昨日はブログを書いた後にウォーキングに出た。歩きながらずっと考え続けていたが、「真心」についてである。「真心」という言葉を使うには使ったものの、「真心」というのは一体何なのだ?「真心」が何か分かっているのか?分かっていて、それで使ったのか?などなど…、「真心」についてしこたま考え続けたが、「真心」が何であるかを突き止めるは、実は至難であった。
「真心」という言葉の意味ではなく、現実的な、「真心」の実態である。言葉がある以上存在するだろうが、「愛」と同様に漠然として定義づけられない情動の理解は難しい。難しいけれども、「これが愛だ!」、「これが真心だ!」など、言うのは簡単である。試験の答案用紙ではないのだから、実態を納得できるほどに把握するためには何が必要か?頭のよさではあるまい…
それで方法論としてこう考えた。自分の過去において、「真心」なるものを誰かに抱いたことがあるか?もちろん、「真心」には段階があろうし、とりあえず3段階に分けてみた。上の真心、中の真心、並みの真心と分け、いろいろな人間を浮かべながら真心を送った相手の有無を探ってみた。翳んでしまっている過去の記憶を、当時のままに思い出すのも大変である。
それでも自分は人から50年前、60年前のことを覚えている性質なのか、竹馬の友らは一様に驚く。自分的には、「彼らはなぜ覚えていないのだろう?」である。おそらく感受性の問題だろう。自分の最古の記憶は2歳~3歳ころ、寝かしつけられるために祖母に背負われて夜道を往来していた時、月が自分の視線から消えずにずっとついてくる。それが不思議で仕方がなかった。
これこそが忘れ得ぬ最古の記憶である。「真心」というけれども、「真心」を本当に分かる年齢というのはいつ頃からだろうか?心と真心に区別がつけられる年代といえば、やはり思春期あたりかも知れぬ。恋心を抱く異性はいても、真心を抱いた相手が出てこない。恋心と真心は字も違えば実態も違うだろうが真心を、「真剣な心」と解せば、当時の恋心は真剣だった。
異性にはある種の畏敬の念があった。手に触れたい、抱きしめたい、唇をふれ合わせたいとかは全くない。ましてや、入れたいなどはとんでもない。少年期のあの頃の異性を想う気持ちを言葉にするのは難しいが、まぶしくも美しく輝く存在であっただろう。異性の美しさとは本能的なもので、幾多の巨匠が絵にし、掘り物として異性を描くのは、そこに美を見るからだろう。
肉欲的な、「性」とはまったく無縁の、手に触れることさえ躊躇わるほどに異性に跪く僕であった。異性と同所で同じ空気を吸えればそれでよかった。恋愛というのもが人間を性の営みに駆り立てるのを知ったのは、20歳にはなかったろう。異性との性の営みはどこか罪悪感もあり、本質は恋愛だった。ある異性を好ましいと思う恋情は、必ずしも性そのものに結びついていなかった。
性の欲求の希薄さより、上記した罪悪感である。プラトニックラブ(精神的恋愛)なるものこそ尊ばれるものという内なる支配が、欲情を罪とした。が、恋愛感情と性の衝動が分裂することなく、一つのものとなる時期はいつぞや生まれてきたが、自分の場合はやや遅く、女を性の対象として見え始めたのは、23~24歳くらいではなかったか。それまでは好意の対象であった。
「好きでもない相手とできるか?」。今なら小中学生レベルの問いであるが、20歳過ぎた青年期においても話題になった。自分は、「ノー」といい、ほとんどの友人は、「イエス」であった。それが根底にあったのか、自分は商売女というものに触手が動かなかった。恋愛を生じないままに性衝動が発生することのなかった自分は、周囲の男とは違った人種では、と思っていた。
また、愛の実態も分からず見えず、愛という意識などより、ただ、「好き」という気持ちが異性に向いた。自身の青少年期の異性に対する精神活動は、精神恋愛が原型にあった。性は罪悪と思いつつも、性はまた本能であった。異性に好意を持たれることより、自分が異性に好意を抱くことが優先した。人を想う心、人を恋うる心、返しはなくとも満たされるものがあった。
話を戻すが、真心を抱いた相手についてだが、率直に浮かぶのは妻である。結婚前の妻ではなく、結婚後の新婚時代の妻でもなく、10年後、20年後の妻でもなく、婚姻後25年辺りの妻である。その理由とは?結婚後25年目にして初めて妻に贈り物をした。結婚25周年を世間では、「銀婚式」という。それもあってか、過去一度もなかったプレゼントを思い立った。
