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若槻禮次郎『古風庵回顧録』 ④

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東条内閣総辞職当時(昭和19年7月)の重臣会議のメンバーは、若槻以下、岡田啓介元首相、広田弘毅元首相、近衛文麿元首相、阿部信行元首相、米内光政元首相、原嘉道枢密院議長、木戸幸一元内大臣、小磯國昭元首相となっていた。重臣とは、「内閣総理大臣の前官礼遇を賜りたる者及び枢密院議長」であったが、1940年に単純に「首相経験者及び枢密院議長」に改正された。

若槻は昭和9年に創設された当時からのメンバーで、自身の重臣会議の立場についてこう述べている。「東条内閣総辞職後、例によって重臣会議が招集された。前々回私が近衛公を発議し、みなこれに賛成して第二次近衛内閣ができた。しかしそれ以降、若槻が先に発言すると、どうしても若槻の思想に近いものがでるようになる。それでは遺憾とどこかで考えたらしい。

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だからその後の会議では古参の私に先にものを言わせないで、こういう会議では、下の者から発言するのが大体の順序だそうですということで、阿部信行辺りに発議させる。若槻に先に発言させちゃ遺憾という空気がよくわかる。私としても、強いて発言して、この人に限る、この人を出さなきゃ日本が滅びるというような人もいない」。といささか臍を曲げているように感じる。

さらには、「比較的これがいいということだけだから、強く人を制してまで発言することもない」。と発言を制されたことで負け惜しみのようなことを書いている。ところが若槻が発言する段になり、彼は次期総理に再度宇垣陸軍大将を推したところ、「宇垣は陸軍の反対が強いから」という異論が出た。その際、若槻は以下のように述べ、以後は積極的に人選を推さぬようにした。

「今日の時局に適任だと思って自分の推薦したものが、常に排斥されるというならば、自分はそう沢山の人を知っているわけでもなし、今日のごとき会合で意見を述べるほどの知識がないものといわなければならない。従ってお召しを被る資格の無いものと思うから、どうかこういう会合にはお召しにならんように…」と述べている。この言い方から彼の気性が推察できる。

自分は誰よりも頭がよく、明晰でありながら、斯くの意見を無視されることに憤っているようである。感情を表に出さない若槻であるが、それゆえにこうした言い方になるのだろう。現代の会社の役員会議でこんなような発言をすれば、卑屈な人間と一笑に臥されるだろう。それほどに若槻は自分の意見が無視され、登用されないのが堪えられなかったと見受けられる。

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リーダーが卑屈であってはどうしようもない。やはりというか、こういう若槻の性格ではリーダーたる資質には到底及ばない。この一件について、『木戸日記』に、「若槻は辞職を申し出た」と書いている。それについても若槻は無用の反論を試みる。「木戸は誤りで、重臣という職はないし、私は何も職を拝したのでないから、従って辞職なぞということはあり得ない」。

こんなあからさまな屁理屈を書いている。木戸が、「職を辞した」と書いてることに、「職ではないのだから辞職ではない」など、ガキの言い分である。もし木戸が、「若槻は重臣を辞した」と書いていたら、辞職ではなく辞意となり、よって反論はできなかったとう。若槻は学問に長けていたからなのか応用が利かず、既定の問題に対し既定の答えを答案用紙に書く人のよう。

本当に頭のいい人間は、機転が利き、応用に長けているからして、東大最高点の若槻は学問という答えのある問題に長けた秀才に過ぎない。若林は以後は重臣会議ですねた人間となってしまったが、小磯国昭に決まった。小磯も陸軍軍人で当時は朝鮮総督の地位にあったが、サイパン失陥によって重臣たちの倒閣に斃れた東条内閣の後を受けた小磯内閣が誕生した。

事実上は小磯内閣であったが、近衛の発案で元首相で海軍の重鎮である米内光政と連立させることになった。昭和天皇は重臣とも話した上で、小磯・米内の両名に、「協力して内閣の組織を命ずる。」と大命降下した。何はともあれ天皇の下知であるが、これについて若槻は了解を取りに私邸に赴いた内大臣秘書官に以下のように答えたと書いている。

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「自分に異議はありませんが、総理大臣は一人でなければならん、二人に大命が降るということでは、先年、大隈と板垣に大命が降って統一がとれず、変てこな内閣が出来て困ったことがある。ああいう事になっては遺憾がそれはどうか」。秘書官は答えた。「大命は小磯大将に降され、米内大将は総理を助けて共同して内閣を作り、戦時に必要な施策をやれとの御趣意だそうです」。

