慶応大の金子勝教授(65)がツイッターに、「安倍首相が北朝鮮を煽り、森友・加計の腐敗を隠そうとしている」という趣旨の投稿をした。これまでも金子教授は、「(ミサイルを発射する)北朝鮮も怖いが、『戦時放送』を流す安倍政権も怖い」とツイートするなど安倍政権を批判するあまり、極端な意見を披瀝することがあり、今回も3千件超のリツイートがあった。
金子教授の、「戦争屋」と題された15日のツイッターは以下の内容。「また北朝鮮の軍事政権がミサイルを飛ばし、また国営放送でJアラート一色。森友・加計の腐敗を隠そうと北朝鮮を煽り、疑惑だらけのトランプをけしかけ武器を買うアベ。NPT批准拒否のインドにまで核技術を輸出する。目指す改憲のために日本を北朝鮮のターゲットにし戦時体制にしたいのか」
これに対し、以下の批判的なツイートが殺到した。「もりかけ(森友・加計)は国内問題、北朝鮮とは関係ないだろ。なぜミサイルを撃つ方を批判しない。無茶苦茶な批判をする前に、大学教授なら安倍と漢字で書け!」。「安倍政権は北朝鮮のミサイルを自由にコントロールすることが出来ると言う事ですな。なら安倍政権一択しか選択肢はないことになりますなぁ」
「安倍さんが一人でトランプや北朝鮮を自分一人に都合のいいように操ってるとおっしゃるんですか?逆にそこまでできる宰相ってすげぇ有能な気がしますが」。金子教授は、安倍首相がインドで歓待を受けたのも気に入らないのか、「今、核軍拡の最も危険なのはインドとパキスタン」。「北朝鮮の意図は核配備だ。それに対峙する最も有効な道は核兵器禁止条約だ。
なのに条約に反対するインドに原子力技術を提供する」(要旨)。「世界に原爆燃料をばらまき、インドで原発事故も税金で補償する。外交無能で戦争を煽るだけ煽る」などと核開発に突き進む北朝鮮をそっちのけに、安倍首相の訪印を非難する。金子教授は日本のマルクス経済学者。東大経済学部卒業、東大大学院経済研究科中退。専門は、制度経済学、財政学、地方財政論。
金子教授は13日にも東京新聞記者の菅義偉官房長官への質問に関してもツイート。「スガ悪代官が東京新聞の望月記者をターゲットにして東京新聞に『圧力』の抗議をした。さらに、官邸記者会見での質問回数を制限する動きがあるようだ。もし、そうした動きが本当で、記者会が受け入れたら、もう御用メディアだと大ぴらに認めることになります」と持論を展開した。
金子は反日・左翼学者であり、知る人は知るが、共産党のポスターなどには、「アベ政治を許すな!」など、例によってカタカナ表記が多い。理由の根底にあるのは特権意識や根クラ差別主義であろう。社会主義や共産主義は人種差別に反対する、一見リベラル派にみえるがとんでもない。カタカナ表記は露骨な表現をしない替わりに相手をバカにする姑息な表現法と見る。
普通に漢字でいいのにあえて意図的に使わないのは誰の目にも不自然だが、カタカナ表記にはそのように相手に思わせたい意図もある。要するに、「漢字を使って正しく書く価値もない奴」という意味でカタカナを使うところに陰険さがある。これがいわゆる差別主義者の根っこに存在する腹黒さ、しかるにマルクス主義の歴史を紐解けば見えてくるものもある。
共産主義はユートピア思想として誕生した。したがって全世界を共産化することで究極的ユートピア世界の再現を狙った。根底にあるのはアダムとイブの失楽園以来の堕落を、正道に戻すというマルクスのヘブライ的発想であり、「異教徒」=ブルジョワジーを根絶すれば永遠の安息が得られるという概念である。カール・マルクスは1818年、ドイツのトリールに生まれた。
世界が動乱の時代に入りつつあった頃で、1789年に開始されたフランス大革命は、フランスにおける封建的領主体制を一時的に終わらせ、全ヨーロッパを戦争と占領で覆った革命の波乱の中から、フランスの新しい支配者が出現した。ナポレオン・ポナパルトである。ナポレオンはフランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立、国民投票で皇帝となる。
結果的にナポレオンはプロシア、イギリス、ロシアの同盟個に打ち破られたが、ドイツを支配した王朝の不安は終わっていなかったし、ナポレオンたちに対する解放戦争の間に自由主義的・民主主義的な諸勢力が次第に力を得ていった。こうした中で支配者層たち、とりわけプロシア王国の支配者たちは、自由主義思想の台頭に対して弾圧を強めていった。
