100メートル歩けば不倫行為者にぶつかる時代に、普通に10キロウォークの自分ならサイテーでも100人会っていることになるが、誰もそんな顔をしていない。当たり前だが、すれ違う人の名前も居住場所も人生の中身もナ~んにも知らない同士である。不倫していようが、一億持っていようが、掘立小屋に住んでいようが、ガンの手術をしていようが、互いに関係ない。
テレビ露出の多いある芸能人がこう言った。「不倫について世間は叩きすぎ。人生を終わらせてしまうくらいやってる」。発言主はマツコ・デラックスだが、おいおい、いつのまに人の悪口を叩く身分になったのか?マツコといえば悪口大好きの大食らいオヤジではないのか?オカマや女装男を嫌悪する自分は彼の出演番組は見ないから変身ぶりはわからないが…
多少売れてくると心の身だしなみをを整えるようになるのも、「地位は人を変える」と同意であろう。世の中を整理したり、静止する発言は良い事であろうが、悪口好きが他人の悪口を静止しても、説得力はなかろう。しかし、マツコの発言に多くの人がひれ伏しているのを見て、彼はまさに時代の旬であろうし、それが露出の多さに現れているのかと感じられた。
斎藤由貴の不倫相手の医師が頭からパンツを被った写真も、確かに面白い絵であるが、これについても周囲は、「やってることがアホ」、「正気の沙汰ではない」などというが、まあ、そんなことは自分は絶対にしない、してもいない、する気もないと聖人もどき言葉を飛ばしたい。ただ、パンツを頭からかぶって面白がっているだけのことをそこまで言えばお利口に見える。
2人だけの部屋でパンツを被ろうが、麻縄で縛ってくすぐりまくろうが、カンチョーしようが、屁こき合戦しようが、何がいけないんだ?たとえそれが表に出ようと、「好き合ってる同士はおふざけも含めて、いろいろ楽しいことをやっているんだにゃ~」くらいにしか思わないが、どいつもこいつも鬼の首でもとったかのような、自分は屁もこかないような言い草である。
まあ、悪いがそんな言い方をする人間を自分は信用していない。人をバカと呼んだ人間をバカでないようには自分には見えないし、自分が人をバカと言う際は自分もバカではあるけれどと口には出さないだけ…。理性は感情を制御するものだが、他人のパンツ被りを笑っても、私生活で理性を制御できない人間なんか、山ほどいるだろう。それに比べればおふざけの方がマシだ。
どちらが人格を疑うかといえばヒステリーの方であるが、これも病の範疇なら仕方がない。自分は母親の怒級ヒステリーを間近でみてきているので、少々のヒステリーに驚くことはないと思っていたが、それでも女のヒステリーには驚かされた。ある女は道路の歩道の上に横になり、大の字になって泣き叫ぶ。どうして人の往来する道路上でそんなことがやれるのか?
病気だからである。精神の病というのは、理性をかなぐり捨てられる。だから状人ではあり得ないこと、なし得ないことができる。一般に、人間というのは理性的な判断に基づいて行為する存在と考えられる。だから、理性的な判断能力を持つ者が、明確な意図や目的をもって殺人を行えば刑事罰の対象となるが、心神耗弱や精神に異常のある者の犯罪は免除される。
だから、あまりにも唐突な行為に対して精神鑑定を行う。「キチガイだから罰せないのはおかしい」という声は多いが、キチガイは裁く対象にはならないが、もっともキチガイを野に放っていることに責任が及ぶことになる。現代社会に限らず人間は壊れやすい弱さを持っている。犬にも狂犬病、牛にも狂牛病があるように、狂人が街をうろついていてもおかしくはない。
理性をもっていても、感情が先走れば誰でも加害者になれる。そうした突発性の事件は用心しようにも用心のしようがない。同じように、誰でも被害者になれる。加害者ではないのに加害者と名指しされ、痴漢に仕立てられた人も気の毒としか言いようがない。「被害者」という肩書を手に入れたいなら、「私はこんな被害を受けた」と声高に叫べばいいだけでいとも簡単。
自分も経験があるが、やってもいないことを、「やられた」と吹聴するだけで、刑事事件にはならないから無視していたが、警察が絡んだ場合には無罪を立証するのは大変だろう。こういう虚言癖の女は一種の情緒障害だと思っているので、まともに話す気にもなれない。口に出したことが嘘でも、嘘を本当と信じ込む人間にとっては、嘘でなくなっているわけだ。
これが自分の母親の得意芸であった。強烈な自己顕示欲保有者というのは、自分自身を大きく見せるために噓をつく。自分自身を嫌が応でも正しい人間と喧伝したいがために嘘をつく。返報感情が相俟って、相手を陥れるために嘘をつく。この3つのパターンはいずれも経験した。こういう人間をスイスの精神科医アントン・デルブリュックは「空想虚言者」と名付けている。
「空想虚言者」の特徴は自分がついた嘘を自身が信じ込んでしまい、周りの人を騙していく。根底にあるのは、「自分が被害者であるという意識」であろう。実母は思い通りにならない息子を持つことで、自分は憐れな母親という被害意識だけが助長されていったと考える。これが明晰な人間なら、強く逞しく生きて行く我が子に安堵すべきだろうが、そうしたキャパはない。
