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書かずとも思いはあるが…

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イメージ 1早いもので、かれこれ11年になるが、この場にいろいろ書いて来た。「書く」は「思う」の具現化、書かなくとも思いや思うことはある。が、「書く」は行為であり行動である。好きな異性を心に思えども、愛の手紙を書けばそれは想いは行動に乗る。心の中は見えない、意思も見えないが、行動することで意思は表明される。為せど成らぬこともあるが、「為せば成る」ともいう。

昭和39年の東京オリンピックで、女子バレーを金メダルに導いたニチボー貝塚監督大松博文の『為せば成る』を思い出すが、後にこれは上杉鷹山の言葉であるのを知った。鷹山は次期藩主・治広に家督を譲る際に 申し渡した3ケ条からなる藩主としての心得であり、伝国の辞であった。やれば出来ると誤解されているが、やらなきゃ何も起こらないという本意である。

10余年の記事の中で最も多いのが子どもについての記事であろう。子どもと言っても我が子ではなく、子どもという総称であり、子どものことを書くと熱が入る。「子どもに自由を」が基本理念だが、製造者としての親の価値観が子育ての基本となりやすい。そのことはいいけれども、一切合切をがんじがらめに縛るという親から子どもは解放されるべきと考える。

自由と責任は表裏にあり、自由にさせるからには責任が伴い、子どもに責任を取らせるのは無理であるからして、子どもに自由を供与した責任は親がとる覚悟が必要であろう。それらについて種々思考した。英才教育を施すのはいいが、全てを犠牲にし、遊ぶ時間をも奪って学習に専念させたはいいが、それで挫折した場合の責任を取る覚悟をもって実施する親はいない。

挫折や落伍者になるなど、ハナから前提にしていないからだろうが、子どもの自由を奪うことで偏向的で歪んだ性格の責任を親は取りようがない。その点、親から自由を供与された子どもが後に、「なぜ勉強しろって、うるさく言ってくれなかったの?」と親を責めるだろうか?自由にさせていても、自覚して主体的に向学心に殉じる子どもはそれなりにいた。

元来勉強嫌いの子を無理強いして成功したケースがあるのか?馬を水辺に連れて行けども、水を馬に飲ませることはできない。足るを知らぬがゆえに親が我が子に夢を抱く。よって、子どもを自由にさせた親が、子どもの責任を取る必要はない。ただ、自由にさせる=躾をしない、善悪良否を教えないというのではない。よって、芸能人の大麻息子は親の責任だ。

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今回、清水アキラの息子の不祥事で会見に臨んだ父のアキラが涙ながらに、「家族なんで…」と喚うていたが、その意味は、「他人なら知らんが、家族だから痛い」ということだろう。これが肉親の情であろうか。自分は肉親の誰とて自分以外は他人と考えているからか、息子が悪を行えば悪人である。悪に手を染めた息子に涙を流して嗚咽するなど考えられない。

その事で批判が渦巻いたからか、一転清水アキラは勾留中の良太郎被告に、「保釈させるつもりはない」と伝えたことを明かした。これとて共依存親子である。未成年の息子ではあるまいに、150万円の保釈金を親から工面してもらわねば払えないわけではあるまい。これは親子の世間イメージを挙げるための臭い演出芝居だろうが、こんな子供騙しでイメージが上がるのか?

保釈は何びとにも認められた権利である。勾留されている期間が『反省するにはまだ短い』と清水は息子に話したという。ブタ小屋の飯を多少長く食らえば反省が増すというものでもあるまい。なのに、「良太郎は黙って父親の言葉を聞き、『わかりました』と声を絞りだすように言ってハンカチで涙をぬぐいながら、『妻と子供をたのみます』と話したと明らかにした。

こういう浪花節的ヘボ芝居を誰が感動して聞くだろうか?清水アキラも涙を流し、「オレも、お前の兄貴も、家族だから」と伝えたことも明かした。こんなの明かさなくていい、臭い三文芝居なんか、ケツに蕁麻疹がでそうだ。良太郎被告は父に1億円もの家を買ってもらっているというが、そういう親であるから息子の不祥事に関与するのだろう。どこまでも共依存親子である。

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一般的に子どもは第二次性徴期に自我と格闘し、様々な苦悩を持つが、そこに親は立ち入ることができるだろうか?できるとは思わない。親が立ち入るのは、子どもの思春期の障害となることばかり、それが自分の忘れ得ぬ体験である。子どもの悩みについて話を聞こうとする親はいるにはいるが、さりとて本音というより、道徳論主体の建前ではないだろうか。

子どもの悩みが果たして建前論で解消するとは思わない。そういう時にこそ人生体験の多いフランクな親は建前を排し、本音で向き合う。子どもにとって、これほど現実的で勇気づけられる生きたアドバイスはない。道徳論をかざす親は、実体験が少ないゆえに、儒家思想的道徳論に委ねてしまう。子どもに大切なのは真実の伝達であるべきだが、その勇気が親にない。

