表題を決めて何かを書くときは何も決めないで書くときとまるで違う。表題ナシで書くときは、何の制約も感じないで、頭に浮かぶことをそれこそ意のままに片っ端から書いていくが、表題で書く場合にやることは、自分らしさを書こうとする。つまり、人にない自分の感性を重視する。既成の価値観が好きでない自分は、物心ついたときから少数派を志向した。
少数派の中に実はキラリと光るものがあるのを多くの人は知っている。多数派といわれる考えや意見には、それをやっていれば無難、人から後ろ指を指されることもないし、仲間はずれにされる事もない、だから多数意見に組するという図式だろう。さすがは多数派だけに卒がなく、正しく真っ当な考えと同意する人もいるが、基本は信じるものをやったらいい。
他人はどうか分らないが、少数派志向であるためには、他人がいいと思うもの、多数派が正しいと示すものについて、とりあえず疑うところからスタートする。大勢の人が「イイ」というなら、それのどこが「イイ」のかをまずは探りたくなる。「イイ」には理由があり、それを納得してこそ本当に「イイ」ということになるわけだから、人が「イイ」から「イイ」は盲信に過ぎない。
「勉強」は教科書にある事を信じることだが、「学問」は教科書を否定するところがスタートであるように、いまさら「勉強」などに興味はない。既成のものを疑えば、正しくないと感じるものは多く、それが楽しくて生きている自分は、既成の生き方よろしく、それが人生の安泰などと全然思わない。いいものはいいが、よくないものはよくないと結論したいのだろう。
そういう生き方や考え方を「向上心」とは思っていない。「向上心」とは、現在の状態に満足せず、より優れたもの、より高いものを目ざして努力する心。と辞書にあるが、現在の状態に満足してる自分には既成の「向上心」はないということ。求めるものは現在の(多数派)価値観に満足しない変革かもしれない。より優れたもの、より高いものという有り体の価値観ではなく。
むしろ、より自然なもの、より楽しいものは何?という視点に興味がある。世の中を変えるなどのおこがましさというより、発信の目的は自己満足である。思ったこと、言いたいことを言える境遇、環境にあるという、それだけのことだ。熱意が人を動かすことは確かにあるし、それは人間体験で得た。熱意は自分だけのものではない。同じように、「向上心」もである。
「向上心」を強く持つ人は本人だけではなく、周囲にもプラスに働くということ。そうとばかりはいえないし、他人の熱意や「向上心」に感受しない人もいる。そういう人間を「シラケ世代」と言われた。あるグループがどういう場合に能力を発揮するかについて、ある研究機関のリサーチによれば、一人の優秀な能力者(リーダー)によって何かをやるのがいいのか?
特定のグループの平均IQとの相関があるのか?いずれも「No」で、もっとも相関にあったのはグループの「社会的感受性(social sensitivity)」であった。つまり、グループの面々がお互いの感情をどれだけ推し量ることができるか。これがグループの高い能力との相関があった。いわれて見れば「なるほど」である。『項羽と劉邦』で劉邦の勝利の要因ともいえなくない。
集団の共同作業において、個人の知能レベルは成績にほとんど寄与せず、各人の感情を読み取る能力やグループへの参加度が重要だとする研究結果だが、かつて重視された「団結」や「モチベーション」や「幸福」も寄与しない。集団の知能に対して、個々の知能はほとんど寄与せず、社会的感受性(他者の感情を察知する能力)のほうが寄与度が高いという研究は驚きだ。
実験結果について心理学者Anita Woolley氏は、「われわれは直感的に、満足度や団結が成績に関連していると考えているが、こうした直感はあまり当たっていない。幸福や団結が悪いというわけではない。われわれの社会は、皆が相互に結びつく社会へと向かっている。そのなかで、知能とは何かという概念が、個と集団との関係のなかで問い直されつつある」と、語っている。
西洋文化では個人の知性や実績を非常に重視するが、世界が平準化し相互交流が活発になるにつれて、個人が独りで何ができるかよりも、集団で何ができるかを考えることが重要であるなら、自己の「向上心」も大事だが、それ以上に"他者の感情を察知し、理解する能力"が重要になる。ハッキリ言えることは、一人でも自己中人間がいるようでは、グループの活性化はない。
