有酸素運動の利点とされるものにはさまざまあるが、②心肺機能を高める、③減少しやすい足腰などの筋肉を維持、④健康維持や美容、ダイエットなど得られる効果が幅広いなどがあげられるが、何といっても、①脳を鍛えるということではないか。終わった後の気持ちのよい爽快感も、脳に質の良い酸素が沢山取り入れられたからだが、欠点というものもそれなりにある。
ウォーキングについて欠点をいえば、①雨天など天候の影響を受けやすい、②他の運動に比べてダイエット効果は弱い、③習慣になるまで、それなりにハードルがあるなども言われていることだ。確かにウォーキングは、スポーツジムに比べてお金はかからないし、ジョギングほど激しい運動ではなく、中高年諸氏においてもそれだけ取り組みやすい運動といえる。
したがって現実的な利点と言えば、時間も場所も選ばない、お金がかからない、体への負担が少ない、年齢や性別に関係なくできる、簡単にできるなど、わざわざお金を払って決まった時間に特別な技術を使わないとできない運動とウォーキングは違、その気にさえなれば通勤や買物の途中でもやれるという特徴がある。かと言って全くお金がかからない訳でもない。
「水と空気はタダ」という比喩的理解に対して昔友人が、「水道代がかかるじゃないか」と絡んできた。「公園の水はタダだろ?川で洗濯するのもタダ」というと、「いちいち公園で水を汲んで生活するのか?」という。彼の言い分は合理の問題であって理屈である。乞食や浮浪者はタダで水にありつけ、「汲みに行くのが面倒くさい」は、タダの打ち消しでない。
宮本輝の『泥の河』では、母子3人河を往来する船上生活を描いているが、学校に通わない小学生の姉弟は、公園で水を汲んで船に持ち帰るのが日課だった。母は船内で売春を営むも、時代設定は昭和31年であって、2年後に施行される、「売春禁止条例」前のお話。その後の母子はどうなったのか、気になるところだが、穴のあいた靴にツギハギズボンの男の子が印象深い。
そうした貧困家庭であるが、物語に出てくる庶民は善意に満ち、ガサツでもなく強引さもない。みんなが貧乏だった時代には、誰もが素直で上品な思いやりを寄せ合って生きていた。どういう境遇にあれ、どういう心を人が抱いているかを見せつけられる。小栗康平の監督で映画にもなり、作品を観たスピルバーグ監督が、「子役に対する演出が素晴しい」と絶賛したという。
自分が心を打たれた数本中の1作品である。父親役の田村高廣は実父を彷彿させられるシーンがいくつもあり、最後の場面で信雄の心情に思いを馳せる父の表情が印象的だ。息子の内面を探らんと、心の糸を手繰り寄せる場面に心を奪われる。主人公の子たちは、演技とは思えぬ言葉や目線や心の動きはまさに映画の奇跡であり、「これが作り物なのか」である。
ラスト、信雄たちから去って行く船がすべての窓を閉め切って、あたかも無人船がごとく無機的造形物として河を上る。その船を一心不乱に追いかける信雄と、そして彼と喜一たちのつかの間の出会いと別れの、何とも切なくいたたまれない情景である。『E.T.』のプロモーションで来日したスピルバーグが、監督の小栗に直接面会に行ったと云うのも分かる気がする。
「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる」とは、イザヤ・ベンダサンこと山本七平の著書『日本人とユダヤ人』のなかの言葉。ここに空気はないが、空気は元々あるものであり、空気があるからこそ人間が発生したわけであるがゆえにこれはもう、「タダ」以前の問題である。斯くの自分は水道料金を払いながら、10年以上ミネラルウォーターを愛飲する。
ミネラルウォーターを飲む理由はいろいろあるが、とっかかりはマンションの水道水を飲むことの抵抗だったが、10年も経てば、「特に理由はない」に近い。健康にいいなどの意識も希薄で、それでも水を買うのは健康への潜在意識だろう。検査基準の厳しい日本の水道水からピロリ菌感染はないと思うが、今のミネラルウォーターの値段なら、まあタダも同然かなと…。
上流気分はないから、小市民のささやかな自己満足。こういう話を読んだ。「大手出版社の社長I氏は、郊外の邸宅を息子に譲り、老夫人と二人で神田の社屋の三階で起居をすることにした。送られた案内状には、「"千畳敷も寝るは一畳"という江戸庶民の気概をもって…」と書かれていた。創業時と同じ自社の狭い一室で生活し、働きつつ老後を送る旨、記されていた。