立派な親であったと君臨したい気持ちもあるのか。自分は中高生の悩みに触れる機会が多くあった。多くの子は、「どうせ努力してもぼくはダメ、放っておいてよ」などの言葉が目立った。彼氏の子を身ごもった高校生は、「うちは頭悪いし、顔も悪いし、モテないし、でも彼は『好きだよ』といってくれた。嬉しかったけど、妊娠するなんか考えなかった…」と嘆く。

「子どもの人権」が流布される傍ら、限りなく沈黙し続けるものが気がかりで仕方なかったが、自尊感情が育まれる土壌が希薄な社会のなかで、彼らにどのようにして自尊感情を身につけさせればいいのか。大人の若者に向けるメッセージは、偉そうな嘘にまみれた言葉ばかり。中高生の望まぬ妊娠は大人の責任である。性行為の素晴らしさと同時に避妊の重要さも教える。

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諸外国の親は子どもを見くびることなく、キチンと向き合えるから性を日常的なものとして子に伝授できる。性の真実は人間の真実である。親と子、教師と生徒を水平の関係に誘える唯一のことである。人間の真実を隠さず、過不足なく知らせて初めて、人には『自尊』の活力が漲ってくる。であるのに、学校も家庭も子どもの自尊感情を育む教育をしてはいない。

「教育とは何か」のお題目ついて、学校教育には学校教育法に順どった目的があるのは知っている。そうした目的や目標に沿って子どもを指導しようとすることで、教師は生徒を拘束し、強制する立場にたつことになる。が、果たして、「学校教育法」は人間教育なのか?その昔、「修身」というのがあった。これは帝政時代の遺物であるが、まさしく人間教育であった。

何びとにあっても、10代、20代という年齢は、まちがいなく友情や愛情に揺れ動く。友情と愛情とどちらの価値が高いか、それを問うのはどうであろうか。なぜなら、愛情の前にあって人の友情は無に等しくなる。ゆえにか、愛を必ずしも良しとしない考えもある。仏教においては、愛は厄介で困った感情とされているが、自己犠牲的奉仕がキリスト教的愛である。

自分は仏教や、キリスト教を含む宗教全般にに造詣はないが、それがなくとも愛は人の中で自然発生するもの。宗教はそれらを体系づけたものであろう。ところで愛と愛情のちがいについて考えてみる。ただの愛ではなく、その下に情がつくことでどういうちがいが生まれるのか。愛も情も目には見えないが、愛とはある種人間の理知的な感情という気がしないでもない。

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それに情が加わることで、瑞々しくも潤いに富んだ、生き生き感が加えられるように思うが、どうであろうか。漱石は、「情に棹差せば流される」というがどういう意味かといえば、前半の、「智に働けば角が立つ」と対に考えると理解になろう。彼は、「智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」といった。

前半部分の意味は、理性的・合理的過ぎるとちょいと冷たく協調性にかける。で、情に掉を差すとどうなるか。船の棹は、川底を棒で突いて舟を進めて行くものだから、棹を強く突けば突くほど早く進む事が出来る。元々、(情という)流れがある所に、更に情でもって棹を突けば、どうしようもなく流れて、舟をコントロールできない状態になってしまうだろう。

自分や自分に近い人の事は、親子や夫婦、兄弟の事にあっては、理性では分かっていながらも、ついつい感情が先に出てしまいがちになる。ということを述べている。さするに文面からが、漱石が人間の、「智・情・意」をネガティブに捉えているのが伝わってくるようで、人情、同情、強情、欲情、多情などの言葉は、古臭い感情の代名詞として嫌悪される部分もある。

愛が人に施す何かであつというなら、愛情とは自分をそういう気持ちにさせられる何かである。「行為」が大事か、「思い」が大事か、これについて自分は後者である。なぜなら、行為で心(情)をごまかす事はできるが、心は行為がなくても存在する。が、相手に伝わらない事はままある。伝えたいと思うか、伝わらなくても自身が満たされるか、後者は人間の成熟であろう。

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愛情の消失した夫婦が長年の慣習で、クリスマスやバースデーにプレゼントを贈ることにどういう精神的意義がある?内館牧子の『義務と演技』ではないが、こういう自己欺瞞は自分に堪えられない。呼びかける愛もあれば、無言の愛もあると長年思ってきた。以前、「真心は形にして伝えよう」というお歳暮のCMがあったが、まあ、「お歳暮するな」とは言わない。

真心は自分の中にあればいい、相手が気づかなくても自身のそれは動かないものだ。もし相手に伝えたい気持ちになったなら、それは本当の真心なのだろうか?「真心だって、伝えたいかもしれないじゃないか」との異論はあろうが、真心ってのは相手に伝えるべきものなのか?自らの内にある真心を伝える必要を自分は感じない。なぜなら、真心は自分のものだからである。


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