彼女との出会いは、彼女のバイト先の銀座並木通り「喫茶ポニー」だった。自分も同じ「銀座コージーコーナー」でバイトしていた。「ポニー」のケーキ売り場に二人の女がいた。一人は音大生のバイトで当時19歳。もう一人は正社員の女で当時23歳。何度か会話をしているうちに音大生をデートに連れ出すことになった。名は妙子といい、控えめで優しそうな子だった。
自分は巷にいうところのナンパ師ではないが、こと恋愛には積極的だった。「いい」ものはいい、「よくないもの」はよくない、「すき」なものはすき、「きらいなもの」はきらいという率直な気持ちは人間に対して躊躇いはなく、話しかけることを遠慮する理由は何もなかった。行為は自分のためになされるものだが、ゆえにか、相手が迷惑であるか否かには敏感であった。
「彼は純粋であるが、害を及ぼすことはない」。「彼は真っすぐであるが、激することはない」。これは『老子』58章の中の一節だが、純粋はいいことでも他人に害を与えてはならないを言い換えれば、他人に害を与える純粋さは正当化できないということになる。相手が迷惑と言えば、いかなることも迷惑であり、それを察知したなら、自分は相手にとっての害である。
自らの気持ちに正直に行為することを悪いとは思わない。がゆえに、相手が迷惑か否かについては敏感であるべきかと。純粋であることを自負する者は、この基本をはみ出してはならないと常に言い聞かせている。これが今回の記事の大きなテーマでもある。洋菓子店でバイトをしていながら、別の洋菓子店でケーキを買うのは何らオカシクない。だから洋菓子店は乱立する。
ということでポニーで彼女を見初めた。「何でわたしみたいな女に声かけたの?」と初デートの時に言われたのを覚えているが、同じことを今回もいった。「みたいな」という言葉の意味はわかっているが、若い頃の自分はそれを上手くは説明できなかった。でも、今回はキチンといえた。「派手でケバイ女は好きじゃないんだよ。〇〇ちゃんはすっぴんで素朴だった」。
もっと率直にいうなら、「ブスが好みなんだよ」ということだが、これは本人を前にいうことではない。もう一人の女は化粧も派手の多岐川由美似の美人だった。「ブスが好み」というのは大概理解されない。が、そのことを自らで考えたことがある。松たか子が出て来たとき、自分は彼女を美人と断じたら、「あんなのどこにでもいる普通の顔」と言われて驚いた。
ノーメイクのすっぴんの地顔の美しさを評した自分である。かつての吉永小百合や和泉雅子、本間千代子ら、日活清純スターはノーメイクが売りだった。清純派は化粧などしてはならないとの決まりはないが、化粧を施さなくても美しい地顔を持っていた。松たか子はそうした化粧全盛の時代に「ふっ」と現れた女性。だから、「どこにでもいる女」と評された。
自然の造形ほど美しいものはなく、ゆえに芸術とは「自然の模倣」だといわれる。自然の美しさに人が心を奪われるからだろうが、多くの巨匠たちによって画かれた女性の美しさに顔の美しさの描写はない。美人を描くというより、生身の女性を描くということに芸術家は虜になっている。したがって自分の考えは、美人でなくとも女性であり、十分に女性であり得る。
世に、「美と真」があるなら、「美は真理の先導者」であろう。つまり、真なき美は美にあらず。芸術家の格闘は表層の美など見向きもしないだろう。ロダンはブロンズ彫刻の中に骨や筋肉や内臓や血流を求め、ダ・ビンチも、白い肌に透けて見える動静脈を表現を意図した。美しい旋律である自らの5番交響曲を、「作為に満ちた駄作」とチャイコフスキーは嫌悪している。
知覚とは心の総体である。ユングも、「意識の機能は心の総体」といっている。美人を美しいと感じるのも、不美人をいいと思うのもその人の心の総体であるということを長々と書きたかった。妙子さんは自分と出会った直後にポニーを止めたが、自分その後もポニーにモンブランを買いに寄っていた。ある日、ポニーのもう一人の美人から小さな紙片を渡された。
後は省略するが、今回彼女にはそのことを話した。「あんな子のどこがいいの?」って言われたと、その後の流れも正直に話し、いまさらながら「ごめんなさいね~」と無意味な謝罪を、無意味と知りつつ面白く述べた。それでも彼女は驚いたのか、「わたしの知らないところでいろいろあったんだね~」という。それはそうだし、人間は自分の前の事しか見えないもの。
あらゆる人間は、親子であれ、夫婦であれ、恋人であれ、それぞれが別の事実を生きている。別の日常が互いにありながら、時に時間を共有していることになる。ゆえに、それぞれ個々の時間も体験も、決して共有できないそれぞれ個々のものである。この現実を踏まえて、他人が行為した事実を、片方は、「隠し事」と責めるのは、不条理なエゴというものだ。
