「人の話」とは人が物をいうその内容で、それを意見ともいうが、「意見」とは、ある問題に対する主張であり、考えであるなら、意見とは言えないものもある。ただ単に思っていること、思ったことをいうのも意見とし、意見であるを否定しないなら、「つまらぬ意見」も存在する。他人の意見をつまらないといった時に、「お前の意見はつまるのか?」とムキになる者もいる。
だからか、ダメなもの、つまらぬものを批判しないで黙っている人は多い。キチンとした反論ならまだしも、批判されたから言い返す的なものもあるわけだ。誰とて批判は望まないし、好まないが、藪から棒の批判はしない方がいい場合は確かにある。ようするに、人間関係が樹立していない相手に対する批判は、有意義な批判とはならない。ならば、有意義な批判とは?
人間は感情の動物だから批判されればㇺッとくるだろうから、有意義な批判とはそうはならずに、相手が耳に入れて思考するような批判をいうのだろうか?正当的にいえばそれが有意義な批判のように見える。が、別の観点もある。有意義な批判とは、「公」的なものだと思っている。相手がそれを耳に入れるとか、無視するとか、怒るとかは単に様態でしかない。
つまり、人間個々によって受け取り方が違うもので、自分の批判意見に対して相手がどう反応するかは予測できない範疇である。相互に人間関係が確立されているといえど、こちらの一方的な思い込みもあるし、相手にすれば自分はそういう対象と見ていない場合もあれば、人間関係が樹立している場合でも、事によっては気分を害するような批判もあるからだ。
誰にたいしても普通に言えるようなことでも、人によっては気に障ったというケースを経験した人は多いだろうから、99人が許容できても1人はそうでない場合もある。「言わぬが花」、「沈黙は金」、「触らぬ神に祟りなし」などの言葉は人間関係の難しさを示している。ならば、これらの慣用句を世渡り術と心得、それを踏襲するか?それとも批判を怖れないか、これも選択である。
何も言わないのが良いという選択は、反動を怖れてのことだろうが、批判を怖れないなら、言わぬが花の世渡り術など姑息であろう。存在感のある人間、周囲に影響力を与える人間は、確たる持論を公言し、相手と意見を交換し、あるいは闘わせることで勝ち得るものであるからだが、そういう人間は性格的に向き・不向きもある。「向き」となら行動し、「不向き」なら動かない。
「自分は人の上には立ちたくない」という人間は、「立てるような人間でない」と正直に告白するものもいるが、自信の無さを隠していろいろと理屈や言い訳をする者もいる。人間は自分が出来ないことを、「したくない」と言い換える自尊心を持っている。「別に勝ちたいと思ってやってるんじゃないよ」。将棋をやっていると、必ずやこういう言葉を吐く人間に出会う。
言葉に本音は見えず、つまらぬ自尊心が言わせる言葉である。以前は、「勝ちたいからやっていないという言葉は、勝とうと思えばいつでも勝てる力のある人間がいうことだろ?勝とうと思ったら勝てるのか?」などと言ったりした。なぜ、そうまでして相手の自尊心を壊すようなことをいうのか?意地悪ではなく、「そんな言い方するもんじゃない」を突き付けるためだ。
「何でそんな言い方をする必要があるのか?」である。「勝者を侮辱するような人間でありたいのか?」という問題提起である。「勝とうと思わない」などいう人間は嫌われ、周囲からも敬遠されるが、本人はそうであるを知ってか知らずか、どちらにしても、自分の自尊心が崩壊しないことの方が重要なのだ。大体において、憎まれ口を叩く人間は得てしてそういうもの。
憎まれ口を叩けば嫌われると分かっていても叩いてしまう。叩かなければ生きていけない。オーバーにいうとだが、それくらいに傷つきやすい性格である。つまり、自尊心の高い人間というのは、そうした弱い人間であるということ。「このハゲ---!」で一躍有名になった豊田真由子議員だが、一時期雲隠れをしていた彼女であったが、数日前に謝罪会見をした。
批判ばかりが渦巻く会見だったが、泥を被った彼女を自分は評価する。少なくとも山尾志桜里よりは人間的だ。豊田を批判する人間は、なぜ山尾批判をしないのか。自分は豊田議員が何の謝罪会見をすべきなのかがいまいち分からなかった。秘書を罵倒したというが、罵倒だけで刑事罰が科せられるわけでもない。暴力を振るったというが勢い余った程度で、謝罪の主旨は暴力ではない。
