極東の戦後処理に関して連合国の間には考えの相違が存在した。太平洋戦争を主導し、日本占領を実行したアメリカ政府の政策は、当初はあまりに理想主義的であり、楽観的であったのは否めない。連合国の行動に示された一つの大きな動きは何より秩序の回復であり、これを巡って連合国の対立および抗争の激化に直面したアメリカは、大きな修正をする必要があった。
というのも、ヨーロッパにおけるドイツと同様、アジアにおける日本は旧秩序の破壊者という認識であり、連合国の対日戦争は破壊行動をとった日本を処罰して、旧秩序を再建するという性格をもっていたが、アメリカとヨーロッパ諸国の旧秩序の再建というのは性格が違った。旧植民地を日本に奪われた英・仏・蘭にとって旧秩序の回復とは、植民地体制の復活を意味した。
戦後、チャーチルは『大西洋憲章』でルーズベルトに、「既存の利益の尊重」の一句を挿入させたのも、植民地帝国の存続を図る意図からである。アメリカもスペイン戦争の結果としてフィリピンを買い取って領有していたが、マクダフィー法によって1946年にフィリピンを独立させる約束をしたように、アメリカは植民地支配体制は高コスト低利益を感じ取っていた。
フィリピンは1946年7月4日に独立を果たす。インドネシアではオランダ支配復活反対の義勇兵らによる独立戦争を経て1949年12月27日、独立が承認された。インドシナ半島ではフランス支配反対の独立戦争が起こり、ベトナムでは共産主義者ホー・チ・ミン指導のベトナム独立同盟が抗仏戦争を展開した。植民地体制に批判的なアメリカも民族が共産主義下に組み入れられるのを警戒した。
戦後のアメリカによる対日政策は周到に準備されていたが、上記したように現実には多くの不備を免れなかった最大の理由はアメリカで極東のことはよく知られておらず、専門家も少なかったこと。日本の降伏が予想よりも早く、準備が不十分のまま占領の局面を迎えたことが原因である。さらには、政府や軍の首脳部の関心は、ヨーロッパとくにドイツの処理に集中したこともある。
日本の戦後処理を託されGHQは独自の動きを示し、必ずしもワシントンの思うようには行動していなかった。マッカーサーや彼の参謀たちは極東委員会や対日理事会の介入を嫌い、他の連合国の意向を考慮せざるを得ないアメリカ国務省の介入すら嫌った。日本に関する有知識者の意見も分かれており、現場で様々な日本人と接触するマッカーサーにも独自の日本人観が芽生えた。
無条件降伏をした日本を敗北させ、戦禍をもたらした責任者としての天皇を処罰すべきという強硬な世論がアメリカ国民や一部の知識者にあったが、勤勉で素朴で良心的な日本人に直に触れ、天皇と直に向き合ったマッカーサーをして親日家にならざるを得ない天皇の言葉があった。9月27日、昭和天皇はマッカーサーに会うために通訳一人だけを連れてアメリカ大使館公邸を訪れた。
昭和天皇からの訪問の意向を聞いたマッカーサーの脳裏には、彼が第一大戦直後に占領軍として父に伴ってドイツへ進駐した時に、敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍の元を訪れていたときのことなどが過っていた。その時カイゼル皇帝は、「戦争は国民が勝手にやったことで自分には責任がない。したがって自分の命だけは助けてほしい。」と命乞いを申し出たのだった。
昭和天皇からも同じような命乞いを予想していたマッカーサーは、パイプを口にくわえたままソファーから立とうともしなかった。椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた横柄な姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。そんなマッカーサーの前に歩み出た昭和天皇は、直立不動のまま国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べた。
「日本国天皇は私であります。この度の戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろん、いかなる極刑に処されても応ずる覚悟があります。しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますよう」。昭和天皇から発せられた誠実な言葉にマッカーサーは驚いた。彼は、昭和天皇が命乞いにくると考えていたからだろう。自らの命と引き換えに自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上に存在しただろうかと…。マッカーサーは咥えていたマドロスパイプを机に置き、椅子から立ち上がった。
