誰にでも人からよく見られたい気持ちは、多かれ少なかれ人間の素直な感情だ。若い時はそれが行動のエネルギーの源泉であったりする。自分を飾りたいと言うのは必要な場合もある。が、人は人からよく見られたいと思うあまりに、背伸びをしたり、気どったりで、マイナス面が強く出てしまう。「人によくみせたい」、「よく見られたい」を虚栄心という。
人間の心は複雑だ。自分を実際以上に見せたいという気取りは人間の心理に深く根をおろしている。異性を求める心も虚栄心とからんでいる。学問好きな人間が多くの本を読めば知識もたくさん身につくし、そういう知識をひけらかす人は、知識があっても知性がない。知性とは何か?「問題解決能力」ではないのか。人類の進化上、高度に選択された特性である。
知性に際立った特徴は、何ものにも拘束されることなく、提起された問題解決の努力をすることである。したがって知性はその大部分が過去の経験に基づいている。知性が問題を解決するなら、自分の生き方を変える事もできる。自らに問うてみる。「自分は自分の生き方が好きか?」過去を振り返り、この道しかなかったと思うのか?他の生き方もあったと思えないか?
よくよく考えてみれば、今の生き方を続けていかなければならない理由などどこにもない。なのに、生き方を変えるのは許されないことのように感じている人は、自分を縛っていることに気づいていない。ところがある日、運よくそれに気づいたとしても、自分の生き方を変えるのを怖がっている自分がいる。自分の心の虚栄心の声を聞いている自分がいるからだ。
今の仕事は明らかに自分にあっていない。あっていないから楽しくないし、憂鬱になる事が多い。ノーベル賞受賞者の中村修二氏はこのように言う。「同じ会社にずっと勤めるのが美徳、会社を辞めるのはいけないこと、こんな間違った倫理が日本ではまだ幅を利かせているのは、洗脳され続けているに過ぎない。会社を辞めることは自分を進歩させることだからです。」
誰もがいうように中村氏の持論も「好きなことをやる」である。仕事はビジネスだから好きでない事でも給料もらうためにはやれてしまう。産業構造の中では誰もが好きな事をできるとは限らない。が、見渡してみると、成功してる人というのは間違いなく好きなことをやってる人が多い。好きなことをやってる人は、かなりの確率で成功しているのではないか。
言うまでもない、好きな事は身を粉にしてでも一生懸命にやるからだろう。とりあえず働いて給料をもらって生きて行くならどんな仕事をやるのも同じだが、「成功」の二文字を掲げるなら好きなことに邁進した方がいい。自分の持っているものに気がつくのも大事だが、自分の持っているものの価値に自信を持たなければダメだ。他人が自分をどう見てるかなど関係ない。
それはむしろ自分を不幸にするだけだ。「才能がある」、「頭がいい」、「会話が上手」などと、他人からよく思われることが幸福になるための条件と考える人はいる。だからか、他人からよく思われないと不幸、お金持ちだと思われたい、素敵な彼氏(彼女)だと思われたい、そんな虚栄心ばかりを大事にする。他人からどう思われるかで自分の幸福感が決められるのか?
ぜんぜん違う。他人がどう思うかと自分の幸福は何の関係もない。虚栄心の強い人間の戯言、思い込みだろう。むしろ、そういうものがその人を不幸にしている。もし人から「頭が悪そうだね」と言っていらだつ人がいるなら、その人をいらだたせているのは他人の評価ではなく、他人に自分を利口に見せようとした自分にいらだっている。自分を不幸にしているのは虚栄心という事。
他人のブログを見て分るのは、たくさんの友だちを作っていかにも社交家のように見える人がいるが、そう見えるだけで実際は淋しがり屋であったり、たくさんのコメを華やかに感じる虚栄の人なのかも知れない。キチンと対話をするでない、互いが世辞の類を言い合っての虚飾のやり取りであるのがよくわかる。
それが楽しいからしているのだろうから、それでいいんだと思う。みんな淋しいんだろうな。リアルの人間は淋しさを紛らわす人たちではないんだろう。大事なことだけ述べてさっと引く人もいれば、たまり場のように毎日出向いて、無駄話を楽しみたい人もいる。それで満たされるものがあるなら、それぞれの人間がそれぞれの花を咲かせればいいんだろう。
あらためて人間の性格は本当ににさまざまであるを実感させられる。室に閉じこもっての研究が性に合ってる人もいれば、派手な性格の人もいる。自己顕示欲な人もいれば、いつもしんがりで満足な人もいる。それこそ自分にあった生き方をやるのがもっとも自然である。そんな人の性格と生き方を考えていちばん愚かと思うのは、地味な性格なのに無理して派手に振舞う人。
