むか~し、あるところに自分という男とあいつという女がいました。ある日あいつが自分に尋ねました。「自負心ってどういう意味?どういう風に使ってる?」。使い方は用例を示して教えたと思うが、「自負心」をどう説明したかの記憶はない。今ならどう答えるのだろうか?日常で何気に使っている言葉の正確な意味を知らない事は多いが、とりあえず正しく使えている。
「"自負心ってどういう意味?"と聞かれ、答えられないなんて自負心が許せない」みたいな…。言葉の用法はできても、自負心を心の隅に覗かせてみても、分らないものは分らない、答えられないものは答えられない。だから、こういう場合は、"自負心"というより、見栄、強がりというのが相応しい。「自負心」は漢字からして、自分に負けない心?
漢字というのは便利である。まさに「読んで字の如し」というモノが多い。そんなところで「自負心」を辞書で引くと、"自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心"とある。なるほど、いつもながら辞書には感嘆する。そういう風に理解するものか。ZARDの『負けないで』とはちと違うようだ。意味を聞くと、「自負心」が使いづらくなるが、単純に「自信」でいい。
そこまで正確な意味にこだわることもないし、誰も細かい事を言わないし、世の中"ぞんざい"という気持ちが大事である。正解ばかり求めずとも、近似値でこの世は充分楽しめる。国語博士(?)を自認するどこぞのうるさバカが、「意味が違うぞ!」などとコメすれば、「すっこんでろい」と言いたくもなる。楽しむという生き方を知らない憐れな人間だろう。
で、そういう奴の言葉は「嫌われて結構」だから成長がない。「なるほど、この世はぞんざいに生きる事も大事なんだな」と足を踏みとどまれば、少しはお利口になるかもしれないが、互いがバカといい合うのも世の中の面白さでもある。自分の考えている法則には殉じないと言う点で、世の中は面白いのだ。「自負心」の正しい意味を知っただけで800字を費やした。
800字は原稿用紙二枚だ。作家は原稿用紙一枚書いていくら?が収入かと思っていたが、基本は印税収入のようだ。売れっ子作家「東野圭吾の驚きの年収」なんてサイトがあるが、一日の○○○なんと100万円という書き方がオモシロイ。○○○に"納税額"の文字を予測は、我々貧乏人には無理。そんなに稼いでも贅沢なんかできるものではない。
高級仕立のスーツ、一台数千万の高級外車、白亜の大御殿に住み替えたとして、スーツやスポーツカーや大御殿から良い作品が生まれる事はないのだから、彼らはそんなものは望まないだろう。作家なんて、机とペンと椅子があればいい。近年はペンがPCソフトに変わったようだ。お金は稼がなくとも使わずにいれば目だって減る事はない。使って楽しい人は使うだろう。
お金を使って楽しくもなんともない人は使わない。自分は現在後者にある。若い頃は湯水のように使ったし、お金を使うこと(物を買ったりがメイン)が生きてる証しであったから、使わないではいられなかった。初めてクレジットなるものを使用したときも覚えている。横浜の大手電気店でオーディオを買い、かつて月賦という名称がクレジットと変わっただけでさわやかだった。
申し込みクレジット会社は「北日本信販」と言った。今の「JACS」である。JACSカードは現在もあるのか「日本信販」から分社化してできた「大阪信販」は現在の社名は「アプラス」。「オリエント・コーポレーション」は創業当時は「広島クーポン」という社名だった。同じく広島に本社のある総合家電店「エディオン」は創業時「第一産業」といった。まさに社名は世につれである。
「テイジン」が「帝国人絹織物」、「ダイハツ」は「大阪発動機」、「東芝」は「東京芝浦電機」、「TOTO」は「東洋陶器」、そういえば、「東京通信工業」から「SONY」に社名変更したが意味不明の社名にメインバンクは大反対だった。ちなみに「SONY」の由来は、音『SONIC』の語源となったラテン語の『SONUS (ソヌス) 』と、小さいとか坊やという意味の『SONNY』から来ている。
SONYのマスコット「ソニー坊や」を真似た「マネシタ電器」こと松下電器は「ナショナル坊や」を、東芝は「光速エスパー」人形を同社製品購入者の景品につけた。三菱電機は女の子の「メル子ちゃん」。日立は烏を模した「ポンパ君」が同社のカラーテレビ・キドカラー専用マスコットで、日立の新技術スイッチ「ポン」で「パッ」と映像が出ることからつけられた名前である。
