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マルクス主義の台頭と崩壊 ③

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そもそも、マルクスが資本主義社会の中にその萌芽を発見した共産主義社会というのは、実のところ国家なき社会であった。理論が現実を生み出すわけではないし、現実がその現実を正当化する理論を生み出すとするなら、独裁体制が独裁体制を正当化する理論を既存の理論を素材にして生み出すことになり、同じ素材から全然違う現実を正当化する理論も生まれ出る。

似たような体制が違う理論で正当化されることもある。イランはイスラム教を国是とし、聖職者が法解釈の最終決定権を握る独裁国家であるが、ミャンマーは仏教社会主義を掲げる軍事独裁国家である。北朝鮮はマルクス主義を朝鮮の現実に適用した、「チュチェ(主体)思想」を国是とする。これは思想というより、「金一族」支配体制を絶対化する宗教のようなもの。

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理論(理屈)はどのようにでも後付けできる。したがって、自己正当化のための理論は股座膏薬的なものであっても理論となる。ただし重要な点は、どのような独裁体制を正当化する理論であれ、その素材となったオリジナルの理論と比べてみると、どれもこれも著しく捻じ曲げられていたりする。人間は本質を見失うことで、非本質的なものを過大視する傾向がある。

人間にとって重要なことは、「人間である」ということが自覚されることで、今までつまらぬことに浮かれていたこと、気を使っていたことをなくすること。そこに気づき、どう改め、いかに実行していくかである。この世界に矛盾なき場所がどこにあろう。人は「真」に目をつむり、「美」を求めようとするが、真を見ない臆病者は「美」を生きることなどできない。

自己責任や信念を失った人間が、「美学」を失っているようにである。世の中には、経済や政治などのような実際に社会を動かす仕組みの他に、人間社会全体を動かす触媒作用のような力をもつ、「真・善・美」への希求があるはずだが、「真」について綺麗ごときは、屁をこきながらでもいえる。一例を挙げるなら、「人間は生まれながらに自由であり、平等である」。

これは「真」か?そんな言葉が当てはまらない国には世界のどこにもないと知ってのことなのか。今夜食べるものにもありつけず、人間としての尊厳とも無縁の国の人々はいないとでもいうのではなかろう。体や衣服を洗うこともままならず、病気の治癒さえもできない。病院はあっても薬もなければ熟達した医師もいない。そこでまともな医療は受けられるハズがない。

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そうした途上国、未開発国は別にして、先進諸国では、「人間は平等」と教えられる。日本人もそのように教えられるが、こんなことは言わずもがな、「嘘」である。およそ地球上に存在する総てのものは、決して平等の運命にあずかれるようになっていない。例えば電車や飛行機事故で、なぜに誰かが命を落とし、誰かが助かるのか?我々はそれを、「運命」などという。

運命が正しいのではなく、運命という言葉で分からぬものを誤魔化しているに過ぎない。「運命」という言葉は便利であるが、どこか胡散臭いし、だから使わない。起こることを必然とする運命論者には違和感がある。起こった事実を運命とするなら納得する。30歳で病死する人、90歳を超えてなお元気な人、これは前世から決まっているというのは宗教観であろう。

「全てのことは起こるべくして起こる」という理屈は、宗教的思想以外に何の根拠があるというのか?「一切のことは、たまたま起こった」という考えには「嘘」は見出せない。「運命は前世の仕業である」といってもいいが、それで心が満たされる人を否定する気はない。神や地獄や極楽も同様にである。「死後の世界はない」は、確信と言うより「思う」である。

「宿命」と、「運命」の相違についていうなら、「宿命」の意味は前世から決められた運命をいい、「運命」とは読んで字の如し、「運ぶ命」である。人間の意志に関係なく巡ってくる、「幸」、「不幸」のことで、「巡り合わせ」という意味が混同される場合が多い。人は誰の下に生まれ出るのか分からない。どのような環境、いかなる容姿で生まれるのかも選べない。

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巷で言うところの、「運命論者」という言い方は、「宿命論者」と言うべきかもしれない。自らの意志で生まれ場所を選べない替わりに、生まれながらにして不平等たる命運に立ち向かうことはできる。オリンピックのモットーは、「より速く より高く より遠く」であるが、生まれた境遇を呪わず、よりよくしようと頑張る人は美しく、本人に至っては楽しいことだろう。

しかし、戦時中の兵士たちのように、自らに課された運命に抗えない不幸な若者もいた。 彼らは人生の中途で死以外に選択の余地がなかったというのは、国家犯罪である。国家が国家としての体をなさない場合もあろうし、愚か者が上に立てば悲劇が起こる。司馬遼太郎は学徒で従軍した際に、上官の愚かさを身をもって感じたようだが、自分も愚かな親を感じていた。

