1945年10月4日、マッカーサーは東久邇宮内閣の国務相近衛文麿と面接、次の2点を強調した。①憲法を改正して自由主義的要素を取り入れる必要がある。②現在の反動的な議会を一新するために婦人の参政権を認め、労働者の権利を認める。東久邇宮内閣は翌日5日総辞職し、近衛は閣僚ではなくなったが、マッカーサーは近衛個人に憲法改正気運を抱かせるように働きかけた。
近衛は内大臣木戸幸一と相談し、自分を内大臣付誤用係に任命させ、京都帝国大学名誉教授佐々木惣一らに憲法改正案の起草を委嘱した。しかし近衛は12月6日、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、青酸カリを服毒して自殺した。
自殺の前日、近衛は次男の通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残したが、この遺書は翌日にGHQにより没収された。近衛が戦犯で裁かれることになったことで、GHQはマッカーサーが近衛に憲法改正に尽力を求めたという事実を公式に否認した。
マッカーサーは憲法改正を急がなければならない理由があった。オーストラリア、ソ連、中国などを中心に天皇の戦争責任追及の動きがあり、それはアメリカ国内にもあったからだ。GHQは近衛や幣原首相らに憲法改正の必要を示唆した後、動向を見守っていたが、近衛の作業を幣原内閣は認めず、近衛が戦犯となった際にGHQは近衛と無関係を装わざるを得なかった。
幣原内閣は国務相の松本烝治を主務大臣とした「憲法問題調査委員会」を発足させ1945年10月27日から46年2月2日までの間に22回の会合を重ね、2月4日にGHQ宛に英訳の要綱の提出をするもGHQ側は満足のいくものではなく、松本委員会に改正案を督促で命じたが、秘かに自らの手になる新憲法草案を、2月3日より書き上げに着手、2月10日には草案を完成させたていた。
松本委員会試案の要綱の提出は2月8日であったから、その時はすでにGHQはまったく別の、独自の新憲法草案を用意していたことになる。1946年2月13日、弁護士で法学博士のホイットニー准将、法律家のケーデス大佐らGHQ民生局のスタッフは、外相官邸で吉田外相、松本国務相らと会見した。この様子はNHKの『日本の戦後』と題する番組で1977年5月29日に放映された。
「サンルームの二時間 憲法GHQ案の衝撃」と題された番組は衝撃的で、発売されたばかりの家庭用ホームビデオで初めて録画した番組であった。ありし日の父と何度か観たことを懐かしく思い出す。ホイットニーらは、マッカーサーが松本試案は承認できないと語ったと述べ、GHQ側の草案を手渡した。まったく予期もしていず、吉田茂も松本蒸一の衝撃はいかばかり…
このときGHQ側は、有無を言わせぬ強い姿勢で迫り、日本側の憲法改正案はこの草案を土台に作成すべしと日本側に伝えた。幣原内閣はGHQ草案を閣議決定し、折衝後に若干の修正を加えただけで3月6日に、「憲法改正案要綱」として発表された。文体がいかにも翻訳調であり、前回の松本試案と大きく異なることから、米側の押し付けという疑惑が避けられなかった。
日本政府は自主的提案と面子を保ち、真相は秘匿された。草案は、旧憲法の改正手続きに従い、枢密院の審議・可決(6月8日)を経て、6月20日に衆議院に提出された。衆議院では翻訳調の文言に修正を加え、8月24日に可決後貴族院に送られた。貴族院でも語句が修正され再び衆議院に戻され10月7日の帝国議会で可決・成立した。枢密院本会議が10月29日にそれを可決、11月3日に公布となる。
新憲法は1947年5月3日に施行となり、これを記念として翌1948年に公布・施行された祝日法により、5月3日を憲法記念日と制定された。参議院では公布日の、「11月3日」とする意見が多かったが、日本国憲法の公布日である11月3日は、文化の日とされている。自国の憲法は自国民によって制定されるべきものであるが、日本国憲法は他国による押し付けなのか、どうなのか?