簡単で、どこの国の言葉でも大体同じように読め、発音できることで考案された「SONY」に、メインバンクは驚いたようだ。Panasonicにも「Sonic」がある。Pan (汎、あまねく) とSonic (音) を組み合わせ、「当社が創りだす音をあまねく世界中へ」の思いが込められている。元は松下電器であった。自動車メーカー「ホンダ」の本田宗一郎はこういっている。
「自分の最大の過ちは苗字を社名にしたことだ」。「トヨタ自動車」の創業者は豊田佐吉(とよだだきち)なのに、なぜにトヨタであるかは、濁点がないほうが響きが良いこと、トヨタにすると8画になって画数が良くなるからである。昔から「八」は日本では末広がりで縁起のいい数字と考えられていた。が、トヨダがトヨタになった直接の要因は実は別にあった。
会社創立前年の昭和11年、すでに「トヨダ号」と決定していた新車のためのマークを全国から公募した。そのときに選ばれたのが美術図案家・中島種夫の作品。ところがマークは「トヨダ」でなく「トヨタ」になっていた。明らかにミスだが、濁点がないほうがデザイン的にもスマート、姓名判断的にも「トヨタ」の8画が良いとの意見で、このマークに決定した。
「トヨダ号」も「トヨタ号」に変更され、新会社の社名も「トヨダ」ではなく「トヨタ」になったという。ながらく「松下電器」であった「パナソニック」は、創業者松下幸之助の呪縛を切ったが、「トヨタ」、「ホンダ」にその気配はない。松下社名変更は2008年10月1日、創業90周年を迎える年にあたっても英断であったが、「松下」のカリスマ的自負心を捨てた真の理由は?
「創立100周年の時に、世界一の電機メーカーになることを目指している。そのために社名変更は今しかない。3か月、半年、1年の経営判断の遅れが致命傷になる。とても100年目まで社名変更を待つことはできない。松下の名前、ナショナルのブランドを手放すことは大きな決断で、手放す以上の価値をこれから強く生み出していく責任がある」と大坪社長は語る。
「自負心」という「誇り」を捨てて、個人のノスタルジーに浸るよりも、これからの松下を大きく発展させるには、より成長する可能性のある「Panasonic」ブランドにと決断した。そういえば、「アデランス」は2010年に社名を「ユニヘアー」に変更したが、創業社長がトップに返り咲いた2011年、「アデランス」に社名を戻す。「ユニヘアー」はわずか10ヶ月の命であった。
「自負心」は人間に必要か?自負心の持てる人間と自負心の持てない人間が居る。「こんな事も分らないのかお前は?それでも大卒か?大卒という自負心はないのか?」などと、こういう言い方はしばしば成される。客観的にこれをどう理解すればいいのか?注意する側は、大卒という自負心をどのように理解しているのか?大卒は何が出来なければならぬのか?
同じような例で、万引きで少年が捕まった。聞けば親は警察官という。そこで「お前には親が警察官であるという自負心はないのか?」と、そんな事を言われたって…が本音だろう。親が警官である事と万引きをしないということに因果関係はない。ところがこういうケースなら立派な自負心だ。同じく警察官の親を持った少年。友人らで集団万引きを提案された。
少年はキッパリいった。「オレは降りる。親が警察官という自負心があるから」。この違いは「自負心」の主体性である。他人から押し付けられずとも自らが抱くものである。「自負心」は、自らに(責任を)負おうとする心で自尊心とは違う。「自尊心」は自らを尊ぶ心。「自負心」は「自信」と言い換えてもいいがが、本来関係ないところまで責任を負うべきではない。
自尊心も自負心も自信も、全くない人間が本当に存在するのかは分らない。ないような言い方をする人間はいくらでもいる。そこで、自身について考えてみた。これぞ「自負心」といえるものの何かが自分にあるのかどうか?「自負心」として避けて来た何があるのか?そういえば一つ「コレ」というものがある。最近そのことについて記事を書いたことで浮かんだ。
それは「買春」をしない。プロであれ素人であれ、金で女は買わないと決めている。はしたないものではあるが、これは「自負心」といえるものだ。ナンパをしてホテルに入室して、そこで「お金が…」という女に、「ふざけるんじゃない。土壇場で言えば"仕方がない"と言うと思ってるのか?オレは金で女を買わないから」と、さっさとその場を去ったことがある。
