでもない母子家庭は、すべての愛情が子どもだけに注がれるゆえに、その愛に負担を感じることなく真っ当に受け入ればの話。ひばりはそうであったがりえは違った。これは世代の違いもあろう。親の支配に自立闘争を企てたりえは、終に母と訣別する。そこに費やしたエネルギーは計り知れないものがあったろうが、起こるべくして起こった母子家庭の負の要素。
昨年、森田剛との交際が報じられた宮沢りえも、過去にか貴花田関(現・貴乃花親方)との婚約破棄騒動に始まり、ビートたけし、故・中村勘三郎、市川右近、ISSA、中田英寿など、そうそうたる大物と浮名を流してきた。奔放な男遍歴の末にようやく2009年、実業家男性とデキ婚して落ち着くかと思いきや、昨年3月に離婚。その際は子どもの親権をめぐりモメにモメた。
自由の横臥は締め付けの反動か。圧倒的自由主義者として生きる自分にはよく分かるが、もう一人、苛酷なまでに母の影響を受け、その幻影に怯えたバイオリニスト五嶋みどりが思い浮かぶ。みどりは3歳から母の指導を受けた後、10歳でジュリアード音楽院で学び、1982年12月に11歳でアメリカデビューを果たす。これは間違いではないが、正しくはない。
彼女はジュリアードを中退しているからだ。指導教授のドロシー・ディレイはみどりを可愛がり、誰もが受けられるわけではない特別指導をみどりは毎日受けた。そんなジュリアードを去ることになった理由は、みどりの母親節が、ジュリアード音楽院側から、「金銭(ホテル代)の不正請求」を疑われたためと言われているが、疑いを晴らすことができなかったのだろう。
節はバイオリン教師であったが、エリート教育とは程遠い所にいたいわゆる町のバイオリン教師である。自分が厳しく鬼の形相で指導したみどりの才能が認められ、一気に国際バイオリニストとなれば、親とて舞い上がるだろう。自分が手をかけた子ならなおさらである。節は幼児の能力開発に血気になる人とは少し違った。子どもを自らの所有品と扱う点に於いては同じである。
が、自分の子をどう教育し、指導しようが他人にあれこれ言われる筋合いはない。私の子どもなのだから私が教育する。ジュリアードの高名な教師の指導を受けていてもその姿勢は変わらなかった。そういう口出しがジュリアードと節の間にあったのも中退の一因である。人を信用しない節のような考え方が顕著になると、人からも信用されなくなるのは自明の理。
節のような人間はともすれば、他者との間に軋轢が生じる原因になる。これは個人主義のはき違え、たんなる身勝手、狭量さと受け止められても仕方がない。事実、過去に於いて節はそういう批判を多く受けてきたが、他人の言葉に怯むことがなかった。しかし、節がそうであればあるほど、みどりは母の偏執的な思考から抜け出すことができなかったようだ。
周囲の誰に於いても自分に於いても、母は絶対的な存在であるがゆえに、それに抗うことは天に唾するということになる。母を信奉するも自我の芽生えとともに怯えへと変化して行く。自我と闘うことは母の否定となり、それでも人は自我との闘いに突き進む。みどりはそのことで、拒食症、鬱病を患い入院を経験するが、自我格闘の経過や中身についてはみどりだけが知る。
現在の五嶋みどりは、衣装を含めた荷物も全部自分で持つ。楽器を背負い、両手に紙袋を持って移動する。宿泊もすべてビジネスホテル。衣装もコインランドリーで全部自分で洗濯し、移動も電車やバスなどの公共機関を使う。これらの事は、普通のことを普通にするということだが、天才の行動としては奇異である。ジュリアードの政治力ある教師から離れた神童の末路である。
妙子さんの一卵性母娘ぶりに考えさせられる点はあった。39歳の娘と二人暮らしで、娘の食事を作るの楽しみという母の心情は理解できる。娘の存在が唯一の生の支えであるのだろうが、娘を手元に置いておくことを客観的に見れば自分は子どもに対する親による、「人生の搾取」といえなくはないだろうか。一卵性母娘はその意味で「母子カプセル」状態になり易い。
「母子カプセル」とは、母子の距離感が近すぎて2人だけの世界に安住している状態を言う。そこに憂慮や危機感というものは発生しないのだろうか?女といろいろ話して分かったものは、「自分の好き嫌いと善悪が同じ」というのが多い。自分の嗜好と善悪が同じと錯覚する時期は誰にもあるが、理知が発達してくると、それは危険なものであるのが分かってくる。
「娘がいいならいいんじゃない?」、「自分もそれが楽しいからいいんじゃない?」という発想になり、自己肯定となる。娘がいいと、そのことの善悪を見極めて指摘をする。娘と一緒でいれる自分の楽しさがその場的なものか、先を見据えたものかを考えるのが親である。自分の大事なものを離すという哀しい宿命を、自らに課す哀しい生き物。それが親であろう。