20代の前半だったと思う。友人とこういう言い合いをした。「尊敬できない親の言う事なんか聞く必要はない。」というと、「どんな親でも親だろう?親を大切にしなきゃダメだ。」、「まるで儒家思想だな。大切にするってのは、逆らわず何でもハイ、ハイってことか?」、「親の意見と茄子の花に無駄はないっていうだろ?」、「諺はいい、オレの問いに答えてくれ」と言えば、
「大切にするってのは親の意見に従うってことだよ。」という。「へ~、間違った意見でも従うのか?」、「食わせてもらって、学費もだしてもらってるんだし、当然だろ?」、「だから間違いにも従うってことか?従わなかったら食うな、金をもらうなってなるんか?」、「親はそんなこと言わないが、覚悟はあってもいいんじゃないか?」、「当たり前だろ?子どもは親の奴隷じゃない」。
「でも、もし親が食わさない、出て行け!といったら?」、「出て行けというなら出て行ってやるが、近代法で、"勘当"は処罰の対象。そういう違法行為をやるのか?」などと延々続いたが、要点は「間違った親に従うべきか、従わないか」ということだ。親も親だろ、小中(場合によっては高、あるいは成人以降も)時代の大人しい時期に支配を確立しようとする。
労働者の権利や子どもの人権が強く言われる昨今において、権力側の傲慢な態度や仕打ちが看過されない時代になっている。まずもって、自分は「親が権力」ということに反対である。確かに食い物と金を握っている親は、明らかに権力行使できる立場にあるが、それでは子どもはあんまりというものだ。「バカに金と力を与えるな」と、先人が教えているだろ。
つまり、親がバカであった場合、そのバカにひれ伏して育った子どもはどうなるか?親というのはバカでないと、どうして言える?かつての友人のように、「親」=「尊敬」という盲従は、利口な人間のとるべく態度ではない。気に入らない子どもの弁当を作らないという親がバカでないのか?夫婦喧嘩で、もし夫の弁当を作らなかったらどうなるか?
そういう「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」感情支配された女をバカだというのだ。それはそれ、これはこれと理性の発露が出来ない女は男を潰す、子どもを潰す。「ちょっと喧嘩したからって弁当くらい作れよ!」と夫は言わねばならない。まともな夫なら当然口にする言葉も、ヘタレのバカ夫なら黙ってコンビニ弁当を買いに行く。コレはどういうことかといえば…
妻に逆らったら弁当も作ってくれぬから、逆らわない方がいいと、いい年して親の傲慢に逆らわない夫と同じだろう。喧嘩して頭に来たからと言って弁当を作らない母親も妻も、どうにもならないバカでしかない。感情と義務を混同するのがバカでなくて何だというのか。悔しくとも弁当を作るのが使命である。弁当に罪はないが、こういう家庭は崩壊していく。
なぜなら、世の夫は弁当ほしさに妻に従う男ばかりではない。弁当作らぬなら勝手にしやがれ、そんな女に遠慮はするかとコンビニに行く夫もいる。こういうミソもクソも一緒にする女に絶対にひれ伏すなと世の男にはいいたい。親も同様だ。小遣いを減らす、携帯を取り上げる、弁当を作らない、こういう事をやってまで子どもを手なづけんとする親はバカである。
子どもの楽しみを奪うことでしか躾ができない脳ナシ母ということ。「ない袖は触れない」から、それだけの能力しかない親でも、自分はイッチョ前だと思っているから子どもは憐れだ。ちゃんとした人間になろうとの意志があるなら、こんな親は見切った方がいい。こんな親に手なづけられたら憐れなダメ大人になるだけだ。親は権力者であってはならない。
女がどうかは知らないが、責任感という所在からして自己のない男はダメ男である。三流どころか、部外品といっていい。一流というのは何の世界でもこだわりをもっている人をいう。イチローしかり、あれほどにバッティングにこだわりを持った選手である。中田しかり、本田しかり、王、長嶋しかり。スポーツ選手は才能が表に出やすく分りやすいから提示したまで。
文人や画家や音楽家、科学者しかりである。「自己」とは、相手にながされない、世間に流されない頑なな自分である。「いつもいい人」には絶対にならないというのが男にとって大事。「人がいい」だけではいざというときに戦えないし、勝負ができない。人はいつ手の平を返すかわからないし、そうなって慌てず驚かず、速攻で対処できなければ男の値打ちはない。
