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日米関係と太平洋戦争 ②

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安倍晋三首相は3日午前、トランプ米大統領と電話協議を行った。弾道ミサイルの発射や地下核実験を行った北朝鮮の情勢分析を行い、対応を協議した。北海道上空を通過する弾道ミサイルが発射された先月29日以降、30日に続く短期間での異例の電話協議となったが、「安倍ちゃん、ワシもう我慢できん。北を攻撃するで!」などと言い含められているなら由々しき事態だ。

広島・長崎と二度の原爆被災した日本は、8月14日の御前会議においてポツダム宣言受諾が決定された。まもなく日本占領の連合軍最高司令長官に任命されたマッカーサーからの停戦指示が、スイス経由で日本に伝えられた。8月15日正午、天皇の声がラジオ放送を通じて全国に流されたが、録音や受信状態も悪いうえに独特な文体と音声から内容を理解できた国民は多くなかった。

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8月16日午後4時、大本営の陸軍部と海軍部はそれぞれ全軍へ停戦命令を発した。軍人や国家主義者の一部には自決もあったが、全体的に大きな混乱や破壊行為はなかった。大多数の国民は、生命を投げうって戦うことを要求されていたが、突然の終戦に直面して茫然とするのみであった。天皇の裁断を得て降伏を決めた鈴木貫太郎内閣は、15日午後3時に総辞職した。

8月17日、東久邇宮稔彦王の内閣が発足したが、皇族に組閣させたのは、降伏及び占領に対する軍の抵抗を抑える配慮であったろう。8月28日、アメリカ軍先発部隊150人が厚木の海軍航空隊基地に到着。8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの乗機が、沖縄の嘉手納飛行場から厚木へ飛来した。9月2日、横須賀沖の戦艦ミズーリの甲板で降伏文書署名が行われた。

日本側は外相重光葵と陸軍参謀総長梅津美治郎、連合国側はマッカーサーの他、アメリカ、中国(国民党政権)、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表が署名した。高校で日本史を選択していた自分は、連合軍でありながら日本がアメリカ一国に単独占領されたことに疑問を抱くも、関係する書物を読むことはなかった。

連合国といっても実質日本を打倒したのは直接にはアメリカ軍であった。中国国民は大戦前の日中戦争で日本の侵略を行き詰まらせたが、中国戦線自体では決着をつけられなかった。イギリス・英連邦諸国は初期大敗で戦力を失い、アジア戦線ではインド以西とオーストラリア、ニュージーランドを保持したに過ぎず、ソ連は日本の降伏直前に参戦したに過ぎない。

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など、日本と戦ったのはアメリカ以外に、中国、英国、オランダ、オーストラリア、ソ連などだが、日本と戦って勝利を収めたのは100%アメリカの力であり、日本をアメリカだけが統治するとしても文句を言える国はなかったといえる。また、日本をソ連と分割統治するなどとトルーマンが言おうものなら、多くの血を流したアメリカ国民から袋叩きに合っていただろう。

マッカーサーは戦後、ソ連が進駐するのを断固拒否していたが、日本の分割統治計画は存在した。第二次世界大戦でドイツが降伏後に、米・英・ソ・仏 4 カ国に分割統治されたように本土決戦後の日本も、北海道・本州・九州・四国を連合国それぞれが統治する計画である。日本が明治以降、「暴力的に獲得した地域」を連合国によって分割する方針は大戦中から打ち出していた。

これら占領地域には日本が内地とした地域もあり、その点で言えば、日本領土は史実的に分割されている。しかし、本土決戦が回避されたことで、上記以外の日本本土を構成する、北海道・本州・四国・九州及び付属の島々は、連合国軍最高司令官総司令部(通称GHQ、 実質は米国)によって、 1952年まで統一した占領統治下におかれて分割されることはなかった。

日本分割占領案については戦時中の早い段階から連合軍将兵にも伝わっており、中華民国軍兵士の証言では、ルーズベルトが中国軍を日本占領統治に参加させることを決定したとの話が兵士たちの間に伝わると、多くの中国軍兵士がこれを喜び、日本に上陸した際にどのような行動をとるかについて話し合っていた。中国領土を侵略していた日本へのただならぬ憎悪であろう。

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結果をいえば、日本はアメリカ一国の単独占領で良かったことになる。第二次大戦後に分断国家となった国は、東西ドイツ、韓国北朝鮮、南北ベトナムの三地域がある。ベトナムは共産主義者のホーチミンが独立を宣言したが、フランスがそれを認めず南北に分断された。朝鮮半島もソ連寄りの金日成と米国内で反日運動を行っていた李承晩の対立が解けず分断国家となる。

