近年テレビ番組で、「クイズ王」なんたら…という番組があるが、出演した東大生が難問を回答するにつけ、「天才」などと呼ばれたりする。知識を沢山詰め込んで天才というなら、天才の価値も下落したものだ。自分が思う天才というのは、無から有を生み出すこと、この世に存在しないものあるいは、隠れていて発見できないものを見つけたり作ったりではないか。
東大生が難問クイズをしこたま答えようが、学業に秀でて首席で卒業しようが、この世に存在する何かのお決まりの答えを答案用紙に書くのがなぜに天才か。天才とは、「天賦の才」のことを言い、天賦の才とは生まれながらにして持っている才能、天から与えられし才能を言う。したがって、学術・芸術・スポーツなどの分野にそれぞれ天才と称する人物がいる。
東大が日本の学術分野における最高位の大学というなら、東大生の学術的価値はクイズの回答という雑学ではなく、大学の学問の成績で量ることになるが、それも兼ねて一人に人間を挙げてみる。東京帝国大学を史上最高の得点率で主席で卒業。しかもその記録は未だに更新されていない人物といえば、東大生のクイズマニアならおそらく答えられるその人は若槻礼次郎。
若槻 禮次(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。栄典は正二位勲一等男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻 礼次郎と表記されることもある。貴族院議員、大蔵大臣(第18・20代)、内務大臣(第41・42代)、内閣総理大臣(第25・28代)、拓務大臣(第4代)などを歴任した。
東京帝大を歴代トップの最高点で首席で卒業ということで天才と称される若槻である。確かに事務能力に卓越したものはあったが、リーダーとして人を束ねるとか、明晰な決断力に関しては天賦の才どころか凡人並みといわれている。頭はいいが、対応が弱腰で消極的で、何が何でもやり遂げるという行動力はない。権力欲は人一倍あるが、泥を被るのを怖れる小心者。
以下の二つのエピソードは有名だ。若槻内閣は少数与党政権で、野党の反対で予算案が通らない。この時、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という内容の文書を野党首脳と交わすが、「深甚なる考慮」を予算成立後の総辞職と捉えた野党側は予算成立に協力するも、その後一向に辞職をしなかったため、ついたあだ名が「嘘つき礼次郎」である。
こうした頭のよさは認められる。もう一つは、関東大震災後の金融危機で、当時の大企業鈴木商店に大量の融資を行っていた台湾銀行の経営が悪化した。若槻は枢密院に台湾銀行を救済する勅令を願い出るも枢密院にこれを否決され、若槻は辞職する。枢密院が内閣の提案を否決しても、辞職の必要性は全くないはずだが、泥を被ろうとしない若槻の性格を現している。
総理大臣は力を持っているなら、精一杯の努力をすべきであろう。秀才であることが舵取りに秀でたものではないということを示している。東大首席の若槻と小学校卒の田中角栄を政治家として、首相として対比すればとてもじゃないが田中優位は動かない。鈴木商店を題材とした小説『お家さん』は、2014年読売テレビ開局55年を記念してテレビドラマ化された。
若槻には『古風庵回顧録』という自伝があり、「明治・大正・昭和政界秘史」と題され、1983年に講談社学術文庫として現代仮名使い版にて出版された。巻末には歴史学者伊藤隆による73ページに及ぶ解説がある。伊藤は西尾幹二、藤岡信勝らと『新しい歴史教科書を作る会』に発足させたが、内紛続きの会に嫌気がさして理事を辞任、メンバーの一人藤岡を激しく批判した。
藤岡は湾岸戦争以前は共産党員であったが、新たな日本近代史確立の必要性から、旧来の左右イデオロギーに組しない独自の、「自由主義史観」の構築を提唱した。これが大きな反響を呼び、1996年12月に西尾幹二ら有志と、「新しい歴史教科書をつくる会」を結成することになる。しかし、会はメンバーの路線対立等が原因で幾度となく離合集散を繰り返す。
若槻の『古風庵回顧録』は、日本の首相経験者クラスの政治家にあって、このような自伝や回想録を書く残した人物は外国にはあっても、日本では若槻を除いて海部俊樹の『自我作古』くらいであろうか。本書は昭和25年に刊行されたが、若槻は前年に死去しており、本人は世に出るものとの意図はなかったろうが、政治の内側からの貴重な資料であるのは言うまでもない。