子どもが持って困る母親の類は、何でも自分の思い通りにしようとする親である。そこには、自分が産んだ=自分の所有物という傲慢があり、そんなことはとんでもない、冗談じゃない、自分は自分で誰のものでもないと、強く決別することだ。それさえできれば怖れるものはない。自分を本当に愛してくれるゆえの言葉か、単なるエゴかを見切る判断力も必要だ。
本当に自分のために思って言ってくれた人を、数十年を経て気づいたり、心に突き刺さるものだが、そうではない場合の言葉は、何十年経とうが憎しみ以外のなにものでない。自分の真っ当なる人生の障害になる親は、「見切る」ことが大事と考える。潜在的な親への依存心がある限りそれはなし得ない。自分に正直に向き合って潜在的な依存心をあぶり出すことが先決だ。
話を不倫問題に戻す。マツコのお行儀のいい言葉は知性ある道徳者専用とし、マツコも一介の世俗人なら、ネットの怒号と同類とみなすべきだろう。芸能人というのは、自分の知らない多くの不安に愛されている。その数や何万、何十万と、多ければ多いほど人気のバロメータということになる。政治家も同様で、多くの支持者に愛されるから当選をするわけだ。
それだけ人気もあり、それほどに支持される人たちは、その数と同じくらいのしっぺ返しを食らうことを常に頭に入れておくことだ。誰も不倫をするような人間を政治家として支持し、送り出したわけではあるまい。マツコが大勢で叩き過ぎというのは、それだけ大勢の人たちに支持されたことの裏返しで、誰だって一言いっておきたいだろう。マツコだけ許されるわけではない。
マツコが発言すると同様に、世の中の人間一人一人に発言権がある。「私が代表して言ってあげるから、あなたたちはお黙りなさい」という権限はなかろう。誰もが自分の考えを述べたいことを、上から仕切る立場にない。いい事は「いい」の大合唱があるように、よくないことは、「ダメ」の大合唱がある。人の悪口は快感と受け取るのは同じ気持ちいるからだ。
ダメを「ダメ」と怒号するのは成熟した社会であり、それは悪事はバレなければいい、選挙民やファンを裏切ってもカンケーナイ。自分は自分ですきなことをやればいいという公人に対する贈り物である。怒号の数はファンの数の裏返しである。それで初めて自分の罪深さを認識しないで、それこそ蜜の味如き自己批判では、同じ轍を繰り返すであろう。
批判にさらされ、傷ついて初めて分かることもある。それはそれで遅きに失すということもあるが、自分の経験でいえば、若ければ若いほど後の人生に生かされる。やり直しは若さの特権である。自身が自分に甘え、ファンや有権者をないがしろにした行為に同情の言葉をかけるのが悪いとは思わぬが、それも人による。ダメ人間は、同情の言葉を拠り所にするだろう。
1000の批判はあれど、1つの同情を拠り所に自分に甘えてしまう人間もいる。本当に自身に厳しく反省もし、改悛せんとするなら、「同情の言葉はいらない」という気持ちになる。人間は弱いもので、人に甘え、自らに甘えるところがある。斎藤由貴などは、どれだけ痛い思いをすれば分かるのだろう。自己に甘い彼女は、子どものために離婚は避けたいといっていた。
そんなことを発言する前に、先ずは子どもに対して「必要な母であるかどうか」を問い、確かめてからではないのか?それもせず、子どもは自分を必要としているという思い上がった発言とみる。こういう親に限って、「あんたなんかイランわ。家から出て行け」と子どもに言われて、「お願い、家に置いて」と泣いて頼み込む。自分はそういう事例を知っている。
男にも女にもいる。浮気や不倫や好き勝手なことしておいて、いざ破局になって家に帰ろうとし、息子に「出て行けよ」と言われた母親。こういうこともあるとの想像力もなく、子どもを見くびったことの付けであろうが、自己責任の欠片もない人間は時にこういう醜態を見せる。ある映画で、たまに家に帰ってくるだけのぐーたら親父を思い余って刺し殺す息子。
「母さんが可哀相…」から出た義憤であるが、子どもの一生を台無しにする親の好例である。悪事が露呈したなら、泥を被り、唾を吐きかけられようと、忍び、耐える人間であるかないかは、その後の行動で見える。何事も自己責任を完遂せんという気持ちに満ちた人間は、立ち直るだけでなく、二度と同じ過ちをしないだろう。批判をバネにするとはそういうことだ。
他人からの批判を嫌がる人間は少なくない。「自己批判するから、他人にあれこれ言われたくない」という。自己批判を糧に頑張れるほど己に厳しくできない自分である。あの時友人は、「お前に批判されなくても、自己批判するからいい」と言った。他人はなかなか他人を批判できないもので、そのための自己批判である。してくれる他人がいるなら、それは有難いもの。
そういう風に考えない人間が、「自己批判」という美名に酔う。辛辣で研ぎ澄まされた他人の批判は耳に痛いが、それこそ、「良薬」である。斯く言う自分も自己批判を幾度もしたが、他人からされる批判ほどに身についたという気はない。本当に性根を入れた自己批判というものがあるなら、冬の寒空に滝に打たれるくらいしか思いつかぬが、確かに厳しく自分を諫めている。