豊田の醜態をあらかじめ録音していたように、被害者には誰でもなれる。被害は往々にしてオーバーであり、でっち上げの部分もある。内出血程度の打撲でも、アオジが消えるまで1~2週間かかるなら、医師の診断書は、「全治10日」。秘書の気持ちも分からなくもないが、この秘書はつまらぬ男よ。やることが確信犯的で姑息で汚い。まさに女の腐ったような男である。
いや…、こういう男を女の腐ったというなら、腐った女に悪い。時間を限定せず記者会見に臨む姿は、そこでの発言がどうであれ、行為自体が十分に謝罪に値するもの。「これが会見か!逆切れする豊田議員」などの見出しもあるが、記者は何とか彼女を怒らせるような、琴線に触れるような質問をあえてする。外国人なら我慢をせずに、感情むき出しに怒鳴りつけよう。
豊田議員のそうした醜態を煽ろうという記者に対し、彼女は精一杯の我慢をしていたようだ。女性が私生活でブチ切れ、乱暴な言葉を吐くのが、そんなに異常なことなのか?国会議員と言えども、委員会や議場での不規則発言はあろう。かつて吉田茂首相は議場で、「バカやろう」と言った。神聖な議場というが、人間が神聖なのではない。仮面を被っているだけのこと。
時に、仮面を脱ぐこともあろうが、そのことを一事が万事が如く、面白可笑しく記事にして売ろうとするのが下種な週刊誌。何もしない卑怯者の山尾議員に比べ、行為をした豊田議員は男(?)らしい。山尾議員は美貌で得をしている部分もあるが、選挙民は不倫を誤魔化す嘘つき山尾は落選させるべきである。豊田議員はこれを糧に今後もハツラツ(?)と議員活動してもらいたい。
秘書はハゲでもデブでもよかろう。エリート意識が強い人間は、こんなに泥を被ることをあえてしないものだが、そういうズルい人間でなかった点において信頼できる。これが自分の豊田観である。宮根がインタビューした彼女の発言を聞くに、進学塾を経営する親の犠牲になった感が否めない。警察官や教師の子どもがぐれるのは、親の締め付けが厳しいからだろう。
教師の子、警察官の子ということなら、世間的に良い子であらねばならず、だから子どもを締め付ける。子どものためにではなく、親のメンツのためにである。そこを子どもが嗅ぎ取った場合、子どもは親のメンツの犠牲になど冗談じゃないとばかり、反抗を始める。豊田は進学塾経営者の子ゆえに高偏差値であらねばならなかった。彼女は親に抗わず、自らを犠牲に親の顔を立てた。
人間は愛されて育てば人を信じられるようになる。子どもは安心感のなかで、はじめて心理的に成長していける。安心感とは即ち、「自分は愛されている」という実感である。子どもから見た親の姿勢が、自分のために尽くしてくれていると感じるか、親の都合のために自分を利用していると悟るかは大事なこと。自らを犠牲にして得た東大卒は彼女にとって何であったか。
こうした家庭環境の子どもは、その道を進まされた以上、得た境遇を良しとするしか生きるすべはない。親の期待に応える努力はしたとはいうが、大半はスパルタ的強制であって、好きな野球やゴルフなどの自らの意志で叶えた夢とはまるで違う。人は人が決めた道では幸せにはなれない。が、自分の意志で掴んだ幸福でなくとも周囲はそれを誉めそやす。
人間に与えられた唯一本当の可能性とは、自分が自分のためによかれと思う幸福を実験すべきである。自分のために生きるべきであるはずなのに、親のご機嫌取りで生きる子どもの多き哉。自分がやりたかった事はあったはずなのに、親がそれを許さなかった子どもは、どんな高い地位にあろうと葛藤のままに人生を生きて行く。あげく、現状を良しとして生きていく哀れな人間だろう。
多くの子どもは飼い慣らされた犬と同じよう。それが楽でいいと友人から聞いた自分は驚いた。親の言いなりが楽だという人間の存在を知った驚きだった。人間が抱える問題と言うのは、人間にとって究極の問題である。つまり、生き甲斐とは?幸福とは?という問題。飼い慣らされた犬にとって、飼われている事は抑圧ではない。楽と言う人間もおそらくそうだ。
飼い慣らされた犬はエサの心配をすることはないが、野生の犬と同じだけの喜びを味わうことができるだろうか?飼い主の都合で避妊手術もなされ、種族保存本能さえも奪われる。これみな飼い主の自己満足のため。飼い主の機嫌を拠り所とするようになった犬は、本能を奪われ屈曲であることさえ気づかない。それが家畜の生涯である。肉にされないだけましか…