回顧録は抑揚のない淡々とした文章で、間違いも少なく、冷静・沈着という評判を得ているように、若槻が実直な人間であったかが偲ばれる。政治家というより真面目な官僚としての印象を持つが、権力欲はあったようで後に憲政会総裁になっている。そんな沈着気味の若槻も信奉する桂公の話になると熱がこもる。若槻は第三次桂内閣の大蔵大臣に就任した。
冷静で好嫌の感情に左右されない若槻が、唯一後藤新平に対してのみ敵愾心を抱くのは、桂公を絡めたライバル意識であろう。どんな人間にも嫌な相手はいるもので、いかに誤魔化そうとも潜在意識は言葉や文に現れる。姑を姑さんと呼べずか、ちゃん付け呼ばわりで気晴らしする嫁もいれば、年下や格下相手を、「さん」で呼ばず、「くん」呼ばわりする男もいる。
気持ちは分からなくはないが、これだけで性格が推し測れる。あまりに露骨なので、からかい半分に聞いてみた。「意識してやってるんだろうが、さん付けで呼ぶと相手を尊ぶことになるそれが嫌なのか?」といえば、「別に意識してない…」と言うが、顔が嘘をついていた。こうした不自然な態度は誰の目にも露骨に映るが、精神の未熟さなのか当人は気づかない。
さて、慶応2年(1866年)生まれの若槻である。大政奉還が慶応3年、明治維新は慶応4年でなく改元で明治元年(1968年)となった。明治25年7月東京帝大を98.5点という驚異的な成績で首席卒業した若槻は大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。大正元年(1912年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年まで第2次大隈内閣で再度蔵相を務めている。
大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させるが、大正15年に加藤高明が首相在職中死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し若槻内閣を組閣する。彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な、「無産政党」が数多く結成された。
新装版『古風庵回顧録』の本題は、『明治・大正・昭和政界秘史』で、『古風庵回顧録』が副題というのも、政治家としての若槻禮次郎の研究もほとんどされてなく、『古風庵回顧録』さえ周知されていなかったこともある。『明治・大正・昭和政界秘史』と背表紙にあれば手に取りやすい。それにしても、明治についての記述は学生時代、官僚時代に割かれている。
『古風庵回顧録』の第一章・第一節は、「『ばんざい』の由来」と題され、日本で初めて、「万歳」が執り行われた様子が書かれている。それによると、日本では天皇陛下が出御されるとき、これを歓呼する言葉がなく、ただ最敬礼と言って丁寧にお辞儀するばかりであった。フランス語でいう、「ヴィヴ・ラ・フランス」とか、「ブラボー」とかの言葉はない。
英語なら、「セーヴ・ザ・キング」や、「ロング・ライフ」などと唱和する言葉は日本にはない。心に尊敬と親愛の情を表現しようにも言葉がなく、ただお辞儀するだけでは物足りない。それで大学の先生たちの間に、当日二重橋で陛下に対して歓呼の声を挙げ、それを将来の日本の歓呼の形式にしようとの議が持ち上がった。しからば、どういう言葉が適切か…
いろいろ討議されたが経済学の和田垣謙三教授が、「万歳、万歳、万々歳」なる言葉を提議、これを唱えることとなった。学校の方はこれで決まったが、生徒が一斉に大きな声を出して歓呼することで御馬車の馬を驚かせてはいけないと、前もって宮内省へその旨申し込んでおいたといい、宮内省ではあらかじめ用意して馬を訓練して馴らしていたのだろう。
その時の様子を若槻はこう書いていている。「さて第一公式の立派な御馬車が二重橋を出て来た。高らかに、「ばんざい」の声があがった。これが我国で万歳を唱えた第一声であった。ところが、豈図(あにはか)らんや、この突然の歓呼の声に怯えて御馬車の馬が驚いて棒立ちになり、足をバタバタやりだした。定めし陛下もお驚きになったことであろう。
自然に一同は遠慮する気持ちになって、第二声の、「ばんざい」は小さな声になり、第三声の、「万々歳」と唱えず、それきりになってしまった。だから、聞いていた人は、ことに和田垣案の、「万歳、万歳、万々歳」ということを承知していない人は、初めから「万歳」を再唱したものと思ったに違いない」。以後、「万歳」は、メデタイときの国民の歓呼となっている。