GHQに憲法案を作成する権限はなく、権限は極東委員会にある。極東委員会の定款第2項に、「極東委員会及び連合国日本理事会」とあり、「合衆国政府の任務の第3節」には、「但し日本の憲政機構、若くは管理制度の根本的変更を規定し、又は全体としての日本政府の変更を規定する指令は、極東委員会の協議及び合意の達成のあった後に於てのみ発せられるべきである」とある。
マッカーサーが、なりふり構わず短期間に憲法案作成を急がせ日本政府に提示したのは、2月26日の極東委員会第1回会議までになんとか既成事実を作りたかったからであった。昭和天皇を裁判にかけて天皇制を廃止すべしとする国々を含む極東委員会が、昭和天皇を裁判にかけて、「天皇制」の廃止が決定となれば、マッカーサーといえども従わざるを得ない。
マッカーサーは、「天皇制」を残すべきと判断していたから、極東委員会が上記決定がなされる前に、「象徴天皇」という形をとり、民主主義の憲法案を急いでつくらせ、それを日本政府に受け入れるよう迫ったのが正確な歴史認識であるが、介入があったのは事実であり、しかもこの時の介入自体が押し付けと言わないというのは、いかなる事由にしても無理がある。
日本の国会などで憲法改正が審議されている間、ワシントンの極東委員会では予想どおり、他の連合国代表が東京における情勢に疑念を表明し、調査のための係官の派遣を決議し、憲法改正の再検討を要求したりした。これに対してマッカーサーとGHQは、日本の自主的選択であると主張しつづけ、平和と民主主義と自由を選んだ日本国民を歓迎するとの態度を表明した。
新しい、「日本国憲法」の最大の特徴は、象徴天皇制と戦争放棄であろう。天皇は、「日本国の象徴」、「日本国民統合の象徴」とされ、その地位は主権たる日本国民の総意にもとづくと規定された。天皇は国家行事としての儀式に関与するだけで、実質的な政治権力は何ももたないことが明確にされた。旧憲法下では立憲君主性が志向されたが、統治権は天皇にあるとされた。
したがって内閣は議会にではなく天皇に責任を負い、軍に対する統帥権は内閣からさえ独立にして天皇が保有する形式になっていた。こうした統帥権の規定は1930年代に、軍が政府を揺さぶる道具に使われることになった。新憲法では形式上は君主制だが、実質は共和制に近い政治形態を採用し、国家権力の最高機関は立法府の国会であることが規定されている。
天皇制を残すことで大統領制の提案は採用されず、行政府の組織として議院内閣制を採用した。新憲法の第二の目玉は、戦争放棄と非武装宣言である。第9条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と述べ、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と規定した。
独立国においてこのような大胆な非武装規定は、1946年2月2日のマッカーサー・ノートによって指示されたが、そのアイデアはそれに先立つ1月24日のマッカーサー・幣原会談で生まれたとされる。どちら側からの発想であるか不明だが、深刻な戦争を体験した日本側の反省と、日本軍国主義再起の可能性を完全に除去したいアメリカ側の要求がアイデアに結晶したとみる。
ただし、第9条の規定には審議の過程で重要な修正が加えられた。憲法草案を審議した衆議院特別委員会は、芦田委員長の発案で第9条第2項に、「前項の目的を達するため」という文句を挿入した。この部分は一般的に、「戦争放棄いう方針を堅持するため武力は持たない」という意味に読まれる。が、無理をすれば、「国際紛争解決の手段として用いる武力は持たないと読める。
裏返せば、「この目的以外の武力は持ちうる」と読めないことはない。提案者の芦田の胸中は、「自衛のための戦争と武力行使は放棄されたのではない」という事を暗に表現する意図であったとされている。GHQのスタッフは当然に修正の意図をそのように理解し、将来の日本再軍備を可能にするかもしれないということを感じ取り、しかもそれを黙認した恰好である。
彼らは、すでに日本の永久非武装は現実的でないと判断しつつも、大人の対応をしたのである。分かっていながらも、子どもをあやせるのが真の大人であるということだ。ところが極東委員会は、新たな日本側の修正による、日本再軍備の可能性を問題とし、ソ連、中国、オーストラリアの代表がアメリカ代表を追及したことで、GHQは憲法草案に新たな文章を挿入させた。
「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(第66条第2項)という規定で、これにより極東委員会は右の修正を含む憲法草案を承認した。難産といえば難産だがGHQの手際の良さも見事である。芦田の意図がどうであれ、国防軍を持つことを合憲と公言するのは法文として無理があり、第9条を非武装規定と理解し受容した国民感情は無視はできなかった。