依存心についての記述はたくさんあるが、「それがいい」などと誰もいわない。なぜ「依存心」がよくないかも書いてあるが、読むと分るとでは大違い。親子の「共依存」のように双方の利害が一致していれば、いかなる依存悪も「良」となる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という有名なギャグがあるが、ここには人間が悪を犯す行為の本質が隠されている。
普通の読解力があれば誰でも理解できると思うが、「禁止されていることも集団でならば心理的な抵抗もなく実施できる」ということ。赤信号を渡る怖さ、赤信号を渡るモラルなどが、集団である事で半減もしくは消えてしまう。人間の心の中にある「悪」の抑止力が集団の論理で簡単に消えるということだ。罪を咎められて、「みんなやってますよ」というのと同じ意味である。
お前がその事を「悪」と認識しているかどうかが問われているのに、「人がやるから自分も」という答えをもってくる人間の心の弱さだろう。集団心理というのは、合理的に是非を判断しないままに特定の時流に流される事をいうが、個が確立されていない社会や、精神的に未成熟な子どもにはこの傾向が強い。群れを作る人間が群れに馴染む方法の一つとして理解に及ぶ。
「孤立を怖れぬ強い精神力」としばしば述べているように、人間は集団の論理に迎合しないことで孤立を強いられることがある。たしかに集団の中では善も正義も無力かもしれないが、頑なに善を提示し、正義に殉じろとは思わない。青春とは如何に多くの規則を破ったかによって量られるというように、規則正しく生きた青春より、はちゃめちゃに生きた青春に価値を見る。
「青春」をどう生きるかについての正解はない。どう生きても個人の選択だし、それに対する結果の是非を自分が受け止めることしかない。結局、どう生きても後悔はあるわけだから、受験勉強の青春も、暴走族・ヤンキーの青春も、である。どちらもやってみればよいのか、というとそれも中途半端である。こういう小噺がある。アラフォーOLが二人、パブでの会話だ。
A子:「わたし、自分の青春なんか思いだすだけで悲しくなるんだよね…」
B子:「なんなの?なにがあったの?」
A子:「…。何もなかったのよね……」
B子:「そっか…」
年をとって青春を客観的にみることになって、そういう人が青春を論じる意味があるのだろうか?青春とはまさに今、青春の人が述べ、主張すべきもの?『青年の主張』というのは、1956年からNHKで毎年「成人の日」に開催されていた若者の論文コンクールで、正しくは「NHK青年の主張全国コンクール」といい、1990年から表題を『NHK青春メッセージ』とした。
変わったのは表題だけでなく、これまで設けていた主張テーマを廃して自由なアピールを発表する事が出来るようになったし、ビデオやカセットテープに収録して応募する事も可能となった。また、年齢制限も緩和され、当該年度に満15〜25歳になる青少年に広く門戸を開放した。これに対して、『60歳からの主張』というのが、平成15年から開催、本年で10回を迎えている。
「全国老人福祉協議会」の主宰によるもので、1回から10回までの入賞論文が、協議会のホームページで読めるが、公的なものゆえにそれに相応しい内容となる。小中学生が、作文の中に「平和」や「人権」を書けば褒められるようなものだから、真面目な爺さん、婆さんの範疇に属さぬ自分などは、読んで感動するものは一篇もない。青年は未来を夢を主張すればいい。
老人は過去や今を主張すればいい。決して未来を主張してはいけないというのではなく、そこは「分際」というものを考慮すべきか。いかに100歳人口が6万人に達する時世といえど、平均寿命が男女共に80歳を越えたといえども、老人が未来を語るのは限られる程度に語るべきだ。「ネガティブな事をいうね~、老人にだって限りない未来はあるんだよ」と食いつく人もいる。
別に食いつかずと自分がそう生きたらよいのであって、未来は限定されるという現実志向に食い下がることもあるまい。大事な事は、過去をどう生きたではなく、未来をどう生きるかでもなく、今をどう生きるか、このことが大切な「今」という時間を輝かせることだと自分は思っている。未来をアレコレ思考する人は大いに結構だし、なんら批判する意図はない。
