現在起こることはリアルタイムで知ることになるが、過去は記録で知るしかない。幸い、過去の記録がさまざま残されており、戦前はおろか、戦国時代や飛鳥時代にを辿ることもできる。中国・漢代の文学者司馬遷が書き上げた『史記』は、百三十巻に及ぶ膨大な著作である。紀元前のことが記録されていて、数千年を経てそれを我々が目にできる至福の喜びであろう。
知らずとも困らない、知らずとも日々の飯にありつけるわけだが、我々が同じ人間である先代の悲哀や喜怒を知ることは、少なくとも人間理解につながろう。自分の周囲の人間関係や出来事にしか興味がない人もいようが、それも人の生き方である。もっとも聖書なる書物を生き方の規範とする人もいるわけだし、自分のように聖書を『史記』と同じ文学作品と見る者もいる。
歴史を紐解くことで知る真実に驚嘆もし、嘆きもするが、記録という真実に背くことはできない。さらには、歴史の中にある大きな誤解や信じ込んでいた虚実さえ正すことはできる。「正すことで何が得れるのか?」と問う者には分からない何かを得ることになる。自己満足といえばそうであるが、人は誰も食べたいものを食べ、乗りたい車にのり、着たいものを着る。
これら一切が自己満足であるなら、他人の自己満足に無用な口出すをするものではなかろう。「ガラスの家に住む者は、他人に石を投げるな」という西洋の諺があるが、個人主義というのは、他者を尊重することである。しかるに集団主義とは、他者との違いを見つけてあげつらうことである。皆が一緒であるべきという考えは、一緒であるはずのない人間を朱に染めんとする。
染まる者もいれば染まらぬ者もいる。膨大なあらゆることを知ることなどできないが、1000あることの例え100でも200でも知ることは、時間と気力と知識欲があれば可能だ。個々が自身の余暇を何に使おうが、それが人の人生である。人は死んでないなら生きていることになるが、そうも言えない。生きながら死んでいる人もいるように、死んでなお生き続ける人もいる。
われわれ凡人は、死んで生き続けることは出来ないが、せめて生きながら死んでいる人間にならないことは出来る。過去を生きることはもはやできないが、歴史を俯瞰することで歴史の中に存在することはできる。それが歴史を紐解く楽しさ、面白さであろうか。所詮100年足らずの人間の生を楽しむということは、やりたいことをやり、好きなことに生きることではないかと。
100年、いや80年かも60年かも知れぬ人の生は非常に短い。しかも、その中の静かなる時間というのはあまりに少ない。どんな本でも興味のあるものなら、じっくりと、丁寧に、繰り返し読むのがいいと10代の頃に教わった。暇つぶしに手当たりしだいの読書は、頭をつかわない気晴らしである。それが講じて、頭を使わない気晴らしだけのものしか読めなくなってしまう。
そのうち、読む力も失せることになる。「若い時は、理解しずらく面白さを感じられなくても、良書を選んで読みとおす癖をつけた方がいい」といわれたのは正しい事であるのが分かった。漱石は、「文学は人生そのもの」といったが、この言葉は誤解を招きやすい。文学作品に現れた人生は作者が心に描いた可能性としての、こうあって欲しい、あって欲しくない人生である。
文学は実人生というものではない。が、人間社会にはこんなこともあるのかと、今まで知ることもなく、気づかされなかったことに出会う。歴史も同じこと、文学はフィクション、歴史は真実という違いにある。歴史の体現者はその中に生き、文学に触れる者は、その作品を自身の人生そのものが如く取り組む作者の誠実さを見るなら、それは素晴らしい文学作品であろう。
そうした条件を備えた文学作品を読むとき、我々はどういう影響をうけるのか?一言でいうなら、「生」に対する限りない渇望、興味、関心、利害感などをもつことになる。今がどんなに幸福な生活であれ、どんなに苦しく惨めな実生活にあえいでいる人であれ、今とは違う人生を生きんとする期待と気力を与えてくれるだろう。そのような本に結構巡り合った気がする。
「女工哀史」や、「からゆきさん」など、生きている最後の瞬間まで生の好奇心を保ち、生きることに誠実なる女性の、人としての生き方の大切さ、立派さに心を奪われる人もいるだろう。実在とは球のようなもので、いたるところが中心である。南朝時代といえば古いが、その時代の学者北畠親房は、「天地の始まりは今日が始まり」といった。何とも象徴的な言葉である。
今日がなければ明日はないのだから、我々の生きる1日1日を中心にとして、我々の過去と未来が闘っている。自分という人間が、過去にどれほど醜い行為をしたとし、どんなに惨めな欠点に満ちていたとしても、そんなことはなんでもないこと。実際はなんでもなくはないが、その過去を足がかり、手がかりに材料とし、深き心を持つ人間になろうと努力するならば、である。
そうした欠点を、「悪い」という意味はなくなり、むしろ「善い」意味となろう。事実は変わらなくても意味が変わる。意味が変わればおのずと考え方も生き方も変わる。歴史にもそういうものは当てはまる。過去の日本の悪しき材料を、あらため再利用することで、明るく住みよい日本にすることは、ひとえに政治家の仕事ではない。ろくな政治家がいないのも分かっている。
われわれは、われわれの真理をもって邁進することだ。歴史を通じて様々な考えを宿し、良い社会を目指すことはできる。歴史に登場する非道なる悪人の成敗方法を学ぶこともできるのだ。項羽と劉邦などの歴史の中の人物に心を奪われたり、感銘を受けたり、しかるに歴史の証言者はみな同じ人間である。武に秀でる者が孤立し、情に厚き者が力を束ねるものかと…
誰にでも危機はあろうし、誰にでも条件の悪い条件はある。が、全ては自分の人生である。種を撒こうが、撒かぬ種が降りかかろうが、己の責任と言い難いことに見舞われることもある。いかに理不尽とはいえ、それとて自分に降りかかる人生には変わりない。そうした悪条件を言い訳にし、前進と向上への努力を捨てる人間も少なくないが、それで人生が良くなるのか?
