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45年を経た再会。その是非 ④

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気心触れ合う同士なら、「余計なことせんでいい」などと平気で言える。最近、山田孝之&新井浩文男のジョージアのCMで、男の世界が表されていて思わず笑った。「あいつの分も買って行ってやるか」と、共に心が重なった。ライバルに塩を送った謙信ではないが男は露骨を嫌う。それが、「余計なことすんなよ」の言葉。黙して分かり合える男の世界である。


比べて女は言葉を好む。露骨を好む。女はそれでいい。型どおりの礼と思いし目をやるも出だしにに驚いた。「気を悪くしないで聞いて」という言葉…。今はメール一切を削除しており、正確な全文ではないが、以下のような内容であった。「こういうことされると迷惑なので、すみませんがしないでくれませんか。電話とメールで交流したいので(以下略)」などと書あった。

とりあえず驚いた。が、同時にしてしまった後である。勝手に善意と思ってやったことだから、それが仇になる事も世の中にはあるが、それならそれなりの対応があろうし、とりあえず自分なら相手の善意に以下の気遣いをする。「広島の味を届けてくださってありがとうございます。善意に感謝し、今回は戴きますが、諸般の事由により今後はなさらないでください。」

迷惑の理由は記されてないが相手が迷惑なら迷惑である。上記の「諸般の事由」なら理由を聞く必要がない。型どおりの謝罪よりも、何を謝ればいいのかを理解する方が、今後の円滑な人間関係に大事であろう。自分は、「悪意はありませんでしたが、迷惑といわれるならキチンと謝罪をしたいと思います。差し支えなければ迷惑の真意を聞かせてほしい」と返信した。

再度言うが、善意を悪に解されることは往々にしてあるが、「悪」には、盗みや暴力や詐欺などの絶対悪と、相手次第で、「悪」となる相対悪がある。相対悪は、相手が迷惑かどうかを事前に知ることはできない。今回のケースも迷惑の理由は見えてこない。「そちらに迷惑をかけるので」などの言い方を恐縮というが、「こちらが迷惑」というのは初めての体験だった。

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「夫がいないということで起こした行為で、そういう配慮はしたつもり…」というのも書き添えておいた。が、自分の迷惑の意味に対する彼女の言葉に、再度驚くことになった。「あなたは夫に配慮したといっていますが、娘に配慮をしていませんでした。中にあった手紙を娘が読んで、二人の過去を知られました。だから、今後は手紙は書かないで」という内容である。

文面から事情を理解できた。が、同時にすべてのことが瓦解をし、崩れ去るのが分かった。悔いも迷いもなく、躊躇いもなく、彼女との交流を終えることをやさしく告げた。こんな内容である。言い訳、弁解の類は嫌いなのでしない。行為は純粋でも人に害があればそれは無に帰す。善意を押しつける気はないので、送ったものは仕事場に持参して皆さんで分けて欲しい。

最後に、「短い期間でしたが、ときめきを有難う。元気でいてください。さようなら。」と書いた。こういう決然とした態度が自分という人間の矜持である。別れるとは関係なくなること。恋の終わりにおいても夫婦の解消においても、終焉である以上、意図して二度と会うことがない以上、何も言わぬ方がいい。言いたいことは山ほどあっても言わぬ方がいい。

別れに際し、「これだけはどうしても言っておきたい、伝えておきたい。それが相手のため」。さらには、「このことだけは知っておいてもらいたい」。などの気持ちにかられたとしても、別れることの決断は、それらの一言さえも相手に伝えることなく、別れるということである。とかくしつこい人間がいる。そういう人はこういった場合に於いても、しつこさが出る。

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元の状態に戻りたい、戻るには何が必要か、それに固執するから悲劇を招く。終わると決めたことは、忘れるも含めた一切をなかったことにするのが、別れをプラスにすることだ。何とかもう一度復元できないかなどと、元の世界に固着し、流れの変化を押し戻そうとすると、かえって失うものが大きくなる。自分は一切をナシにできる精神力を持っている。

だから人には厳しい。ゆえに相手の吟味も厳しい。自分が譲歩できない部分は絶対にしない。ごちゃごちゃと女々しく何かを言ったりもしない。去ればいいだけなのに、何をいう必要があろう。去りたくない、後ろ髪を引かれる思いがあれこれいわせるのである。「あなたは突然、わたしの前から消えた」と45年前を彼女はいったが、思えばそれが優しさと思う部分がある。