自分の中に「性の売買」はない。「売春とは、金のために節操と自尊心を捨て、客である男に媚びて体を提供する」という金に目のくらんだ屈辱的行為でしかない。そのように思うなら、女を金で買う男は、より節操なき男だ。ところが、「売春とは金で肉体を簡単に提供してくれる、男にとってこのうえないありがたき女神」と思うならせっせと買うだろう。
売春肯定派の意見。「"売春が悪"は間違っている。売春は世界最古の職業で現在でも認められている国は多い。それを「悪」と言うのは裕福層の傲慢だ。中高生の売春を禁止するのはそれが悪だからではなく、「組織売春」を防ぐためである。個人が個人の意思で売春することに道徳的問題は発生しない。斯くの間違いを生む閉鎖的な性教育をする日本の教育が問題だ。
上の意見は間違っていない。中高生だろうが大人だろうが、売春する側に罰則はない。強姦の方が刑事罰に値し、金銭を貰って身体を提供するのは非道徳的でもなんでもないことと黙認されている。取り締まるのは「売春させる場合」、「公に勧誘する場合」などに限定されている。個人がこっそり売春することについて、売春防止法で逮捕された例はただの一度もない。
つまり、日本ではこういうこと。「売る中高生側」が悪いのではなく、「買う大人側」が悪いということになっている。中高生売春がなぜ悪いか、きちんと説明できない人は多い。説明できないからすると言う少女はいるだろう。説明などなくてもしない少女もいる。あくまで「する」、「しない」の論理であり、自分はタダの一度も売る側を「悪い」と言った事はない。
「良い」、「悪い」ではなく、「バカ」だといつも論じている。バカの理由は売春をするからだが、そういうバカにバカと言っても通じないから大勢で言いまくったらイイ。売春を止めてバカが直るまで…。それまでは短絡的なバカとしか言いようがないが、バカでないとの「自負心」があるなら一生やれ。問題は少女を買う大人で、「バカ」だけでは済まない大人の責任がある。
大人のモラルとして、少女を取り巻く社会人の社会的責任としても間違っている。つまり、どんなに張り切って春を売ろうと少女がひしめいていても、買う大人がいなければ売買はなりたたない。よって、すべての責任は大人にあり、大人が悪いとしかいいようがない。もちろん、「少女を買って何が悪い」、との"自負心"あるバカオヤジは、永遠に少女買春やってろい。
バカな中高生に対し、相手が経済力も社会経験も判断力も不足しているのをいいことに、札ビラ切って性欲の奴隷にする大人を非難すべきだが、バカは"豚に真珠"ということだから、司直もせっせと取り締まるしか方法はない。バカな少女にも同様、お説教してみても"馬の耳に念仏"だ。諭すよりも、大人がバカを止め、買わないこと以外に中高生バカにつける薬はない。
バカは相手が感じるもの。謙遜も相手が感じるもの。卑屈も相手が感じるもの。傲慢も相手が感じるもの。どれ一つとっても実は本人は気づいていない。だから、これらに自分が気づけば直る道はある。少女売春も同じこと。オヤジ買春も同じこと。バカにバカという言葉ほど伝わらないものはないが事実である。コレを突き詰めると「バカは死ななきゃ直らない」となる。
常人をバカにさせる薬ばかりが合成され、作られていく現代にあって、真に求められるはバカにバカと気づかせる薬である。今の世にもっとも望まれるこの薬は「スーパーノーベル賞」ではないか。もう言葉や教育では追いつかない時代に来ているようだ。「死にたい」という人に言ってはならない言葉は、「弱虫」とか、「強く生きなきゃダメ」とかである。
なぜなら、「死にたい」人はそれだけ苦しんでいるからで、それを「強く生きろ」という効果がどこにある。そういう人は自分を誇示しているだけだ。こんな事をいうからおかしくない。苦しんでいる人には、「死ぬほど苦しんだね?そこまで苦しいなら誰でも死にたいかもな。でも、死ぬと決めたときは絶対にオレにいってくれ」とひたすら気持ちを理解するしかない。
バカな人間に「賢くなれ!」と言っても効果ないのは、本人がバカだと思っていないからだ。「賢くなれ!」は、賢い人間にいう言葉である。バカを自発的に直す方法は、しばらくバカをやらせておくしかない。誰でも経験あるだろう。いい加減バカをやって、もうこんなバカを止めるぞ。パチンコで数百万使って、「絶対に止める」と公言し、それでも止めないのがバカ。
そういう人はまだバカをやり足りていないのだから、気づくまでやらせるしかない。人生長きと思えば無駄な時間も必要だ。少女売春も、オヤジ買春も、本人がバカになった以上、ほっておくしかない。バカにつける薬はないと、数百年も言われ、いまだ付け薬は生まれていない。バカが直るのはじっと待つしかないのかも。まあ、自分の子どもなら急がせるが…。