このような政治的、社会的不安を背に、「産業革命」が進行していた。18世紀に上気機関が実用化し、織物工業が機械化するなど、変わることなく数世紀に渡って支配されていた手工業生産様式が終焉した。技術的進歩という変化が一つの基本法則となり、「プロレタリアート」という勤労階級が生まれた。資本主義の初期段階における彼らの生活は実に悲惨であった。
工場は、「恐怖の家」と呼ばれ、1日の労働時間は12時間以上に及び、多くの子どもたちが工場や鉱山で働いた。マルクスの両親はユダヤ人で、祖先は長きにわたってユダヤ教のラビを務めたが、マルクスの父親は公務職の法的地位を得るため、キリスト教プロテスタント派に宗旨替えをしている。マルクスは父の後を継ぐため、ボン大学とベルリン大学で法律を学ぶ。
法学に興味を持てなかった彼はほとんど講義には出ず、病気になるほど熱情的に哲学研究に打ち込んだ。彼はヘーゲルに読み耽り、ヘーゲルに心酔し論文を書いたりした。マルクスはその主著『資本論』のあとがきで、自らヘーゲルの弟子であった事を告白している。それほどヘーゲルにつかれていたマルクスだが、やがてヘーゲルを批判し、決別して行くことになる。
ヘーゲルといえば、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といった。現実のみが真に理性的・合理的であるとするなら、それは現実の無条件の肯定である。立ち遅れ、歪められた現実への無条件の妥協でもある。立ち遅れて封建的なものを残すドイツ社会、保守反動的なこの国の現実を哲学は理性によって徹底批判すべきとマルクスは考える。
それがマルクスのヘーゲル批判の核になって行く。近代哲学の祖デカルトは、「我思う故に我あり」と言った。「疑っても疑っても疑い得ないのは、疑っている(考えている)我がある」ということ。デカルトはこういう、「我」を基にいろいろな問題を考えた。それに反してヘーゲルは、不合理で非理性的で反人間的なもの、保守や反動や弾圧や不自由なものを存する現状に妥協した。
マルクスは、啓蒙主義的・自由主義的な、自己意識・人間主義・類的存在といった考え方を拠り所にヘーゲル批判を行った。自由主義の理念は各大学を支配し、時代は新しい思想の夜明けを孕んでいた。マルクスも急進的自由主義の指導的な学生団体に加わる。その中でマルクスは発想や行動力から傑出した存在となる。そんな彼を周囲は、"当代最高の哲学者"と礼賛したという。
短気で怒りっぽく、自信過剰で傲慢不遜で、神にさえ挑戦しようと試みたマルクスは、古代ギリシャの神プロメテウスを信奉した。マルクスの急進的ヒューマニズムは、1841年の博士論文に表現されている。論文を書いた翌年マルクスはジャーナリズムに転じ、ライン州ケルンの町の、「ライン新聞」の主幹におさまる。マルクスはこの町で生涯の友エンゲルスと出会う。
エンゲルスはライン州バルトン市の裕福な工業経営者の息子であり、彼もイギリスのマンチェスターに綿糸工場をもっていた。ところがマルクスはケルンに来てから1年後、プロシア政府の厳しい追及に嫌気がさしてか町を去り、当時もっとも自由主義的な都会であるパリに赴く。失業者であったがそこでマルクスは共産主義に転向する。そのとき彼は25歳であった。
マルクス以前にも共産主義思想や共産主義グループはあったが、多くは労働者階級の悲惨な生活から生まれた。それらはマルクスの興味対象ではなく、彼にとっての共産主義とは、念入りに仕上げられた自らの哲学研究であり、宗教批判の必然的な帰結であった。マルクスの宗教批判は、「人間にとって最高の存在は人間自身である」という結論によって完了する。
彼の著作にはプロメテウス的主題が散見されるが、次の言葉は代表的なもの。「何者も、人間より上に立つことはできない」。しかし、どのようにすれば、人間は威厳をもって生きて行くことができるのか?それには哲学が不十分であることをマルクスは知っていた。哲学はあらゆる非人間的環境を打ち壊す事はできない。そのような変革に必要なものは強力で社会的な、「力」であり。
彼はその、「力」を悲惨なプロレタリアートに見出し、"指導理念としての哲学とプロレタリアートの連携"が、以後マルクスの目標となる。マルクスが労働者階級に振り当てた、「救世主としての役割」が任務として形成され、全人類の解放を意味した。万国の労働者たるプロレタリアートは、完全に対等で、敵の胸壁である国家を解体するという戦略であった。