司馬遼太郎は数多くの歴史小説を書いている日本の国民的作家である。『徳川家康』の山岡荘八、『宮本武蔵』の吉川英治、『真田太平記』の池波正太郎らが代表作品とするなら、司馬遼太郎の代表小説は何であろう。坂本竜馬を描いた、『竜馬がゆく』、高杉晋作を描いた、『世に棲む日々』、西郷と大久保を中心人物とする、『翔ぶが如く』、大村益次郎を描いた『花神』。
それとも日露戦争を描いた、『坂の上の雲』なども人気の代表作といっていい。歴史作家に共通して言えるのは、歴史学者の著述よりも偉大な作家による作品の方が歴史を彩り、形づくるものかも知れない。フランス国民がリシュリー時代を思い出すのは、デュマの、『三銃士』であり、アメリカ人が南北戦争を思い浮かべるのは、ミッチェルの、『風と共に去りぬ』であるように…
作家の描く歴史というのは想像力もさることながら、学問として学ぶ歴史教科書とはまったく別の視点や考え方があることに気づかされ、また酔わされてしまうところが歴史小説の魅力である。司馬遼太郎などは、印税のほとんどを古文書などの貴重な資料の購入に充てたといっているが、その意味で歴史作家というのは半分は学者であろう。『下天は夢か』という作品がある。
信長を描いた津本陽の作品だが、ここに描かれた信長像は従来の悪逆非道のイメージをまったく払拭する実に人間的な信長だった。小説に魅了されると、これが本当の信長のように思えてしまうのだ。司馬には、『国盗り物語』という斎藤道三を描いた作品があるが、ここに映る信長像は、明智光秀という知的で優秀でまともな守旧的教養人物から捉えたものである。
最期まで尾張弁の抜けない信長というのも、これまた人間的あった。昨日、明智光秀の密書の原本が発見された。書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています」とあった。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元の勢力下にある鞆の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。書状の手書きの写しは東京大史料編纂所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。
畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられている。光秀が謀反を起こした理由については定説が存在せず、「日本史の謎」、「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表しているようにまさに歴史のロマンであろう。さて、司馬遼太郎に話を戻すが、日露戦争で日本が大国に勝利したのは何故か。
この戦争は日本とロシア双方からみて紛れもない帝国主義戦争であり、日清戦争に次ぐ日本の大陸侵略の魁となった大戦である。『坂の上の雲』では、日露戦争の国家指導者の良い部分が渾身の力を込めて描かれてうる所も人気の要因であろう。司馬はこれ以降の時代小説を書いていないが、彼にとっては日露戦争以後の日本のトップ指導者はあまりに情けなかったのだろう。
明治という国家について司馬はこう述べている。「明治維新は日本が先進文明国から滅ぼされるという危機感から起こった。危機回避の方法は日本も文明国になることだった。つまり、十九世紀の世界史段階でいえば富国強兵。イギリスのような大きな工場を持ち、精錬な海軍を持ち、フランスのような大陸軍部隊を持つ。それができれば併合されることを免れる。
富国強兵だけが救日本の唯一の概念であった」。これは太平洋戦争開戦するに至った日本と同じであり、昨今の北朝鮮の国家的立場にも通ずる部分がある。つまるところ明治維新は、国民国家を成立させて日本を植民地化の危険から救い出すという目的のために、一挙に封建社会を否定したまさに革命であった明治国家、明治という時代は希望に満ちた明るい時代だった。
「明治末年から日本は変質した。戦勝によってロシアの満州における権益を相続し、がらにもなく、植民地を持つことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。領土という分相応の大柄な軍隊を持ったために、政治までが変質していった」。と、これが司馬史観というものの見方である。つまり、日本の変質は日露戦争直後に始まっているのだと。