若い時は自己主張の塊であったが、人は経年で他人を心から認める人間でありたいと思っている。個人的な中傷や攻撃に対しては相手を見て対処する。「我、関せず」に相応しい人もいれば、「いい年して人攻撃なんかやってる場合か!」と、換言を用意する相手、それらは人をみて判断する。「死」を頭の隅に置きながら「生」を全うするのは老人に必須である。
「老人だって未来を…」と御託を並べる人にあえて水を差す事はいわないが、考えれば分りそうなものでもある。「死」と言うのは未来の出来事である。したがって、「死」を思う、考えることは未来を見通すことにつながる。これを前向きな生き方と捉えないのご老人は実は思考が足りないのだ。行け行けドンドン、そんな体育会的なご老人ではないかと思っている。
人間は生まれたときは誰かに依存しなければ生命の維持すらできない仕組みになっているが、同じように人間は老人になると赤ん坊と同じようになるといわれる。身体が未完成な乳児期、身体が故障して動けなくなった老齢期、根本的な違いはあっても依存を必要とするのは変わらない。乳児の依存は必須だが、老人には依存を望む人と依存を嫌う人に分かれるようだ。
その違いを想像でいうと、前者は孤独で寂しがり屋、後者は自己充溢感や独立心の強いタイプではないかと。なにも老人だけに限らず、子どもでも若者でも、依存心の強い人間は独立独歩な気持ちが希薄な人間と察する。また、人を頼るくらいなら自分でするというのは、優しさ、思いやりから派生するものでもある。人が自分に何かをするのは当然という人は傲慢な性格である。
これらが入り混じって、人の行動となる。「てやんでい、べらぼうめ!人を老人扱いなんかするんじゃない、こんちくしょうめが」と、いかにも江戸っ子弁な糞爺だが、この言葉の裏に潜むのは優しさであろう。表面的に優しい人と見える人は実はそうではないという場合は多く、何が本当の優しさ、どれが偽りの優しさかを判断するものは「心」である。
つまり、言葉は「心」ではないということ。「心」と「言葉」は同一の場合もあるが、元々は別と考えれば、「心にもない言葉」も、実はあたりまえの人間である。「心にもない言葉」と人を責めるが、そういう人も同じ事をやっている。人の批判は実は自身への批判であることが多い。同時に自身を高めようとする批判に移行するなら、前向きな批判としてなされていい。
「優しい人」、「優しくない人」は間違いなく存在する。一言でいうと難しいが、あえていうなら、「優しい人」は自分の利害得失を考えない。さらに言うなら、他人が見て明らかに損である行為も、本人は損ではない行為する。まったく損でないとは言えないはずだが、損の度合いが少ない事も含めて行為であり、無理をしていないからフラストレーションにならない。
「よく人のためにあそこまでできるな」と、何の見返りも求めずにできる人を「優しい」と感じることが多い。それは「優しさ」を超えた「愛」というものかもしれないが、他人にはよく分らない。優しくないひとは、優しくなれるのだろうか?「どうしたら優しくなれますか?」なんどもこれを聞かれた。果たして人が答えを出せるものなのか?自分なりにいろいろ答えた。
「相手の気持ちになること」、「相手を好きに(愛する)こと」、「損得よりも大事なものがあるのを知ること」、「周囲に感謝を怠らないこと」、が思い出される。が、これらはどれも本質ではない。優しくなるためには、優しい人と接することが何より大事なこと。優しい人と交わりながら、多くの心の葛藤を解決していくのが、本当に人が優しくなっていく方法だろう。
優しい人は人と触れ合って生きるが、その触れ合いの中で邪悪な人を排除しようとする。なぜなら邪悪な人は優しい人を利用しようとするし、優しい人の恩恵を受けて成長しようなんて気はさらさらない。とにかく邪悪な人間は人を利用することしか考えないから、邪悪同士との交流は絶対にしないし、善い人、優しい人をターゲットとする。そうと分れば成敗に担い手になる。
「善」は人間の普遍的理想であり、人倫共同の「真」をせしめることとしてどこまでもあるべきもに、否、あらねばならないもの。このあらねばならぬことを否定拒否するのが「悪」であり、「悪」は常々「善」を前提している限りにおいて、「悪」はその否定的な性格において「善」に依存している。この世に悪が蔓延るのは善が存在するからで、善人が悪人を作っている。
人間が宗教に依存すればこの世の悪は一掃されると説く宗教もあるが、バカをいうなって。善が存在する限り悪はなくならない。差別が存在するのは人間が差別が好きだからであり、いじめがなくならないのは人間がいじめを好きだからに他ならない。汚職が人倫教育でなくならないのも、人間がお金を好きだからで、不倫がなくならないのも、人間がsexを好きだからである。何も難しく考えることはない。