思わせぶりや、気のないのに相手を引き留めておく、ストックを目論む男がいる。女もいるのだろう。それこそが自分の都合で相手を搾取していることになる。冷酷なようだが、跡形もなく消えてやるのが実は愛情であろう。これ以上に態度を明確にすることはない。言葉を吐くのも、無言で去るのも、傷つくのなら、何も言わぬことこそが清々しい訣別かもしれない。

罵倒の限りを言い尽くして別れるのは、できるなら避けるべきであろう。憎しみを抱くより、本質的に自分に合わない相手と理解するのが明晰である。親宛ての荷物を開封する、親宛ての糊付け封書を開封する。そういう家庭だったというだけである。それらが当たり前の家庭であったと、ただそれだけである。そうであるなら、こういうシュミレーションにはなってもよかろう。

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「お母さん、荷物が届いてたので開けてみたら、手紙があったので読んでみた。」

「あら~、お母さん宛の手紙を?そんなのダメよ。やばいこと書いてなかった?」

「書いてあったよ。この人、お母さんの初恋の人でしょ?もしや初めての人?」

「だったらどうする?」

「素敵だね。45年も経ってまた出会えるなんて、なんか羨ましい…」

「相手の人が、お母さんを探し当ててくれたみたい。」

「すご~い。だったらこれから老いらくの恋が始まるのね。顔とかみてみたいな」

「最初の人が最後のひとだなって、すごすぎない?」

「なにバカなこといってんのよ。それよりいい人見つけなさいよ。お母さん、明日急死するかもよ」

「その人、きっと泣いてくれるね…」

こんな風な母娘でないのは、「迷惑」という言葉に現れている。荷物開封も封書開封もそれはそれでいいが、それを相手の罪にすることが心のキャパのなさである。人は自分の価値基準で他人を批判するが、他人としては至極当たり前のことや、そういう環境を実践していることに対し、他人の批判が何の意味を持つ?批判をし、批判が許せないなら、黙して去ればよい。

これを自分はカーライルから学んだ。若い頃はカーライルの言葉の本質が分からなかった。例のレストランで不味い料理を出された際の一節である。かーライルは、「文句を言わずに料理を残し、黙って立ち去るのがいい。そして二度といかなければいい」というシュチであるが、黙ってないで文句の一つでもいうべきだと若い頃は思っていたが、今は理解できる。

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娘が密封の封書を勝手に開けて気まずい思いをしたのは、「あなたが手紙をくれたこと」と言われれば、それすら受け入れよう。その家のしきたりに批判を述べても単なる自己満足にすぎない。上のシュミレーションは素敵な会話と思うが、こういう母娘がそれを読んでもそうは思えない。だから、「迷惑」などと他人に罪をかぶせる。ふと『斜陽』の一節が頭を過る。

「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も智慧も、思考も、社会の秩序も、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう?信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう?

ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、秘め事、というものよ。いかが?」。お母さまは、ほんのりお顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、「ああ、そのかず子の秘め事が、よい実を結んでくれたらいいけどねえ。お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ。」

「秘め事」とは何とも情緒のある味わい深い言葉であろう。今の子たちか「エッチ」というが、人間の生活自体、あるいは世の中の動態自体に、情緒が失せたのだろう。腹水は盆に返らない、先進的な文化は逆行はしない。古き良き文化を味わうためにはこうした文学を紐解くしかないが、こうした純文学さえも文献資料に変わろうとしている昨今の事情である。

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妙子さんは自分の惜別を受けて、「誤解をさせてしまったみたいですみません」とあった。後には何やかんやあったが、もはや自分に彼女の一切の言葉は目には入らなかった。「昔の彼女に会いたい」というのはネットに多い。それぞれに求めるもの、意図するものはあるのだろうが、人は人だ。会いたいとも、会おうとしないでも、交流する意味や意義はあったであろう。

自分は彼女の「生」の実在を知りたかった。空想や想像ではない、声も含めた「生」の実在感である。人の一生は短い。たかだか80年程度とあまりに短いなら、人生行路の中で出会う人はそれぞれに意味も意義もあった。そのなかの誰とて後年に会話を交えるのも十分に意味のあること。こういう形で終わりを遂げたが、この時ばかりはパスカルの言葉が浮かんだ。

「彼は十年前に愛したその人を、もはや愛さない。それもそのはず、彼女はもはや同じ彼女ではなく、彼もまた同じ彼ではない」

全てのものは移り変わるという真理を時に我々は忘れている。愛を誓いあって結婚して子どもが生まれたところで、死ぬまで自分たちの愛は変わらぬことにはならない。30年前に誓い合った愛の心とて変貌はあろう。すべては一瞬一瞬に移り変わるという厳しさの現実に、我々は気づくことが大切だ。共同生活とてそれが単に慣習なら、二人は抜け殻である。

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