明治憲法は今の憲法と同様、三権分立の憲法だったが、昭和になると、統帥権が次第に独立し、ついには三権分立の上に立った。そうした統帥権の番人たる参謀本部は、統帥権を自らが所有していると信じていたのは、中国の宦官が権力を手中して行ったことと似ている。イデオロギーを日本語に訳せば、「正義の体系」となろう。したがって、イデオロギーによる正義には嘘がある。
ありもしない、「絶対」を、ロジックとレトリックで正義の体系化したイデオロギーが過ぎ去った暁には、古新聞よりも無価値になるのは、「嘘」である証拠を示している。日本人は二十世紀において、こうした左右両翼のイデオロギーの被害を被ってきた。大正末期にまずは、「左翼」が生まれ、その反作用として、「右翼」が生まれ、社会党浅沼委員長は右翼少年の刃に散った。
子どもというのは純粋で正直で無知である故にか、子どもの頃に浅沼委員長を指した山口乙矢という17歳の少年がトラウマとなり、山口という苗字の人間は悪人に思えたのを覚えている。おそらくあの時代、山口姓の人たちは肩身の狭い思いをしたろう。公衆の面前で、しかも全国放送のテレビ中継の只中で、人が人を刺し殺すという事件はあまりに生々しいものだった。
左翼による反安保闘争の激化に右翼は苛立ち、一部はテロに走った。1960年10月12日の浅沼委員長刺殺事件は、同年6月の河上議員刺傷事件、7月の岸首相刺傷事件に続く凶行だった。犯人の山口は11月2日、東京少年鑑別所内で首を吊って自殺した。翌61年2月1日のは、同じ右翼で17歳の少年が中央公論社社長嶋中鵬二宅を襲い、居合わせた女中を刺殺、社長夫人に重傷を負わせた。
事件は、『中央公論』誌に掲載された作家深沢七郎の、「風流夢譚」に、天皇一家処刑の場面が問題になり、編集長が宮内庁に陳謝する一件があった。社長宅襲撃の少年は翌日警視庁に自首をしたが、警視庁は大日本愛国党総裁赤尾敏を殺人教唆容疑で逮捕した。若槻禮次郎の回顧録の最後は、昭和23年10月、東京裁判首席検事キーナンから食事の招待を受けたことを最後に終る。
キーナンが招待したのは若槻以外に、岡田啓介、宇垣一成、米内光政らで、「戦前を代表する平和主義者」と称えてパーティーに招待している。その場でキーナンはこのように述べたという。「アメリカ人はリンカーンを尊敬しているが、そのリンカーンは戦争の嫌いな平和主義者である。しかし、彼の大統領時代に南北戦争が起こって、4年間も戦争は続いた。
日本の天皇も戦争を好まれなかったが、とうとうこういう事になった」。若槻はキーナンの感想を記している。「リンカーンとの比較はとにかくとして、キーナンも陛下の立場に好感を寄せて、裁判所には連合国の寄り合い所帯であり、陛下を被告扱いにしようとする者さえある中で、この問題の確定的ピリオドを打ったことは、我々としては何としても感謝に堪えないところであった。」
日米開戦が起こった年、若槻は重臣という立場・肩書であった。日米交渉が暗礁に乗り上げたまま第三次近衛内閣は昭和16年10月総辞職をするが、そのわずか2か月後に日本は真珠湾攻撃をした。近衛内閣辞職を受け、後任総理大臣を誰にするか重臣会議の席上で若槻は、時世に鑑みて後任総理は軍人が適当であるとしながらも、宇垣陸軍大将を最適任者と意見を述べた。
周囲は東条陸軍大臣に固まっている中、あえて東条陸相に反対した。若槻の反対理由は、陸軍大臣を総理大臣に推せば、米国をして日本はいよいよ戦争を決意したととられかねない。これに反対した木戸内大臣は、「東条に大命が降っても、大命降下の際、特に米国と平和を維持するような政策をせよと陛下の御言葉があるかもしれないから、米国と戦争を起こすことはしない」。
東条は総理となり東条内閣が組閣された矢先に、米国より最後通牒(ハル・ノート)が来たため参内せよとの通知がくる。席上、東条は首相は、「米国の通牒は受諾できない。この上は開戦の他はない」と息巻いた。若槻はハル・ノートを一読したが、「政府は米国の通牒を仔細に検討精査することをせず、開戦は当然であるかの如き説明であった」と記している。
戦争を継続するには資材を必要とする。資材中最も必要なのが石油である。国内の備蓄ではとても足りず、戦争が長引けば欠乏は明らかである。若槻は東条に、「戦争半ばに石油が不足した場合どう戦争を遂行するのか」と正した。東条は、「石油は決して不足していない、心配に及ばず」と弁明したが、東条の意図は植民地を攻撃して石油を強奪することであった。
陛下を交えて昼食の時刻となったが、議論は収束を見ないままに侍従が来て、「陪食の時刻に頓着せず、十分議論を尽くすようにとの陛下の御旨を伝えに来た。問答はさらに続くが、政府はのらりくらりの説明に終始するばかり。若槻は陛下との陪食の時間を遅らせることは恐懼に堪えず、問答を中止して一同御陪食の席につき、陛下出御の下に再問答することになる。