言い換えるなら、「男はグズグズするな」ってこと。さっと射精して余韻を味わう間もなくすぐさま別のことに対処できるように作られている。文句を言う女もいるが、それが男と理解することだ。女と違うんだから、くだらん女性誌からの情報で男を自分と同列に考えるなってこと。夫婦喧嘩はつきもの、親子喧嘩も、兄弟喧嘩も同じ屋根の下での事象である。
喧嘩で学ぶのは収束の仕方である。身内の喧嘩でやってはならないのは身内以外の第三者に愚痴をいったり、味方につけたり、コレは止めた方がいい。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」というのは、実は教えでもある。他人が食ってはならない、犬さえも食わないでいるのだからという意味だろう。第三者がいずれかの利害で参入すると、消すに消せない大火になってしまう。
人には人の視点があり、それは自分の視点とは違って当然のもの。誰かが自分の事をアレコレいうのを耳にしたら、聞き流すのもいいし、その内容があまりに看過できないならどうどう戦えばいい。理不尽な言いがかりは戦えば間違いなく勝利する。我慢して無視することが人の偉さと言うのはあるが、たまにはバカを演じてひと波乱起こしてみるのも一興だ。
男ならやり返す力ももっているのがいい。行使するしないは時々の問題、あるいは自身のその時のムシの居所の問題で、「やられたらやり返せの気は持っておくべき。本当の正義なんて、偽善者には語れないのよ。友人と親について言いあった時も、彼は自分の親に育ったわけでもない、自分も彼の親に育ったわけでもない、所詮は別の畑で起こった問題だ。
相手の畑を自分の畑で考えても何の意味もない。今なら最初からそのようにいい、無駄な労力は使わないが、当時はまだその域になかった。自分の親の問題と言っても親の性格の問題であって、人くくりに「親」とするのも間違っている。自分も「親」であるが、同じ親とは到底いいがたい。子どもが成人後、年老いた親とどう付き合うかは重要な問題である。
出来た親なら息子には干渉せず、息子から距離をおいて静に暮らそうとする。出来損ないの親は、子どもに依存しようとする。子どもにとって後者は迷惑であることが多いのに、出来損ないの親はそこがわからない。息子の自立を尊重し、何か問題があった時、相談を受けた時にアドバイスをするのが賢明な親である。それを出来損ないの親に分からせる事は無理。
だったら、実力行使で嫌われてやるしかない。共依存が密着型の親子を作るように、共嫌悪は離別型の親子を作る。不本意であっても離別を望むなら、嫌い、嫌われるのが本筋かもしれない。共依存が悪いなら、共嫌悪も悪いでいいんだろう。親と距離をおいた生き方が出来る子どもの方がいい。それを喜ぶのが真の親の愛情である。親孝行とは一人前になる事よ。
周囲にはいろいろな家族のあり方があるわけだが、問題なのは自分のことであって、だから自分の家族関係に殉じた行動をとればいい。他人が口出ししても気にすることなく、遮って置くほうがいい。親にされた甚だしくも非人間的行為で憎悪心が芽生えたのはむしろ当然である。その事を何ら「悪」と認識しない親は、理不尽だのと不満をブチあげるのは当たり前。
自分が悪くない場合、すべて対象が悪いのだから話は簡単。言って分からぬ相手は無視するのがいい。他人が口を挟むのは数十年の歴史を見ずに、ある部分のみに思考をめぐらすのみで、そういう人間と何かを話して分らせる事も無理。数十年を1000としたら、1000対1では話にならない。我が家の事は我が家の人間が解決すべきで、どんなに人に話しても屁にもならない。
母への憎悪は母からもたらされたもので、自分に罪はない。もたらされてない人間には何の憎悪もないわけだから、もたらせた母に原因がある。憎悪をもたらす親とは断固闘うべきで、地獄に落とされて黙っていてはダメだ。それが出来ない人は、見棄てられたくないという不安だろうが、こっちから見棄てる気があれば、いかなる災いとて排除できる。
何も自分の罪を逃れたいわけでもない。仮に自分の罪が50%あろうが90%あろうがそんな事はどうでもいい。他人から受ける罪よりも、問題なのは母に対する憎悪である。その憎悪が消えてなくなるのは、彼女が地べたに頭を擦り付けて謝るか、死んでこの世からいなくなるかのいずれかでしかない。もはや責任逃れをしたい時期はとっくに失せている。