グループで仕事をする場合、「切れ者が1人いても成績にさほど影響がない」。このことは、ビジネスや軍事などの分野など、コンセンサスに基づいて意思決定を行うことの多い分野では有効だろう。集団的知性のレベルを知ることは重要である。「社会的感受性」の高い人は、相手の顔色を見て感情を判断できる能力とも言えるし、「調整役」の機能を果たす人である。
ここが大事なのだろう。ワガママ、自己中人間が目白押しの時代にあって、グループ内でメンバーの能力をいかに適材適所で発揮させるかにおいて、個人の能力には限界があるということ。人間社会も多くの動物と同様に集団生活の方がうまく機能するというのをあらためて実感する。例えばアリは高等生物ではないが、集団になると驚くべきことをやってのけるように。
ワガママ、自己中はグループにあって感情的に嫌われる存在であるけれども、それだけではなく、会社の上層部はそういう人間を排除することも考えなければならない。もっとも、採用時における面接で排除すればいいわけだ。「向上心」は個々の問題であるが、グループにポジティブ感を与えるように、ワガママ、自己中なる人間はむしろいない方が会社の利益になる。
自分がもし、ワガママ、自己中人間をグループ内に発見したら即効で対処するだろう。最近は物怖じすることなく、「うちはワガママです」、「自己中です」と公言する人間は多いが、それを恥じることもせず、「悪」とみなさない無知者には、相応の仕事しかさせない。そんな言葉が社会に通用すると思っているバカは、社会からの仕打ちを与える以外に治療法はない。
個々が自分の能力を向上させるだけでなく、相手の気持ちを察する能力を身につけるのが大事なわけだが、これらは幼少時期からの親の育児能力に負うところが大きい。我慢をできる子どもに育てることの重要性はいうまでもないが、多くの親が、「そんなかわいそうなことはできない」というのをよく聞いたし、何でそんな風に思うのだろうと、信じられなかった。
「我慢できる子」というのはちょっとやそっよでキレないという大きな利点がある。キレると言うことが、どれだけ周囲に悪影響を及ぼすかだが、実際キレるヤツは周囲の迷惑より、周囲は自分にもっと気を使えといってるわけだ。これは、幼少時代にあまりの特権意識を与え、子どもの奴隷に成り下がった親の責任というしかない。我慢できる子の人生は「得」ばかりだ。
そう思って躾けるべきなのに、その場、その時点での子どもの得ばかりを考えるから、「そんなかわいそうなことはできない」という言葉がでる。我慢できる子は、ルールとかマナーの価値が分ってる子ということ。子どもにルールやマナーを教えるのは容易ではないから、とにかく我慢を教えることで、間接的にそれらを教えてることになる。躾は間接的でいい。
どうすれば子どもに「向上心」をもたせられるか、植え付けられるか、そういう専門的なことは分らないが、だいたいこのようにすれば…という方法はあるわけだから、それぞれの親が適した方法を導けばいいのではないか。社会に留まらず、ルールやマナーは家庭にも友人関係にも大事だ。それは互いが気持ちよく生活し、暮らすために考え出されたものである。
そのためにお互いが少しづつ我慢をしようということ。こういう社会生活に大事なことを教えない親はいないだろうが、そんなものは小学生、中学生でもなんとかなる。自分が分かるようになるから別に教える必要はないという親もいるからそれぞれの問題でいい。自分は教育評論家でもなんでもない。孫の親にも早期教育を言ったが、実践しないで今頃困っている。
どこの親もそういうものだろう。強い危機感を持った親でない限りはこれが一般的だ。親の「向上心」というのは子育てにおいても言えることだから、「なんとかなるだろう」は「向上心」でも何でもない。となると、「向上心」というのは危機感から派生するものでもある。「そのうちなんとか…」と物事を先送りせず、「今でしょ!」を重視するなら向上心が要る。
つぶれそうだった軽井沢の老舗温泉旅館を復活させたり、日本各地でリゾートを運営する企業へと飛躍させた星野佳路という人が話題になった。再生困難といわれた物件が、彼の手にかかると次々と見事に蘇る。「星のや」はそんな星野氏が展開するリゾート施設で、現在、軽井沢、京都、沖縄、バリ、富士、東京にある。彼の持論は「意味のないことをやめて身軽になる」である。
