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「老爺心」

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◎老婆心はあっても、老爺心はない…「世話焼きは女の特技。老婆心というのは、世話焼きが講じた必要以上の親切心のこと。男はそこまで世話を焼かないものだ。
 
◎爺臭いというのはあるが、婆臭いは近年言われだした…「爺臭いは爺さんの息が臭いことが語源だが、近頃は若いこの洋服のセンスがどうとかに言われだした。「なによ、その洋服、婆臭いわねー。」みたいに。
 
◎婆シャツはあるが、爺シャツはない…「爺シャツは昔からあったが、最近はこのタイプのシャツを若い女性が着るようになったことでのネーミング。」
 
◎好々爺というが、好々婆といわない…「気のよい婆さんは巷にいるが、呼び名がないだけ。
 
◎意地悪婆さんはいるが、意地悪爺さんはいない…「姑は、嫁をいびり、威張りちらし、嫁をモノ扱いし、息子に甘く、過干渉…」などのイメージから生まれたキャラクター。」
 
◎耄碌爺(もうろくじじい)というが、耄碌婆といわない…「別に言ってもよろしい。」
 
◎鬼婆はいるが鬼爺はいない…「女は鬼になれる資質にありて、男にはないということ。」
 
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◎トランプでババ抜きも、ジジ抜きもある…「ババ抜きは英国でオールドメイド(Old Maid)といい、「メイド」とは「未婚女性」のことで、「オールドメイド」は「適齢期を過ぎた未婚女性」。よって、オールドメイドカードは最後までどのカードとも合わさらない。つまり、もらい手がいないという哀しいゲーム。日本で「ババ抜き」となったのは、「オールドメイド」⇒「お婆さん抜き」からの誤訳による。
 
◎妖怪には白粉婆(おしろいばばあ)と、子泣き爺がいる…「白粉婆とは、顔一面に白粉(おしろい)を塗りたくった老婆の妖怪で、しかも腰がまがっている。分厚い白粉を塗っているのはエレキテル連合の朱美ちゃんもどき。奈良県出身。子泣き爺とは、赤ん坊の泣き声を出し、相手にしがみつくと石のように重くなる。砂かけ婆とよく行動を共にする。徳島県出身。
 
◎麻婆豆腐はあるが、麻爺豆腐はない…「むか~し中国・四川省の成都に陳さんというお婆さんが安くて美味しい豆腐を作っていた。その豆腐を使った料理がこれまた美味しくて評判だった。このお婆さん、顔にアバタ(中国語では麻子(マーズ)がたくさん有ったので麻婆(マーポー)と呼ばれた。それで、麻婆さんの豆腐料理と言うことで、麻婆豆腐と呼ばれるようになった。
 
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言葉や用語は必要性から生まれるものだから、「老爺心」も「婆臭い」も必要性なかったのだろう。「老婆心」という言葉は、本来の世話焼き老婆という意味から、「おせっかいですが…」という謙譲の意味を添える挨拶言葉として使われるようだ。「老婆心ながら、あえて申しあげます」=「念のために言いますれば…」などと、嫌味な言い方に取られること多し。
 
進物を差し上げるとき、「つまらないものですが」と一言添えるのが日本のマナーとされるが、まあ、それに近い言い方であるけれども、決して嫌味ったらしくいうのは止めた方がいい。どこか、突き放した感じに聞こえてしまう(実際、突き放した感じでいう場合がある)し、人によっては押し付けがましい嫌味な言い方と捉えられる場合多いので注意がいる。
 
「老婆心ながら」と「念のため申し上げます」は意味が違うという指摘があった。前者は、必要以上に世話をやこうとする意味、後者は、いっそう注意するため。「いっそう注意をする」こと自体が必要以上に立ち入ったことであるから同じこと。他人は自分の解釈どおりに物事を感じないし、紛らわしい言葉を「それは意味が違うよ」といっても、後の祭りとなり易い。
 
むか~し近所に世話焼き老婆というのがいて、縁談をまとめるのが道楽であるかのように駈けずり回っていた。本当に一生懸命だったのか、まとめ上げた暁の「御祝儀」狙いか、どっちもあったのかもしれない。善意だけならお礼は受け取らないだろう。善意が次第に報酬など目論むようになるケースは、陰口も含めてよく聞く話で、人間はどちらも浅ましい。
 
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少年野球チームの監督を最初は善意で引き受けたのはいいが、子どもの保護者がいうに、盆・暮れの付け届けや、打ち上げなどの監督分の費用はこちらもちといいながらも、ハナっから出す気がないとか、商品券など当然のように受け取るとか、ごじゃごじゃいうのが日本的である。「善意でやってるんだからそういうことをする必要はないんじゃない?」
 