別々の時間を生きる者に、隠し事などないはずがあろうか?いかに共同体に生息する者でも、個人は尊重されるべきだが、そういう許容量のない、エゴイストが他人の携帯を覗いたりする。これは信頼関係を損なうものであろう。では、信頼関係とは何か?婚姻者であるなら貞操を守ることなのか?守るべき義務を課せられた貞操ゆえに、守るに越したことはないのだが…
これは他人が他人を上段から見据えることでなく、当事者の問題である。当事者間に起こったことを当事者が判断し、解決するものである。善悪良否は誰でもいえるが、人間はのっぴきならぬ生き物であって、ゆえに間違いも悪も行為する。それぞれに個々の時間がある以上、共同体意識はあっても、時に共同体意識から離れた、個人の時間である。その流れは止められない。
夫や恋人の携帯を無断で覗く理由が、「何もないなら見られて困ることはないのでは?」。これほどバカげた言い分があるだろうか?手紙やメールは誰にも侵されるべきでないプライベートなもの。夫婦に親子に恋人にはプライベートがないと言い切る、バカの所業である。その内容遺憾に関係なく、他人のプライベートを犯す権利は誰にもないが、独善論で正当化する。
まあ、自分には関係ないがバカと言っておく。行為者も同じように独善論を振りかざして、自分をバカと言えばよい。共同生活者は、信頼の上に成り立ち、信頼を裏切らないのはやぶさかでないが、裏切る・裏切らない以前に、信頼を損なう行為をすることが問題であるという、そのことに気づかぬエゴ所有者。を、身近に置いて文句がいえないのも自分の選んだ相手である。
「彼は信頼を裏切った」と、携帯を覗き見した者との罪の大小ではなく、「目糞鼻糞を笑う」者同士が、納得のいく話し合いをすればよい。どちらも自己正当化をせずに話し合えば、間違いなく解決はできる。民事などの些細な紛争にしろ、出会いがしらの交通事故にしろ、夫婦の諍いにしろ、親子の価値論争にしろ、自分の非を認めあって話せば、必ず解決はする。
自分の非を認めようとしないという愚かさが問題である。話し合いとは言い合いではなく、自分の非の認めあいである。世の中には気づかぬこと、知らないこと、正しくないこと、正しいこと、そう言うことが山ほどある。人間自身も至らぬこと、強欲なこと、的確でないこと、思い込んでいること、そういった感情支配がある。そのぶつかり合いが人間社会だ。
自分は優で相手は劣、自分はまともで相手は変、自分は正だが相手は邪、そういう見方はいくらでもできる。先般、米コロラド州にある空軍士官学校予備校の学生寮で、黒人学生を侮蔑する人種差別的な罵倒が、学生の部屋のドアについた伝言板に書かれた問題を受け、士官学校校長のジェイ・シルベリア中将は9月28日、士官学校の全校生徒と教職員を集め、強い口調で述べた。
「本日は、私自身の最も重要な考えを皆に伝えておこう。もし、誰かの尊厳を尊重し、敬意をもって接することができないなら、すぐにここから出て行け。性別の違う相手を尊重し、敬意をもって接することができない者は荷物をまとめてここから出て行け。人種が違う、あるいは、肌の色が違う相手を尊重し、敬意をもって接することができない者は今すぐ出て行きなさい。
我々みんなが一丸となって、道義的な勇気を持てるように、スタッフや関係者及びこの部屋全員すべてが我々の組織だ。諸君が私の言葉を必要とするなら、私の言葉を心に留めて欲しい。もう一度繰り返す。たとえどんな形でも人を侮辱するような者は、ここから出て行ってくれ!」。多種多様な価値観や思想を背景に持つ人々が、同時、同所に生活する際の教訓である。
「人をいじめていい気になる子は学ぶ資格がない。そういう子は学校から出て行きなさい。家でいじめる相手はいないが、親からいじめられるなら、わたしのところに相談に来なさい。自分の不平や不満を、人をいじめてはらそうとするような子、また、それに乗っかるような子はこの学校にふさわしくないです。それでもいじめを止められないようなら、明日から学校に来なくていい。」
自分が校長なら、これくらいは言うかも知れない。おそらく現行の学校教育法では問題になる発言かもしれない。が、考えてみよう。いじめがなくならないのは、強い気持ちと信念をもって教師が行動しないからだ。上の言葉でいじめがなくなるか、それは分からないが、問題のある所においては、問題のある解決法が、試される場合がある。それでクビなら即刻辞める。
45年を経ての恋人との再会話が別の内容になった。が、次元の違う話のように見えて、顛末を知る自分にとっては、一切が物事に関連する。思わせぶりも本意でないので結果をいうが、45年目の再会は、あることを契機にわずか3日で終焉した。つまるところは、別々の人間個々の価値観の違いであり、苦言を述べることではない。ダメと思えば止めれば済むこと。