星野氏は言う。「私の習慣とは、何かを"する”のではなく、"しない"ことを決めることかもしれません。たとえば、ゴルフをしない、会合しない、時計を持たない、スーツを着ない、社用車に乗らない、社長室がない…。自分がやっていることの1つひとつについて、ほんとうに大切なのか、意味があるのかを考えて、やらなくてもいいことは止めるようにしています。
意味のないことをやめると、精神的に身軽になれます。仕事は、ただでさえストレスフルなわけです。だからといって、ストレスフルな仕事をすべてやめるわけにはいきません。そのような中で自分のパフォーマンスを高めていくには、ストレスコントロールが不可欠です。意味のないことをやってストレスを感じるのは、極力避けるのがいい」。これも彼の向上心だ。
「プロフェッショナル」という番組で彼はこう述べた。「全ての社員が出席する会議である議題を討論する時、"社長の指示"をせず、『出席者の決定にに任せる』と言った」。司会の茂木健一郎が「どんな結論が出ても任せるか」と聞くと、「適切なプロセスを踏んで、出てきたものなら」と答えた。社長や上の人間の考えを押し付けるよりは自分たちで検証し話し合。
それで決めたことであれば、結果的に成功するかしないかは分からないが、「目的に向かっていく」モチベーションもより高くなるというようなもの。「何かを決定する前に結論が正しいということは誰にも分からない。大事なのはプロセスである。「メンバーの能力をいかに適材適所で発揮させるか」という「社会的感受性」を高めた結果にモチベーションも高まった。
トップダウンの組織では個性は殺されがちになるからして、星野リゾートは「組織プレイのお手本」と言える。自分たちの決めたことなら、自分たちで責任を取ろう、そのために一生懸命に頑張ろうという気になる。「社長が何の指示もしない」という星野氏の狙いはそこにある。「社会的感受性」の効用は、従業員個々の「向上心」を自動的に高めていることになる。1960年生まれの星野佳路氏は、慶應義塾大学経済学部卒業、米国のコーネル大学ホテル経営大学院修士課程修了などの経歴からして、従業員なら誰もが認めるエリート社長である。その星野氏が、トップダウンを止めてsocial sensitivityを採用するのだから、よほど「社会的感受性」の効用を認めているのだろう。旧態依然の父の経営方式と衝突して勝ち得たものでもある。
「向上心」の高い人間は特別な勉強などでなく、普段の仕事ぶりから伺い知ることもできる。「常に効率化を考えている」、「新しいことにすぐ興味を持つ」、「スキル磨きに余念が無い」など、常に身の回りを良くしようと考えている。「向上心」の塊のようなイチローはこう言った。「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。」
日々努力を怠らない人には「努力」という言葉はないが、「向上心」の高い人間にも「向上心」という言葉はないのだろう。どちらも備わってない人が使う言葉であって、「努力」も「向上心」もそれをする人にとっては当たり前の行動である。斯く言う自分も「向上心があるねー」と言われることはあるが、向上心があるなら向上してるはずなのだが、どうなのだろう?
足りないものを補おうとする自然の態度や行動が「向上心」と呼ばれているに過ぎず、自分的にはもっと違う意味での目指すべき高い「向上心」という行為があるように思う。それを行えばいろんな意味で向上するのではあるまいか。まあ、あまり無理を強いるのは好きではないし、無理をして向上しても…先は短い。決して駆け足でここまで来たんじゃない。
ゆっくり、のんびり、生きて来たように思う。駆けようが歩こうが一年は一年で変わりはない。駆けてみたら365日が250日になるわけでもない。初めて聴いたときに、妙に納得させられた歌があった。実に素朴に、アンニュイに、淡々と自身のこれまでを歌っている。無理せず、強いらず、気負わず、美化せず…、ゆえに説得力を感じた。
「今日までそして明日から」
わたしは今日まで生きてみました
時には誰かの力を借りて
時には誰かにしがみついて
わたしは今日まで生きてみました
そして今、わたしは思っています
明日からもこうして生きて行くだろうと