といえば、「いえいえ、相手は休日返上してやってるわけだし」という。ならば陰口止めたらどうだ?それに対する気持ちなら…と思うが、こういう話はうんざりする。休日返上も善意なわけだし、放っておけばいいんだし、善意が嫌になれば止めるだろう。途中で放り出すのはどうたらこうたら言ってみても止める自由もあるわけだ。なのに金品もらうのはどうかと思う。
 
「それには及びません。お気持ちだけ頂いておきます」という心がないんだろう。1回もらえば前例を作るし、2回、3回となるのは当たり前だ。そういう読みというのか、想像力くらいは働かせよと監督にも言いたい。善意なら徹底善意、「やってやってるんだ」という気持ちでやるなら堂々と金品を受けとればいい。ある意味大変といえば大変なのだから。
 
イメージ 5「善意の罠」というのもある。「本当の親切、偽りの親切」というのも人間には存在するよ。「善意の罠」は善意ぶった目論み狙いだから根性悪だが、「本当の親切」というのは、人の善意をまったく意に介さない。お礼などとんでもないという気持ちになるし、褒められれば礼儀としての返答はするが、相手の賛辞を間に受けて思い上がったりなどしない。
それこそが真の親切ではないのか。相手が偽りの親切かどうかは、お礼を言って舞い上がったり、なんだかんだといいいながらも金品を受け取るかで判明する。そうまでして相手の腹を確かめる必要はないが、確かめる云々ではなく、状況から分ってくることだ。だから、いかなることであれ、本当の親切を全うしようとするなら、誤解を与えない注意がいる。
 
つまり、親切にする側に誤解させない義務が発生する。平たくいうなら、自分の善意に対して相手に気を使わせないことが大事。親切は押し付けるのではなく、押し付けないに気をはらう。こちらがそういう気持ちであっても、人は曲解からいろいろいうものだし、自分の経験でも「そんなにいうなら、そんな風に思われるなら…」と憤慨する事もあった。
 
親切が曲がって受け取られては逆効果、だからか、少しの誤解も与えない配慮を学んだ。親切という偽善に自分が気づかされた坂口安吾の一文である。初めてあの言葉に触れたとき、人間の「善意と言う欺瞞」について根本から考えさせられた。「善意という行為は、行為だけでは善意でない。善なる意志が伴っていなければ、功名心であったりする」。
 
これはニーチェの「善とは善意思からなされるもの」についてのアレンジだが、「人に親切にするというのは、親切にした相手から裏切られようが、殺されようとも文句を言わないでする親切でなければならない」という言葉を震えながら読んだものだ。言葉の真意は、人間はなまじの親切で思い上がったり、傲慢になったりする軽薄で下等な生き物である。
 
イメージ 6そういう意味が込められている。実際問題として、親切にした相手に裏切られ、はたまた殺されても文句を言わない気持ちでするなど、一生かけても辿り着けない境地である。安吾は、お婆さんに化けた狼に親切にして食べられてしまった赤頭巾を引き合いに出して彼の理念を完成させた。確かに善意を裏切られたことがある。そういう時は茫然自失になる。
 
相手を恨む以前に、「他人とはなんだ」という思いに駆られる。結局、他人は他人を利用して己の利を漁る生き物。そう考えた時に、そうではいけない、人がどうでもそうであっては人が人と交流する意味も意義もないというところに収まる。自分の利害だけで他人と交わろうとする人間の何と多きこと。そういうのを見ると、そういう人間の浅ましさにうんざりする。
 
人間は自分と相手の距離感を量り、相手との関係を間違えないようにしなければならない。無理を言われればキチンと断り、また相手に無理を控え、決して無理をさせないようにすべきだが、そこまで考えないで無理を平気で言う人間は大人と見ないほうがいい。遠くから見守るほうがよい関係もあるし、すべての人に腕をまくって対処すべきではない。
 
いかに相手が失意のどん底にあったとしても、自分が相手から好意的に思われていなければ、失意の相手を励ますことなどできない。「大丈夫か?頑張れ!」みたいな声援は相手が苦しんでいる時の決まりきった言葉で、誰でも誰にでもかけることができる。が、自分が本当に心配しない相手に言ったところで仕方ないのだ。それは実は相手も同じこと。
 