謝ることで大事なのは、過去の謝罪ではない。これからの自分は過去とは違うという表明でなければ謝罪に意味はない。だから、それくらいの意思があるなら謝罪も巧を成すが、今後の自身の心に新たな息吹を伴わない謝罪など何の意味もない。真の謝罪に至った人は自己変革を提示し、それを実行するという心意気がなければ新たな人間関係は構築されない。
世の中には親への憎悪を何十年も抱えて育った子どもは多い。そのすべての原因は親にある。親から見れば言う事を聞かなかったか、あるいは親の意図に染まらなかった子にあるということだから、子どもに罪があるとなる。果たしてどちらの言い分が正しいかだが、子どもは親の言う事を聞くべき存在か、子どもは親の意に染まる必要はないとすべきかで変わる。
自分は後者なので、子どもを押さえ込み、支配しようとした親を罪とする。だから、そういう罪なことを親になった自分がするはずがない。トラウマとしての自分の親の個人的な問題というではなく、「親」という人間の肩書きを所有するものにこの場で声を上げていることでも分ろうというもの。子どもは親の所有物ではないは間違った論理はないと確信する。
北海道南幌町で母と祖母を刺殺した高校2年生の三女の事件があたらな展開を見せている。三女が通っていた高校の教頭は、「『家庭で祖母が厳しい』という言葉がありました。中間試験の最中に事件ですが、試験ができなかったなど短絡的な理由で衝動的にキレる子ではありません。活発でリーダー的な生徒で10月15日に生徒会長になる予定でした」と証言する。
三女の同級生や保護者らでつくる「将来ある少女に適切な裁判を望む地域住民の会」が10月10日、同町内で街頭活動を始めた。同会代表の女性(41)は提出後、報道陣に「彼女はしつけの域を超えた虐待を受けた可能性がある。刑事裁判でなく家庭送致の保護処分を目指して今後も署名活動を続ける」と話し、応対した地検の担当者は「趣旨は理解しました」と受理。
今月3日までにインターネット署名約800人分を含む1万534人分が集まっている。署名の是非はともかくとして、単純に「世論の力」といえなくはないが、本当に大事なのは少女の家族関係、家庭環境をよく知る人たちの法廷での証言ではないか?署名賛同者は、賛同の意思を示したことに間違いはないが、近場の信憑性のある「声」とはいいがたい点はある。
結果的にこの手の刑事事件は、犯罪である以上、事件に関わった3人すべての人が加害者となるのが悔やまれる。いくら署名で被害者と訴えても、完全なる被害者とはならない。加害に走る前に少女は、被害者としての行状を訴えるところがなかったのだろう。つまり、彼女を現状から救い出すシステムが今の社会になく、少女が自身で解決するしかなかった。
祖母と母との二点攻撃ではたまらない。殺害のキズは祖母の方が多かったという。本来は親からの逃げ場であるべき祖母がである。自分の祖母はいつも母からの楯になってくれた。いつも守ってくれた。だから、この少女は不憫でしかない。もう少し、頑張ってみるべきだったが、そこは「感情の生き物、汝は女なり」だったとしかいいようがない。残念である。二名殺人の重罪であるが、嘆願書の署名が巧を奏し、家庭裁判所での審理が敵うなら朗報であろう。加害者の短絡的行動を褒めることは出来ないが、多くの人たちの理解を得ている。もちろん、自分も理解はするが、食器を投げたり、棒で叩いたり、熱湯かけたり、家出したり、様々な報復方法はあったはずだし、殺すしか見出せなかったのは、報復に対する極度の怯えだろう。
いっそのこと亡きものにする以外は目線が怖いのだ。相手を傷つけただけでは今後の同居に際しての怖さが倍増すると感じるんだろうな。そのあたりも理解できる。が、やはり最後は知能指数の問題だ。殺人の鬱憤晴らしの果てにあるもの、自分の行く末についての想像力が欠けている。何かの行為する場合、コレをすると自分がどうなる?の損得は徹底考えた方がいい。
まさか長い期間獄舎につながれてもいい、という結論に至った上での犯罪行為なのか?犯罪者が逮捕後に、「死刑になってもいいと思った」のような言葉を耳にするが、殺人のような重罪を行為する人間はそこまで追い詰められるものなのか?人を殺して得な事は何一つないし、あるとすれば精神の解放だろうが、常人には利害得失が麻痺してるとしか思えない。