また、派手な性格なのに周囲を気にして地味に振舞っている人。そのどちらもブログから見えてくるから不思議だ。無口が性格にあってるなら無口でいい、無理に賑わうこともない。不思議なのは「今日からブログ始めました」と、開設日に最初の一行あって、数年もそのままの人は、おそらく書くことがないからで、だから何も書いてない記事を出してると思っている。
同じように長々と書いてる自分も実は本当の自分を表してないのではと思う。反面、コレが本当の自分ではないか?と思ったり、ようするに、何が自分か分っていないのだ。「楽しのか?」、何がだ?「苦痛か?」、それはない。「習慣か?」そんな気はする。脳の反応を受け取るためにやっている感が強い。あるいは、PCに前に坐って頭に何が浮かぶかを楽しんでいる。
言い換えると、自分を知るためだろう。そのためには自問自答が必要になる。そういう作業が文章である。いわゆる日記と一緒だな。日記も自分を客観的に見ることができる。人間は主観の塊だ。その主観的な表現を、書き終えて眺めるのが客観的ということ。面白いと感じる事も多い。自分が書いたものなのに、本当に自分で書いたのかと、疑う事もある。結局、楽しんでいるのだ。
ピアノでもギターでも、楽器をやってる人なら分かるだろうが、弾いてるときには実は聴くのがおろそかになっている。それだけ弾くという作業が難儀だからである。ところが録音などにして聴くだけの行為となると、弾いてるときの数十倍もの情報が得れる。いいところもよくないところもよく伝わる。グレン・グールドは「生徒にピアノを教えるならどうする?」と聞かれた。
「学生の演奏を録音してそれを聴かせること」。このグールドの言葉は、自分の演奏に疑問の余地があるなら、それは教師ではなく自分で見つけなければならないということだ。「教師がすべき事は質問すること。教える立場というのは、それ以上のものはない」と、グールドは言う。が、町のピアノ教室では成されないが、それをいいと思った自分はやった。
虚栄心を抜きに語れば、たかがピアノ習得法にしても、実にたくさんの方法や可能性があるはずだ。「ねばならない」という発想が可能性を摘んでいる。眠れない時には、眠らなければならない、の意識が強すぎることが多い。勉強に集中できないのも、眠りも、集中できないときは仕方がない。あまり集中を強いるとかえって集中できない、こういうときもあると思えばいい。
虚栄心は当たり前に誰にでもある自己愛だから、少々の虚栄心は気にすることではないが、必要以上に自分を大きく、よく見せてしまう人、つまり虚栄心の強い人は、自らの虚栄心で潰れてしまうことがある。虚栄心=見栄だから、自分とは違う自分を生きてることになり、違う自分を演じることに疲れてくる。人一倍自分に欠けてるものがあると感じるのだろうか?
この世に何もかも揃ってる人などひとりもいないんだし、人は誰でも何かが欠けており、だから欠けてることは恥でも何でもない。そのように思えばいいのに、他人と競争意識が強いとか、欲が強いのだろう。ネットにこんな相談がある。「虚栄心が旺盛で人生が辛いです.今年21歳になり自分の虚栄心をどうにかしないと大変なことになると思い始めました。
自分の思う虚栄心とは、
・異常なまでに他人の目を気にする。
・他人にコントロールされていることを自分でコントロールしてると思っている。
・何事も自分が正しいと思いがち。
・何かが起こってもすぐ人のせいにしてしまう。
・格好をつけるために行動したり、本心からの労りがない。
・何事も他人と比較する。なので劣等感も人の何倍もある。
・他人にはそれをさとられないように隠すのにも必死。
等です。自分はこの全てに該当します。このままじゃ何事も得られない気がして苦しくなってきました。色んな面で他人より充実してる人生を送ってると思ってきましたが、心から楽しめたことなんてほとんどないし、自信を帯びているくせに常に不安にさらされています。自分には能力があると信じていても、心の中の自分が能力が無いと知っているため本当の自信も持てません。
今となっとは自分の生き方に後悔していて、健やかな人間になりたいという気持ちがとても強くなってきました。自分を改善して、素直な自分になりたいです。これらと向き合うヒントがありましたらご教授お願いします。」と言う事だが、コレだけ自己分析をし、問題点を羅列しているなら、上に書いたことの反対をすれば、強い虚栄心が改善できると思うが、どうなんだ?