歪んだ生活に陥った己に同情し、癒すだけなら、自分を尊敬などできないだろう。いかに辛い状況であれ、自らを大切にし、励まし、素直に粘り強くいれば、自らのその姿に尊敬の心を向けることができる。どんな人生であれ自らが背負うものだからであり、自分の人生すべてについて、自らが責任を取らねばと考えることが、人間の成熟さを示すものと考える。
人は成熟すべきである。言い訳で自身を免罪し、癒すのは子どもである。学生時代の秀才の愚かさを目の当たりにさせられた好例が、橋本健神戸市議の辞職願郵送である。彼が人前に出て堂々(?)会見したのは、嘘を言うためにであり、もはや嘘をいう必要も、嘘を嘘だと正される状況と悟ると逃げ惑う。学問はなぜに人間の「徳性」に寄与しないのだろうか?
巷言われる、「挫折を知らないエリートは挫折に脆い」というが、ただの一度の失敗で鬱になるものもいる。それならまだしも、死を選択する者もいる。それくらいに他人の視線が自身に刺さるのだろう。成績という評価で生きてきた人間にとって、社会人としての評価は別の尺度でされるということに気づき、シフトさせなければならないのに、過去の栄光にしがらむ。
8月29日、文科省の有識者会議は、国立大学の付属校が、「エリート化」し、本来の役割を十分に果たせていないとして、学力テストではなく、抽選で選ぶことなどを求める報告書をまとめた。報告書では、入学の際に学力テストを課さず、研究・実験校であることについて保護者の同意を得て、抽選で選考することや、学力テストが選考に占める割合を下げることを提案。
さらには同じ国立大の付属校間で、これまで無試験で進学できる仕組みにも見直しの検討を求めた。文科省によると、国立大付属学校は現在、幼稚園49、小学校70、中学校71、高校15など計256校あり、約9万人が通っている。提言にいわれる、「本来の役割を果たせていない」とは具体的にどういうことをいうのか?これは付属校への批判から浮き彫りにされている。
エリート志向の親が我が子を国立大附属校に入れる目的がそのように定着したことに、そろそろメスを入れる必要に迫られているという、こんにちの附属校の現状である。医学部の附属病院が廃止等で取り沙汰されることはないが、それは高度専門職業人の育成に欠かせないからである。ところが、国立大教育学部の附属校には縮小や廃止の論議が出てくるようになった。
批判の要因は種々あるが、識者会議で上がった一例として、「優秀な子どもを集めて行う進学受験校であるならば、あえて国立で行わなくても私学でできるのではないか」。ここの点は、私学と国立大附属校とは、明確に差別化をすべきである。我が子に入れ込む親を変革するのはできない以上、私学がそれを受け入れ、国立の附属校はエリート化を特価すべきでない。
人が潜在的な力を発揮できるための要素として、「目的」というのは魔物であろう。その目的が本来の目的と乖離していることが国立大附属校の問題点である。歴史を辿れば国立大附属校は、明治期に設立された師範学校である。初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関とされ、教員養成機関の一つで、その原点に立ち返るという提言である。
あらゆるジャンルにあらゆる歴史が存在する。附属校はあくまで教員養成校で、エリート養成校であってはならない。こんにちの複雑な子どもの社会に対応できる優秀な教員は、エリートである必要はない。いや、エリート先生は子どものパワーに押し潰されて休職を余儀なくされるといった脆弱教師が多い。抽選でも何でもいい、真に教職に向き合う人材が必要だ。
われわれは空腹の時も、満腹の時も苦しい。それならいつが楽しいのか?貧乏母さんが自分の分を切り詰めても我が子に盛る。そうした子育てにおいて、巣立ちの安心感は継続中の充実感には到底及ばぬと回想するようにである。やってるときこそ至福であるからやれるのだ。不思議な気もするが、それが「目的」という魔物であろう。確かに目的は人に力を与える。
言い訳というのは面白いもので、言うのが癖の人はとことんいうが、言い訳をしない人は、言い訳をしないのが癖になっている。だから、口先まで出かかることもなくなる。(言い訳を)いってなんとかなると思うか、言い訳などいっても何の意味もない、足しにもならないと思うかの違いと分析する。言い訳に頼るか、頼らないか、この違いは人間の大きさにも寄与する。
狭く低く小さな目標、近くて安全な目的(地)しかない人間は、遠く険しく危険の多いものは持ちたく無かろう。つまり、それが自身の能力を鍛え、発揮することにならず、何事も貧弱なままで止まっている。負けて言い訳するより、強くなろうと思うことがどれだけ大事かだが、おそらくそれがないからだ。強くなろう、なりたい人間に、言い訳はまったく必要性がない。
自分を慰めて強くはならないと知る、それがプロ棋士の棋士たる所以である。彼らは永遠に強くなりたいと願うものだが、努力するかしないかは個々の差がある。高みを求めて厳しい暑さ寒さのなかで猛練習を重ねる運動部員やアスリートに思いを寄せるとき、彼らは彼らなりの辛さの中に幸福や喜びを感じ取ろうとしているようだ。それが彼らの一つの目的であるからだ。