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日米関係と太平洋戦争 ①

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日米開戦は1941年12月1日の御前会議で決断された。昭和天皇は米英との開戦に最も躊躇した一人であったが、開戦を求める軍部の強い圧力もあり、米国側の根強い対日不信もあって日米両国の妥協はならず、開戦を止めることができなかったといわれている。1941年7月18日に組織されたばかりの第三次近衛内閣は3か月で総辞職し、10月18日、東条英機が内閣を組織した。

11月26日、アメリカ国務長官コーデル・ハルが野村吉三郎と来栖三郎両大使に手交した新提案は、中国の蒋介石やイギリスのチャーチルなどの対日強硬意見を背景に、事実上の最後通告に近いものになった。「ハル・ノート」と呼ばれる交渉文書は、中国とインドシナから日本の撤兵、中国における蒋介石以外の一切の政権の否認、日独伊三国同盟の否認要などがあった。

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日本の軍部にとって多年にわたる国民を総動員、多数の戦死者を出して獲得した中国大陸の支配を放棄するなどあり得ない。首相兼陸軍大将であった東条はハル・ノートを日本への最後通牒とするも、「我国として受諾は出来ない。米国は日本が受諾しないことを知って通知している」。「米国側においては既に対日戦争を決意しているものの如くである」とした。

昭和天皇は27日午後1時27分、東条首相から日米交渉について奏上を受け、翌28日午前11時30分、東郷外相からハル・ノートの説明を受けた。和平派東郷は、ハル・ノートに失望、外交解決を断念した。「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」、「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」と述べている。

日本の関係者の多くがハル・ノートを事実上の最後通牒、または宣戦布告と受け取った。12月1日の御前会議において東条首相は、「帝国は現下の危局を打開し、自存在自衛を全うする為、米英蘭に対し開戦の已むなきに立ち至りましたる次第であります」と説明した。会議の結果、対米英蘭開戦が決議される。開戦の真実は、ハル・ノートの解釈だったろう。

最大の危機に直面して、政策の大転換を遂行する力量は日本政府にはなかったろう。日本人が日本という国家を維持するために立ち上がった戦争に対し、裁判官の中で唯一の国際法専門家であるパール判事はこう擁護した。「もし、ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルグ(のような小国)でも、矛をとってアメリカに立ち向かうだろう」。

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12月8日早朝、日本海軍航空隊は、ハワイのオアフ島の真珠湾を奇襲した。日本の対米最後通牒はハワイ奇襲前に手交されるはずであったが、ワシントンの日本大使館の不手際で攻撃後になったが、ルーズベルトはこの不手際をアメリカ国民の反日感情の扇動のために最大限利用した。日本軍のハワイ奇襲は成功し、アメリカ太平洋艦隊はこの時点においては大打撃を受けた。

ボクシングで言えば12ラウンドの闘いの1ラウンドにパンチを受けてダウンしたようなもの。当時の日本も工業化は進んでいたが、アメリカとの格差はあまりにも大きかった。1940年代のアメリカは、すでに自動車や電器製品などの耐久消費財の大量生産を実現しており、機械工業の日米格差はいっそう大きかった。大恐慌前のアメリカの自動車販売台数は560万台である。

日本の自動車生産は、戦前・戦中のピークである1941年に、4万6000台(乗用車のピークは1938年で1850台)であった。そうした日米格差について日本の軍人や官僚、その他の知識層のなかに認識者はいて、彼らは対米開戦の無謀さを説いていた。特に海軍関係者に英米の実情を知る幹部はいたが、「米国は物質文明であるが精神力は日本に及ばない」という議論も横行した。

真珠湾の打撃と屈辱は、「Remember Pearl Harbor」の合言葉とともにアメリカ国民を奮起させ、報復の気持ちを燃え上がらせた。ルーズベルト政府は、「この戦争はドイツや日本の全体主義、軍国主義ならびに侵略行動を打破し、自由と民主主義を守り、恒久平和を確立する正義の戦いなのだ」という大宣伝を展開した。アメリカ人の士気は日本人の予想以上に高かった。

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第二次大戦にアメリカが派兵を決めたことで、日本、ドイツ、イタリアの敗北は決定的になったばかりでなく、この戦争が、全体主義vs民主主義、独裁か自由か、文明か野蛮かといった、社会体制や文明のあり方を賭けた戦争という装いが強くなって行く。ドイツも日本も第二次大戦初期において、それぞれの戦線において目覚ましい戦果を挙げ、領土を拡大して行った。

やがて戦局は枢軸国側に不利に展開し始める。ドイツはモスクワ占領を果たせず、ソ連の反撃と、「冬将軍」の到来で後退を余儀なくされた。ロシア南部のスターリングラードではドイツの大軍がソ連に包囲され、1943年1月31日~2月2日に降伏した。これにてロシア戦線の作戦は壊滅となる。日本は開戦6カ月後の1942年6月5日、ミッドウェー沖海戦で連合艦隊が大打撃を受けた。