・他人の目を気にしない。
・他人にコントロールされないようにする。
・何事も自分が正しいと思わない。
・何事も人のせいにしない。
・格好をつけないで、正直に自分と向き合い、本心から自分を労る。
・他人と比較しないようにすれば、劣等感に苦しまない。
・他人自分に無能さを晒す。自分を卑下するのではなく他人を高みに尊重する。
どうしてこれをやろうとしない?他人に相談するまでもなく答えは出てるし、あとは行動すればいいだけなのに。難しくてもやらなければ自己変革は出来ない。何のためというのが分っていれば、人間はいかなる苦しみにも耐えられるし、その苦しみに耐えられないなら目的は叶わない。人に相談して自分を変えられるはずない。自分で自分に命じなければ。
ようするに、「何かをやる人はさっさとやる」ということ。人に相談したりで決めることではないし、そもそも自分のやる事を人に相談することがオカシイ。してはいけないとはいわないが、本当にやろうとするなら、何より自分にあった方法を、自分で探し、見つけることだ。他人はあなたにあった方法を教えてはくれないのよ。災いする虚栄の心をまずは取り払う。
それからだ。綺麗ごとを散々述べてもやらなければ「誓い」に過ぎない。 「誓い」とは何だ?誓いとは「将来、ある事を必ず成し遂げようと決心または約束すること」とある。つまり、誓いとはやろうがやるまいが「約束」ということになっている。「約束」なんてのは破られるためにあるんだ、そもそも…。だったら同じように「誓い」も破るためにある。
自己変革をしようというなら、つまらん「誓い」などするな。「約束」などせんで宜しい。そもそも、誓いなんてのは、今できないことを先に延ばそうとするわけだし、だから「誓い」をしてさも、何かをするが如くの気分になる。さっさと行動する人間は「誓い」など立てないんだよ。そんな暇があったらもう動いてる。「そうだろ?」誓いなんて立てる心理は。
ああだ、こうだといって何もしない人間の専売特許みたいな言葉は山とある。行動する人間に言葉は要らないよ。口ばっかりで行動しない人間にはいつもこう投げ捨てた。「悪いが、お前の言葉に興味はない。とりあえず行動してくれ」。言葉は柔らかいが、「ゴチャゴチャ抜かさずにさっさとやれよ!」と言ってるわけで、それくらい分れといいたいところ…。
それが分らないのが、口だけの人間。「言葉は行動を隠すためにある」という名言があるが、こんなのを名言と思う奴はそういう人間だろう。まったくの素朴な事実である。多くの名言と感じる言葉は単に「あこがれ」が多い。やれてる人間には何でもない言葉。言葉に酔い、言葉で納得し、それで行動をしないで入れるなら、人間より犬の方が賢いぞ。
犬はやる事はやる。やりたくない事は尻にしっぽ挟んで逃げる。実に分りやすい純粋な生き物だ。やりたくないのに、やれないのに、いかにもやらんばかりの態度、仕草をみせるのが人間であり、それを虚栄心という。やらない、できないなら、とっとと逃げろといいたくなる。が…、人間の虚栄心をなだめて上手くよい方行にもっていくのが上位者の定め。
コレができて管理者の資質だ。無能な管理者は、「近頃の若者は何言ってもダメ」とお決まりのセリフ。親も同罪よ。「何言ってもきかない」、そうかも知れない。が、自分の言う「何」がくだらん言葉だとは思っていない。つまり、自分は悪くない。すべては相手が悪い、そういう虚栄心を見せる。どっちもどっち、そんなつまらん「虚栄心」など捨てたらどうか?
実際問題、「虚栄心」って捨てられるのか?捨てられると思う。乞食になればだが…。他にもあると思うが、自分にもっとも合った方法を見つけることだ。それが、本当に行動を実のあるものにしようとする人間の態度である。人の言う事を「はい、はい」聞くやつがダメなのは、人の価値観で動いてるからだが、本当に自分が自分のためによい事は自分で見つけるべき。
立派な指導者というのは教えないもの。匠の世界に生きるものは大工であれ、料理人であれ、教えないものだ。ただ、出来上がったものを「ダメ」というだけ。「よい」という場合もあるが。その言葉が「教え」であって、本来的に勉強と糞は自分でやるもの。塾などで至れりつくせり授かった人間は、能力が向上したのではない。その程度で向上する能力など「屁」。
偉くなったと思う方がバカ。世の中"レンヂでチン"が蔓延っているから付和雷同であるのは分るが、こういう似非教育で東大、京大出身者に、将来的なノーベル賞級の人間がでるのかは危い。親も、本人もそんなことまで望んでいないし、とりあえず人より優れた学校でてればよいのでコザイマス、みたいな風潮だ。昨今は、大学生の「オシクラ饅頭」の時代。
「学歴がなくて困るのと、学歴があって困るのは、紙一重の差。」