マッカーサーは一転し、まるで一臣下のように掛けて昭和天皇の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとったという。マッカーサーは後にこの時の感動を、『回想記』にこう記している。「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士であると思った」。
この2日前の9月25日、ワシントン発AP電は次のように述べていた。「日本国民による民主主義革命の可能性は期待薄であり、少なくとも最初のうちは、真の変革への最初の原動力がマッカーサー元帥によって与えられねばならぬことを明蝶にしている」。GHQは9月11日、リストアップしていた、「戦争犯罪人容疑者」の最初の発表を行い、A級戦犯容疑者38人の逮捕を命じた。
ソ連やオーストラリアは天皇を有罪と主張したが、アメリカは国務次官であり、元駐日大使であったジョゼフ・C・グルーの政府への説得があった。グルーは、天皇やその側近たちが英国風民主的立憲政治を希望していたにもかかわらず、軍部の暴走により挫折したと考えており、天皇制の存続を認め資本主義経済の復興と発展を目指す方がアメリカにも好ましいと主張した。
マッカーサーの天皇観とアメリカの国益は、天皇を戦争犯罪人とすることではなかった。大日本帝国憲法下にあって、「勅令」は緊急事態その他の理由にもとづき、議会で成立した法律にはやらず、天皇の命令として公布・施行されるもので、御前会議席上において、「空気」という日本人的なものに抗えなかった天皇に、戦争責任の有無は見解の相違といわざるを得ない。
日本人は押しなべて、「あの時は反対できなかった空気であった」とか、「あの時はあのように言わざるを得なかった」という言葉を好むが、孤立を避けて敵を作らずの処世術であり、他人を見て暮らすという、いかにも日本的なもの。天皇には主体性がなかったのではなく、軍部の、「空気」を読むことで使命を果たしていた。それが日本破壊の根本原因であることにせよ…
「周囲とズレている」と名指しされる発言が正しい場合は、周囲がズレているのであって、そういう事は山ほど経験したが、「空気を読めよ!」という言い方で全体の和を図ろうとするズレた日本人は多い。誰が誰に与するとか、しないとか、市井の様々な場においてもそれらが人間関係の重要なファクターになる。日本人の思索とはそういうところから生まれるものである。
が、それが思索といえるのか?神や天皇をどのように絶対化しようとも、いかに絶対化しているように見える言葉であろうとも、一切は相対化されうるものであり、相対化されねばならない。人間が口にする言葉には、「絶対」といえる言葉は皆無であることを前提にするなら、人が口にする命題はすべて対立概念で把握でき、また把握しなければならないと自分は考える。
人は言葉を支配できず、逆に言葉に支配されて自由を失うことになる。意志を大事にすることは言葉を大事にすることであり、その逆もまたしかり。自分が決めて言い聞かせていることはたとえいかなることがあっても、「あのときはああ言わざるを得なかった」、「あの状況では自分の本心は言えなかった」という言葉は絶対に口にしない。たとえ空気に与したとしてもである。
空気に与したということは、それが自分の意思の反映でなくとも、意思とみなすことだから、卑怯にも後になって、「あの時はああ言わざるを得なかった」とは、口が裂けても言わない。戦前の天皇制とは責任論の及ぶ、及ばないを超えた、まさに、「空気支配」の体制である。象徴天皇になった憲法下においては、御前会議もなく重要案件を天皇に問うことはない。
昭和天皇とマッカーサーの35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇を見る目も応対する態度は変わっていた。わさわざ予定を変更して自ら昭和天皇を玄関まで送った。これは最大の敬意の表れであろう。アメリカ政府はマッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したが、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」とマッカーサーは回答している。
その後マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、11回に渡って会談した。1964年、84歳で他界したマッカーサーであるが、昭和天皇は後に戦争について語る時も、マッカーサーとの会談について、「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と、生涯語ることはなかった。