理由は、「銀婚式」ではなく。感謝という、「真心」が自分の中に沸いたことで、それならばとの行動である。贈り物はミキモトパールの50万円のネックレスと、封筒に入れた100万円の束である。この時ばかりは妻に、「真心」を形にしたいと素直に感じた。が、お金はともかく、ネックレスを喜ばないのは分かっていた。ネックレスなどの装身飾りを嫌う女は、人がしてもしない。
宝石など何の興味も示さぬ女であるのは知っていた。が、「真心」の大きさを表すための、気の利いた買い物といえば宝石くらいしか浮かばなかった。この一件以外に、真心を込めて何かを表した相手は見当たらない。「真心」さえあれば行為は厭わないが、それすらない相手に繕った行為の発想は自分にない。彼女と言われる女は少なくないが、真心を贈った記憶は誰にもない。
一人だけ指輪をせがまれて買ったことがある。当時流行っていたムーンストーンは、流行っているから欲しがっている程度に思っていた。他の彼女に買ったものはあるが、心を込めて贈ったという記憶はない。そんななかで今回、「真心」のようなものに出くわした。相手は45年前、短い期間だが好意を抱いて会っていた女。当時は、彼女や彼氏とかの言葉はなかった。
付き合うという言葉も交わさぬ時代。好意がある同士が自然に引き合い会い、男女として結ばれる。今風に言えば彼女で、自分は彼氏となるが、45年前の相手にそういう言葉は似合わない。どうして再会したか?ここ1年くらい自分は毎朝リンゴとキウィが常食である。それに加えて季節の果物を添えるが、今はもっぱら柿が多い。して、出会いのきっかけはリンゴである。
45年前に、彼女が田舎から送られてきたというリンゴを剥いてくれた。そのリンゴはなんと中心部がリンゴの白さでなく、蜂蜜のようであった。今でいう蜜のことだが、そんなリンゴは初めてだった。彼女にとってはそれこそがリンゴだといい、彼女の実家は長野の伊那地方、リンゴ農園を経営農家と記憶していた。ということで、ふと何気に伊那地方のリンゴ農園を探した。
あった。彼女の姓と同じ農園だ。産地直送とリンゴ狩りをやっている。これが彼女の実家かも知れない。そう思いながら電話をしてこのように問うてみた。「リンゴ狩りに行きたいのですが、そちらは〇〇妙子さんのご実家でしょうか?そうであれば、伺いたいと思います」。それに対する応えは、「いえ、うちは違います」であった。残念だが再度同じ姓の別の農園に電話を入れた。
同じように尋ねたところ、「妙子さんの実家ではありませんが、彼女の実家の農園を知っています。妙子さんの兄さんと仲がよかったので…」。先方の言葉にときめく胸を押さえつつ、冷静に告げた。「是非そちらに伺いたいので、よろしかったら電話番号でもお教えいただけませんか?」。「イイですよ。兄さんは3年前になくなったので、嫁さんの携帯でよければ…」
早速、伺った番号にかけてみた。「妙子さんのご実家と〇〇さんからお聞きしました。東京の学校に行かれていた妙子さんで間違いないですか?」。「はい、わたしは妙子の兄の嫁です」。「お兄さんは亡くなられたとお聞きしました」。「はい、今はわたしが一人で農園をきりもりしています」。「妙子さんはお近くにお住まいですか?そちらのリンゴの味が忘れられません」。
兄嫁には、自分が東京在住時代の友達と、彼女が一緒に住んでいたと言っておく。「妙子は静岡の方に嫁いで、今もそちらに居住しています」。言いにくいが自分は意を決して言ってみた。「もし、差支えなければ、妙子さんの電話番号なりを教えて頂けたらと思うのですが、当時のリンゴのことなど話してみたいので…」。怪しまれぬよう計らいながら明るく尋ねた。
兄嫁は自分の姓を聞き、一応彼女に問い合わせてみると自分に断った。その間、2~3分であったろう、兄嫁から連絡があった。先ほどと打って変わった和らいだ声でこういった。「知ってるそうです。下の名前まで言ってました。電話をしてみてください」。何という流れであろう。遂に彼女を探し当てた自分の行動力を褒め称え、お目当ての妙子さんにかけてみた。
数回の呼び出し音に続いて、「は~い」とその声は紛れもない記憶の隅にあった彼女の声だった。現在は65歳になっているが、声は顔と同じに名残を残している。自分は当時の呼び名を呼んだ。「〇〇ちゃん?」、「そうで~す。〇〇ちゃんだよ」。45年の歳月を飛び越えて耳にする彼女の声…、そして彼女が聞くは自分の声…。二人にもたらせたもの、これがノスタルジーというものか…。