若槻と同じく宇垣陸軍大将首相待望を願った人物がいた。東条内閣の農商大臣内田信也である。首班は小磯に決まったものの、内田はひそかに小磯の後は宇垣を推すのが最善と考えていた。宇垣を総理にという声は何度かあったが、ことごとく陸軍の反対にあう。宇垣は東京裁判を主導した主席検察官のキーナンから、米内・若槻・岡田啓介と夕食に招待された一人である。

キーナンは宇垣を、「ファシズムに抵抗した平和主義者」と賞賛している。小磯首相は、就任早々に戦争継続を強調、檄を飛ばす。「大東亜戦争はこれからが天王山!」。小磯首相の天王山は何を指すのかは不明。サイパン島守備隊が玉砕したのが1944年7月9日。以降日本は敗戦に向かうが、小磯は米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを意図し、レイテ決戦へと向かった。

客観的にみても日米の兵力差は懸絶しており、米軍に決戦して勝利を収め、その後に講和に持ち込むのがもっとも理想的と小磯は考えた。しかし、陸海軍の意見不一致で作戦がまとまらず、10月23~25日のレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅し、10月12日には台湾が空襲され、2月8日、マニラが陥落したことでレイテ決戦は断念せざるを得ず、持久戦方針へと転換された。

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折しも、北方国境も徐々にあやしくなりつつあった。小磯は蒋介石政権との単独和平工作を企図し、緒方竹虎情報局総裁と共に同政権国防部長何応欽と繋がっているとされた繆斌に接触した(繆斌工作)。陸海軍首脳部も一時はこの工作に賛同したが重光外相が猛反対。木戸内大臣、梅津参謀総長、昭和天皇も同工作に反対し、小磯は繆斌工作を断念せざるを得なくなった。

昭和天皇は木戸内相とあいはかって、重臣を一人一人引見し、その時局に対する見方を徴した。老人である重臣たちにはほとんどこれといった有効な意見がはけない中、参内した近衛の上奏文は日本赤化の危惧という、近衛の持論を展開したもので興味深い。小磯内閣は在任8カ月半、昭和20年4月7日に総辞職した。統帥府と権限について意見の不一致という理由であった。

若槻は小磯が大命を拝した時、「御苦労ですがどうぞ十分やってもらいたい。我々は自分の力で叶うことならば、何でもして御援助するから、難儀な時だけれども、どうか御苦労願いたい」と激励した。ところが小磯は進んで講和をしなかった。後継内閣についての重臣会議では、戦局がここまでくれば誰が出るにしても平和に向かって進むより仕方がない状況である。

それには枢密院議長の鈴木貫太郎が良いとなり、全員一致して鈴木を推薦した。『古風庵回顧録』の締めくくりはこういう書き出しである。「以上で、政治に関する私の『回顧録』は大体お仕舞であるが、最期に一つ、東京裁判のことを付け加えて置こう」。回顧録の引用は省くが、「東京裁判史観」について元海軍軍人で東京裁判研究家の富士信夫はこう記している。

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東京裁判史観とは、「東京裁判法廷が下した本判決の内容をすべて真実とみなし、日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した『侵略戦争』であって、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、「悪」であったとする歴史観」をいう。明治時代を賛美する司馬史観からみた戦前の昭和は燦燦たるもので、彼が日本国家を嫌う理由も分からぬでもない。

司馬は1991年(平成3年)、文化功労賞受賞の会見でこう述べている。「どうして日本人はこんなにバカになったのだろうというのが22歳の時の感想でした。昔は違ったと…」。1923年生まれの司馬は43年、20歳の時に学徒出陣で戦車隊に入隊、22歳の時に本土決戦に備えていた。上記の言葉はその時の上官の言葉から実感したものである。どうしてこんなバカな国に生まれたのか?

「そんな22歳の自分の思いに手紙を書くために小説を書いた」と司馬は言っている。司馬が日本を論ずるにあたって、「この国のかたち」と言ったとき、多くの日本人は疑問を持った。「なぜ、わが国といわないのだろう」と…。司馬の、「この国」という言い方は、自らはそこから距離を置き、一体になっていない。明治以降の日本を司馬が書かぬ理由がそれである。

昭和前半期日本国家の訳の分からぬ非合理な振る舞いを、司馬は以下のようにいう。「常識ではとても理解できないような精神の持ち主が、国中の冷静を欠いた状態にある時には出てくるものである。また、権力の実際的な中枢にいる者(具体的には陸軍参謀本部の参謀)の頭も変になり、変にならねばその要職につけない」。真に司馬のいうイカレタ日本人たちであった。

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