好意を抱かぬ相手に「助けて!」というのは、大嫌いなヘビに向かって「助けて!」といってると同じこと。心の温かくない人は、どんな相手にでも言葉を差し出す。なぜなら言葉はタダであり、何ら自分の腹は痛まない。口先だけの暖かい言葉を吐く人間を自分は冷たいである。だれかれ構わずご馳走になろうとする女も男も、心の卑しき人間だろう。
 
自分と相手との距離感も分らず、考えず、タダ単に得だからと…。まあ、そういう人間を教育できないでその場限りの満足感を得ようとする女に迎合する男も男だ。オヤジが少女に大金出してやらせろというのとどこが違う?自分にとっては同類よ。人間関係を作って行こうとするなら金で女を買わないように、ハナから「驕ってくれるなら行く」が目当ての女を自分は望まない。
 
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タダ飯食えるから人間関係ができるのか?いや、それで樹立した人間関係って一体何だ?長男が確か23歳の頃、職場で「プレゼント友達」という関係を女から提案されたことがあった。その経緯を心配した次女から話を聞いた自分は、怒りまくって長男に電話した。「プレゼント友達だと?ふざけるのもいい加減にしろ。即刻止めないなら、女に直接いうからな」

人間関係の基準として「プレゼント友達」と言うのはある種の目論見以外にあり得ない。プレゼントをそれだけ軽薄化させているのは、飽食時代の現代病だ。自分の利を重視して寄ってくる人間を自分は信用しないし、排除する。裏を返せばそう言う事をしない、人はそうであってはダメということ。我が身をもって実践してこそ、人は物事を理解したことになる。
 
「分っているんだけどね、出来ないんだ」というのは、1%すら理解していないということだ。人間は言葉よりも行動で信を問うべきだし、行動しないで屁理屈、いい訳人間を自分はまるで信用しない。と、まあ立て続けに言ったことをじぶんなりの「老爺心」と言っておく。「老婆心」がおせっかい以外のなにものでないなら、「老爺心」とて似たようなものだ。
 
が、「老婆心」よりも、その"おせっかい"の中身が男の論理に満たされていればこその「老爺心」である。男が「老婆心」という言葉を日常会話で使って何ら差し支えはないが、あえて「老爺心」と変えたのは、「老爺心」よりも高みを願ってである。母親の日常の小言はマンネリでつまらないが、タマの父の一言が深みのある言葉であるなら、それでこそ父親の存在感。
 
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男は社会の中で揉まれ、思考し、多少なり女よりは社会的なものの見方を備えているはずだ。裏返せば、男は揉まれなければダメだということ。男は揉まれながらも女の乳を揉んで生き返る。だから男にとって女も大事である。「あっ、そう!女は乳を揉ませるためだけに存在してんの?」などと卑屈にならず、男のブログの男のつたない方言と放免されたし。
 
まあ、「老婆心」は感情から発露の行状であるが、そこが「老爺心」との大きな違い。世話焼き婆さんは、今もいるのだろうか?婆さんに限定されずとも、世話焼き好き女はいるだろう。世話焼き女って実は…。かつて塩谷瞬というイケメン俳優に二股かけられていた冨永愛と園山真希絵の騒動があった。芸能人ゆえの有名税で、一般人なら話題にもならず。
 
冨永愛は以前、「わたしは浮気されない」と自信満々に語っていたが、実は大きな勘違いだったようだ。「彼が欲していることをきちんと知り、与える努力をすることが必要」という彼女の持論は、浮気される女の特有の考えだからだ。男は、女性から頼られることで自尊心を保つ。「この女性を守らなければ」という使命感が、男を一人前にするのである。
 
 逆に、必要以上に甘やかされると、「俺はひとりでは何もできない」と無能さを感じ、何とか自信をつけようと、自尊心を誇れる他の女を見つけようとする。男は頼って守り立てて、男を開花させるべきなのだ。浮気されたくないなら、男を大いに頼り、自身をもたせ、不必要な世話焼きはしないようにした方がよい。と、小柳ルミ子が浮かんでしまった。
 
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10代、20代でみさかいなくイチャイチャする世話焼き女房もいいが、男の基本は孤独ではないだろうか?干渉せずに放っておきながら、男の自尊心を(あればの話だが)上手く盛りたて、ポジティブにもっていけるような、そんな聡明な女ではないか。弁証法的にいえば、「女は男に従属することによって、逆に男を隷属させている」、というのが自分の女性観である。
 
ちくいち干渉されたいマザコン風味の男は別として、男は干渉を嫌がるものだろう。夫婦のこと、男女のことに、これという法則はないが、男の視点に据えて、あえて「老爺心」をいうなら、愛情とは互いが距離感を保とうとする配慮ではないだろうか。
 
 
 

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