ここに自他共に「善人」と称する人がいる。その人の押し付ける「善」は、行き過ぎた「善」と解されるなら、それはもはや「悪」となる。何かに依存する者は、「分ってはいるんだけど止められない」という。そういう気持ちで自らの行為を苦しんでいる。捨てられた男を忘れられない女も「分っているんだけど」と依存対象に依存し続ける。
「依存」が悪いのか?対象(酒・煙草・麻薬)が悪いのか?周囲は「依存」が悪いといい、当事者は「対象」が悪いという。問題の本質は本人であるから、周囲の言葉は本人には何の意味もない。親は子どもが悪いという。子どもは親が悪いという。男は女が悪いといい、女は男が悪いという。いろんな人がいるとこういう世界になる。「共依存」は双方に快感といった。
どうすれば快感を「悪」と認知させられるか?それは社会(第三者)の役割となる。訴訟も調停もそうであるように。第三者の目が絶対に正しいといわないが、当事者に比べればマシな部分はある。「神」の裁定といえずとも、「中立」の裁定をくだせる。人間に自我がある以上、人間はみなエゴイストである。エゴを表出できない浮遊物のような人間も問題がある。
子どもと母親の争いにおいては父親、子どもと父親の争いにおいては母親、兄弟同士の争いにおいて両親が社会の目(第三者)として有用だ。エゴは、所詮は神の作り給う道徳の逃げ場に過ぎない。よってエゴは「肉体」という最強ツールを創り出した。肉体は、本来は形のない意識であるはずの人間を目に見える形にしたもの。精神=肉体であり、肉体はまた精神である。
エゴは、「ボクやアナタは、お互いに別々の、独立した個人なのだ」という思い込みを強化し、分断が固定化されたものである。広大無辺の海から、コップで水をすくってみたようなもの。コップの中の海水も、もといた海の水と何も変わらないのだが、なんだか、自分と海とは、もともと違う存在だったような気がしてくる。人間の場合、コップに相当するのが肉体である。
精神と肉体の融合は至難である。常に問題が噴出し、自分や相手や周囲がその火消しに奔走する。そうでしか世の中は成り立っていない。そうでしか世の中は成り立たない。理想社会が如何に机上の空論であるか、共産主義の崩壊で人間はそれを知った。世の中では、一見タダに見えるものが、実はタダではなく、そんな社会を維持するのに、ものすごいコストがかかる。
1000円の食べ物を政府が買い取って100円で売れば、「理想社会」に近づくだろう。が、差額の900円をいったい誰が負担するのか。重い税金をかけるのか。ユートピアと言われたマルクス・レーニン思想は、書物の中だけの夢であった。自分勝手な人を「自己中」といい、悪と罵る。が、最善を選択しようとする人の性質もまた、「自己中」と形容される。
何をやっても、どう生きても、正・反表裏にあるならいかなる見方もできる。だから気にしないことだ。善を行為しても悪と言われ、悪と思っても善と評価される。結局、他人の評価などに一喜一憂しないこと。「泰然自若」とは、泰然=落ち着きはらって物事に動じない。自若=何に対してもあわてず、驚かず、落ち着いている、この同じ言葉の組み合わせだ。
人間が老齢になって行き着くところはそういう境地ではないかと。もはや何も動じることのないほどの経験を積んだ人間の終の境地である。「死」さえも怖くないほどに精一杯生きて行くべきだろうが、美しく年をとった人はそのように見えてしまう。この人に怖いものが何があるのだろうと、そんな風に見えてしまう。泰然とは、自若とはそういうことかなと。
「依存」は評価に値しない言葉といった。が、よくよく考えてみると人間は自然環境(5つのエレメント)に依存する。さらに人間は他の生命に依存しなければ生きていけない存在である。ビーター・シンガーは、「現在の社会において人間が動物たちに行っている畜産・動物実験は、人間の利益優先から動物に配慮せず、動物に多大な苦痛を与え殺害する非道徳的行為」という。
あらゆるものの依存に生きながら依存を否定するのは、ご都合主義というものだろうが、自らを棚に上げて何かを言わなければ何もいえない。まして、人が人を教育することさえ傲慢であり、茶番である。だから、「お前は自分の事を棚にあげてよく人のことがいえるよな~」という人間はオカシイ。何かをするとき、何かに蓋をするのは「良し」としよう。