司馬はその悔いもあって22歳の自分への手紙を送るために小説を書いたというが、斯く言う自分も思春期時の凄惨な自分に呼びかけをする意味でブログを始めた。家庭環境に限らず、無知から起こった数々の失態も含めて、若き日の自分である。もう一度あの頃に戻ったとしても同じようなことをするだろうし、残念であるが人は経年になってこそ人格が備わるものである。

マルクス思想に戻る。彼の理論が宗教批判から始まったのは理解できる。オイルランプの陰惨な光の中で幾夜も徹し、病になるほど読み耽ったヘーゲル哲学も知り尽くした暁にはヘーゲル批判に到達したマルクス。新しい何かを生むためには古い何かを壊さねばならない。フロイトの、「精神分析学」を批判した弟子のユングが、「分析心理学」を著したように…

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マルクス経済学の要旨は、「生産諸力」が発展段階に達すれば、「生産諸関係」と衝突して対立を生み、「生産諸関係」は、「生産諸力」の足かせになる。2つの要素の対立が社会革命である。革命がなぜ起こるかを遠きフランス革命から文献で知ることはできるが、1989年の天安門事件はつい先日のことのように我々の記憶にある。あれは、「血の日曜日」であった。

学生・市民の要求や動向については不明な部分もあるが、平和的な人民の行動に戦車や武力で立ち向かう政府や中国共産党の人民解放軍の行動に、「社会主義を見たり!」という怒りを禁じえなかった世界の潮流である。そんななか、「反革命暴乱」という決めつけがグサリろ胸を刺す。一体、「暴」とはどちらをいうのか。「反革命」とはどちらのことか。

革命とは何なのか?マルクスは社会革命の要因を、「経済の土台の変化すれば、それがそのまま経済の変化となるのではなく、その変化の信仰にもとづいて、上部構造が覆るとし、それが社会革命が始まる時期という。つまり、経済の矛盾が人々の意識にのぼり、その矛盾を解決しようと人間が努力し、そうした経済の矛盾に決着をつける社会革命を行うといっている。

ロシアや中国、東欧諸国やベトナム、キューバで社会主義革命が起きた理由は、それらの国々は資本主義経済発展が遅れ、社会資本が未熟であるうえに、封建的束縛が強固であった。では、その逆に、アメリカや西欧、日本などの先進資本主義国で社会主義革命が起こらなかったのはなぜか?マルクスやエンゲルスは当初、革命は発展した資本主義国の必然と言い切っている。

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エンゲルスはその晩年、ロシアに革命が早いと考えていたが、帝政ロシアに革命が起こったのは、1917年、レーニン指導のもとに2度にわたって起こった3月革命と11月革命を、ロシア革命という。ロシアはおくれた国だから、革命は成功しない、たとえ成功しても持ちこたえることはできないという意見が強く出されていた。これに対してレーニンは以下のように答えた。

「確かにロシアはおくれている。しかし、権力が弱まり、国民が革命を求めているとき、そして革命を断乎として指導しうる党が存在しているとき、どうして政治権力を握ってはならぬのか、革命を遠慮しなければならないのか」。事態はレーニンの主張した方向に進んでいく。レーニンはロシア革命が成功の後、こうした革命が一般的な世界法則になるとは考えなかった。

レーニンの考える社会主義の前進とは、先進資本主義国の革命の成功を待って初めて確固たるものになると考え続けていた。中国の事態に立ち返ってみれば、天安門事件の本質は中国の憲法の規定に忠実な平和的な学生・市民の当然とされる民主主義的行動に対し、人民解放軍が無法に武力攻撃を加え、多数の死傷者を出したという点にある。あの時小平は人民を殺せと命じた。

軍隊を握っている者こそが国の支配者というのが小平の一環した考えであったし、彼らは、「これぞ革命だ!」とうそぶいているが、こんな考えが是認されるのか?果たして武力は人民の意志を押しとどめられるのか?答えは、「No!」で、アメリカのベトナム戦争の敗北、ソ連のアフガン侵略の失敗が示している。ハンガリーやポーランドの事態とて同様である。

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ロシア革命は今ではまったく評価されないが、フランス革命ですらひどい革命だった。日本で革命は起こっていない。明治維新というのは、世の中の仕組みを変えたと言う点においては信じがたいほどの大改革であるが、大きな戦争もなしに、成し遂げられた。これは支配階級であった武士、が自主的に自分たちの権利・権力並びに特権を返上してしまったからだ。

武士たちは一斉に失業となるが、自分たちの食う心配もあったろうが、そうした私利私欲を抑えて公のことを考える知性と誇りを持ったサムライが、日本には数多く日本いたと言うことであろうが、王政復古の大号令が発せられたとはいえ旧幕府勢力はなお温存され、会津や桑名藩兵などは大阪から北上して京に入り、薩摩・長州藩に対抗したため、鳥羽・伏見の役が起こった。


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