同年8月7日、日本が守備していたガダルカナル島にアメリカ軍が上陸、両軍による凄惨な死闘が展開された。アメリカ軍は島の主要部を制圧、建設機械を使って一挙に飛行場を造成する。日本にはブルトーザーなるものはなく、誰も見たこともなかったろう。地慣らしといえば、「おかーちゃんのためなら、えーんやこーら」などとと悠長なことをやっていた時代である。

これで戦争に勝てるワケもない。物資、物量、先進性、ともに圧倒的劣勢である。太平洋の小島の守備隊は孤立し、弾薬や食料の補給もないままに見捨てられ、多くの兵士が疫病にかかったり餓死したりした。日本は制空権を失い、アメリカ軍は太平洋の諸島を、「飛び石づたい」に北上して行く。同盟国イタリアでは、1943年7月のクーデターにてムッソリーニが失脚。

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9月8日にはバドリオの新政権がすでにシシリー島に進出していた連合軍に無条件降伏した。徹底抗戦の構えを見せたドイツと日本に対し、連合軍も徹底的に戦う方針でいた。1944年6月6日、アメリカ、イギリス、カナダなどの連合軍は、フランス西北部のノルマンディに大規模な上陸作戦を敢行。8月24日、パリが連合軍に解放され、9月2日にはブリュッセルに侵攻する。

9月12日、連合軍はアーヘン付近からドイツに侵入、ソ連軍も10月11日に東から旧ドイツ国境を超えた。1945年3月7日、西側連合軍はライン川を越え、東から進撃したソ連軍戦車隊はベルリン市外に突入した。25日、米ソ両軍はエルベ河畔のトルゴウで出会う。27日ムッソリーニがスイス国境に近いコモ湖畔でバルチザンに逮捕され、翌日銃殺されたあげく逆さに吊るされた。

4月30日、ソ連軍包囲下のベルリンでヒトラーが愛人とともに自殺、他のナチス幹部は自殺、逃亡、連合軍に逮捕となる。5月7日・8日、ドイツ軍代表がフランス東北部のランスとベルリンで連合軍への無条件降伏文書に署名した。その頃日本では各地の主要都市が焼夷弾で焼野原になりつつあった。1944年、サイパン島上陸したアメリカ軍は、7月7日に日本軍を玉砕させる。

この時、日本人居留民約1万人も自決する。多くの婦人や子どもが崖から海に身を投げた。8月10日には、グアム島が占領され、10月20日、勢いアメリカ軍はフィリピン群島中部のレイテ島に上陸する。マリアナ諸島の基地からはB29が連日日本に来襲し、その数は多い時で500機もの大編隊で日本を焦土にしていく様は、戦争というより虐殺に値する鬼畜の振る舞いである。

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1945年硫黄島守備隊が玉砕、4月1日、沖縄本島に上陸した。6月23日、沖縄本島守備の日本軍主力が全滅した。沖縄での死者はアメリカ軍1万2520人、日本軍側の戦死者は、軍人9万4136人、沖縄県民の戦闘協力者の死者5万5246人、住民9万4754人とされている。日本軍以外の県民の死者総数は15万人に及んだ。また、地方出身兵・防衛隊員を含めると17万8228人となる。

日本軍の首脳部は本土決戦辞さずを叫び、国民に覚悟と準備を要求した。明らかに無謀な発令だが、これが全体主義的思考である。藩主が死んで追い腹という発想は日本独自のものだろう。国民の老若男女に竹槍を持たせる指導者の狂気性を、今なら笑い話ろ一笑できるが、当時にそれはない。批判すれば非国民として牢獄だ。皆が同じ色に染まることこそ美徳であった。

とはいうものの、明晰なる政府首脳は、終戦への模索を始める。サイパン玉砕後の1944年7月18日、東条内閣は閣内不一致で総辞職、7月22日、小磯国昭(陸軍大将)内閣が成立、かつて日独伊三国同盟に反対した米内光政が海軍大臣として入閣。1945年、近衛文麿は終戦を急ぐよう単独で天皇に上奏した。4月5日、小磯内閣が総辞職、4月7日、鈴木貫太郎内閣発足。

鈴木は外相東郷茂徳にソ連への和平仲介を打診させた。7月10日、最高戦争指導会議は、近衛を終戦斡旋依頼特使としてソ連派遣を決定、ソ連に伝えたが拒否の回答を得る。というのも、スターリンは2月のヤルタ会談で対独戦終了後の対日参戦を密約していた。日本政府が米英との直接交渉を避け、ソ連に仲介を求めて拘泥したことが、結果的に終戦を遅らせ犠牲を拡大した。

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