同時にI氏は自社を三分割し、自らは年齢に応じた道楽的小部門をとり、利潤は少ないが自分の趣味と体力・気力の相応する仕事を自らに割り当てた。何とも見事な老後処理であろう。隠居して仕事から離れれば老い込む、かといって大手出版社を経営する体力も気力ももはやない。広すぎる家も老人には維持も面倒で余計な労力がいる。たとえ車と言えども通勤も重荷だ。
等々の問題をI氏は一挙に処理・解決したのである。そのI氏は知人に対し、「特別老後を考えたわけではない」とし、本音を次のように語った。「ある晩、ふと人間の生活に本当に必要なものはどれだけあろうかと考えた。老夫婦の生活スペースはホテルの一室に台所で十分、着るものは夏冬用が各2着、靴は2足十分足りる。外出は無線でタクシーを呼べば自家用車はいらない。
結局、それ以上は何もいらず、それ以外のものは一切不要であることに気づいた。広大な邸宅に住まおうが、何十着の服を持とうが、運転手付きのベンツに乗ろうが、結果的に同じこと。ならばなぜ、こんな繁雑なことをし、その繁雑さを支えるために働いているのか、問えば問うほど訳が分からない」という事態に思考が至ったというのだ。斎藤茂太も同じことを述べている。
茂太の父はあの斎藤茂吉である。精神科医にして歌人、伊藤佐千夫門下である父を受け継いでは茂太も精神科医にして随筆家であり、北杜夫は弟にあたる。茂太にはたくさんのエッセイ本があり、大体において同じ理念に連なっている。それはそうだ、一人の人間の理念などは変わるものではないとしつつ、そろそろ自分にも理念らしきものが備わって行く年齢であろう。
「平凡こそが尊い」という茂太の言葉を実践すれば、無駄を省きつつと思いながらも、どれが無駄でどれが無駄でないか、どういう行いがバカげていて、どういう行いがそうではないのか、現段階ではまだまだ見定めつかず。先日、トレーニング兼用の服を買った。娘が、「それいいね、8000円はしたでしょ」というので、「その3倍」というと、「たっか~~」と呆れていた。
その表情を見ながら、「なんとまあ、自分はバカなお金を使ったのかもしれない」と考えさせられた。8000円には(そんなんで買えるわけないだろと)ビックリしたが、25000円にはあちらもビックリである。人間のこのビックリの相対性が面白い。その服を買う前に先にシューズを買い、たまたまそのシューズに合う服を見つけたことで、「これはいい」と迷うことなく即買いした。
少し前は高価な駒を買ったが、折角買ったのにと躊躇いながらその駒で人と指したとき、盤も駒もいっぱいあるけど、死んだらどうなるんだろ?」と、他人の死後の心配までしてくれたので、「死んだ後の事は考えられんし、わっしゃ知らん」と言っておいた。余分な服を持つと洋服ダンスが必要になる。靴も50足を超えれば下駄箱では足りず、新たに購入して部屋に置く。
履いていない靴は多く、機会も少ない。それ以前に、常時履く靴などせいぜい5足程度。こういう風に物は増えて行くのだ。結局お金の使い道がないから、広大な土地を購入し、大邸宅を建てるようなもので、家や土地の大部分のスペースも、ほとんど使わないままで人生を終える。あれがいるからこれもいるという図式なわけで、これを逆を考えてみるとどうなるか。
「これもいらない。だからあれもいらない」となる。合理的だし、考え方の基本として優れている。ではなぜ、人は(無駄?)なお金を使うのだろうか?「無駄と思っていないから?」これは自身の欲望を満たすことだからそう思う。あるいは、「無駄と思いつつ使ってしまう」と、稼いだ金は自らが使おうという考え方にあって、女房、子どもに残すものではないというもの。
どちらも、「快楽主義」思想であろう。自分を利するという意味で…。ストイックの目的は何だ?ストイックに生きる目的や意味は何であろうか?ストイシズム(ストイックともいう)とは、実践道徳において、喜悦や悲哀の感情を圧伏し、平静に無関心な態度で運命を甘受する人世観をいう。が、禁欲主義は人間に別なる、「生」の意味をもたらすのであろう。
決して道徳的でない自分に、「禁欲主義」的理想はよく分からない。シェークスピアの劇に以下の一節がある。「ただ、ねえ、旦那さま、その、美徳とか、道徳の修行とかいうことは結構とは存じますが、どうか、ま、ストイックだの、丸太棒(ストツク)だのには成りたくないものでございます」と、これは明らかにストア学派の、「無感情」を皮肉ったものである。