ドイツは、ソ連と英米軍が東西から挟み撃ちにして占領した。両軍とも占領地を自分達が統治することを主張できるだけの十分な血を流していたからである。日本降伏直前に参戦したソ連の弱みもあって、日本占領の主導権をアメリカが掌握するのは当然であった。が、連合国全体が対日戦争の当事者とされたなら、アメリカは日本の戦後処理の調整問題に直面したであろう。

ソ連政府は対日参戦後戦勝国の自負としてアメリカに対し、日本占領連合軍最高司令官をアメリカとソ連の2国から選出とすることを求めており、領土問題としては、南樺太、千島列島、北海道の北半分をソ連軍に占領させることを要求した。それらもあってか、統合参謀本部が8月16日に策定した日本分割占領計画案では、北海道と東北地方がソ連占領地区に予定されていた。

日本分割占領が実行されていたら、北海道・東北および、中国支配の四国地域は共産圏となっていたろうし、返す返すもアメリカ一国占領で正解であった。実際ドイツにおいては1945年5月の降伏後、米英仏ソの分割占領が実施されたが、すでに、米英仏三国とソ連の対立は深刻化しつつあった。そうした苦い経験もあってか、アメリカ政府は日本占領計画を急遽手直しした。

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トルーマン大統領は8月18日の段階でロシア案を黙殺、日本占領をアメリカ人のみの連合国軍最高司令官のもとで一括占領とすることを承認し、この方針はソ連にも通告された。それによってアメリカ側は、日本全土は勿論、千島列島主要地域はアメリカ軍が進駐して日本軍の武装解除に当たる方針であったが、スターリンはすぐに手を打ち、千島列島全域にソ連軍を進駐させた。

さらにソ連は、満州、朝鮮の北緯38度線以北、南樺太、千島列島を占領してしまい、これらの地域で武装解除された日本人兵士たちはシベリアへ連れ去られ、長期にわたる過酷な強制労働を強いられ、数万人が死亡した。終戦前の1943年に開かれたカイロ会談ではアメリカの F.ルーズベルト、イギリスのチャーチルおよび中華民国の蒋介石は最終日に、「カイロ宣言」に署名した。

これによると、日本降伏後の挑戦独立を約束しているが、手順は何も決められていなかった。満州の日本軍が崩壊した後、ソ連軍が容易に朝鮮全土を占領する可能性があったことで、アメリカ軍はソ連軍の行動を阻止するため、38度線以南をアメリカ軍が占領し、以北をソ連軍に委ねる方針を急遽決定した。戦後のどさくさにまぎれた大国の虚々実々の応酬である。

ソ連に占領された千島とアメリカの軍政下におかれた沖縄、奄美、小笠原を別として、日本本土の分割占領は回避されたのは幸便である。アメリカは当初日本本土にも軍政を予定していたが、日本の要請を受け入れてGHQの間接統治方式を変更した理由は、日本が天皇制を破壊されることを怖れ、東久邇宮内閣の重光外務大臣が先頭になって軍政撤回を求めた結果である。

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天皇を温存するというマッカーサーの判断は賢明で、日本国民はおとなしく指示に従い、復興に汗を流した。軍隊は解散させられたが日本の国内統治機構は完璧で、手間を掛けて新たな組織で直接統治する必要はなく、国内統治機構のトップを押さえていればよかった。アメリカ軍は日本で流通させる軍票を用意していたが、日銀券が引き続き通貨として使用された。

アメリカ政府はアメリカ軍による一括占領体制を確定したうえで、他の連合国にも日本国内へ軍隊派遣を要請したがソ連は拒否を回答した。中国の国民党政府は、共産党勢力との内戦を推進する構えであり、日本へ派兵どころではなかった。そうした事情もあって、日本に進駐したのは英連邦軍(オーストラリア軍)のみであったが、兵力は少なく形だけといえるものだった。

アメリカ軍は占領初期に約40万もの兵力を日本に進駐させたが、終戦とともにアメリカ国内や軍内部で復員要求が高まり、占領軍兵力の削減を強いられるのは在日米軍幹部にとって占領体制維持に不安があった。日本占領は事実上アメリカ単独となったが、他の連合軍の要求をまったく無視するわけにもいかず、英ソ中三国に対し、「極東諮問委員会」の設置を提案する。

諮問では不服とばかりに政策委員会としての、「極東委員会」を1945年12月、モスクワの米英ソ三国外相会談で決定を見る。参加はアメリカ、イギリス、ソ連、中国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、オランダ、フィリピンの11か国で構成されワシントンに設置された。ただし当委員会は他国が異議を唱えても、アメリカは拒否権を行使できる仕組みになっていた。

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