敗戦国日本がアメリカ軍によって占領された期間は、1945年8月下旬から1952年4月下旬まで実に6年8カ月の及んだ。これは外国を支配して植民地化することを当初から意図した戦争の場合とは別にして、近代の大国間における戦争の後始末としては異例ともいえる長期占領だった。なぜ、このような事態が続いたのだろうか?温故知新…、日本人なら知っておきたいことだ。
占領軍最高司令長官マッカーサーは1947年2月、米国議会へのメッセージで以下のように述べている。「歴史は軍事占領というのが一定期間以上は効果を上げ得ないことを教えている」。というように、彼は占領開始直後から一貫して早期講和論を唱えていたが、にも関わらず日本占領が長期化した理由は、以下に言われている。第一は日本の、「戦後改革の遂行」である。
アメリカは第二次大戦中から民主主義、自由主義の旗手として、これらと経済的諸制度の改革を理念的戦争の目的と掲げ、戦後は全体主義国家であった敗戦枢軸国に対し、上記の戦争目的に沿う改革を要求した。タテマエとしては、敗戦国国民の自由なる意思による、自由主義、民主主義体制を選択させるというものだが、実態と思惑は違って別の意図でなされていた。
つまり、占領軍が改革をするにあたって、それを阻害する社会主義勢力を排除し、制度変更を強制する画策であった。そもそも日本の社会主義運動は、自由民権運動からの急進的なグループからの派生であり、1920年代から30年代にかけてのマルクス主義も、多分に大正デモクラシーからの発展であった。したがって、社会主義・共産主義は、破壊と窮乏の民衆の抗議であった。
日本における人権・自由・民主主義を求める思想、政治、社会、文化運動の歴史はマルクス主義を背景にした、「戦後民主主義」のもっとも強力な追求者であった。占領政策を仕切るアメリカが日本政府に共産主義者取り締まりを強化したのは当然である。共産主義を警戒するために組織された特高警察は、明治期の、「高等警察」が発展した社会運動抑圧機関であった。
ところが、1945年8月17日、組閣を終えたばかりの東久邇宮首相は、ラジオ放送で、「今後、建設的な言論の展開を促し、健全なる結社の自由を認めたい」と語った。つまり、結社や自由は認めるが、「建設的」、「健全な」という理由をつけるという。さらに東久邇宮首相は8月27日の会見で、「特別高等警察」の行き過ぎを徹底的に改めさせると発言している。
東久邇宮内閣は、戦前に思想犯や政治犯弾圧のために制定された、治安維持法を破棄する考えを持たず、「国体の変革」、「私有財産制度の否定」を目指す運動(治安維持法によって禁止されていた)は、引き続き取り締まるとの方針を示した。東久邇宮内閣は、占領の意味を過小評価していたのは明らかで、その後に実施されることになる大改革すら予想し得なかった。
ばかりか、進駐するアメリカ軍司令部を横浜に留まらせ、「帝都(東京)」に入れないよう画策を試みたりした。GHQは、とりあえず言われるままに横浜でその仕事を始めたが、9月15日以降は皇居を目前に見る東京・日比谷の第一生命ビルに移る。占領終了までここが日本統治の独裁権力の本拠となった。9月2日、GHQは武装解除、連合国捕虜の釈放など相次いで指令を発した。
結論を言うなら東久邇宮内閣は、日本の内閣の中で最短命の54日間となっている。2位の羽田内閣より10日短い。戦後初の内閣という事でGHQから少しばかり飴をしゃぶらせてもらっていたが、舐めたら容赦しないと牙をむかれた。問題にされたのは、東久邇宮内閣の、「自由への指令」の、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」への対処である。
アメリカ人の多くは共産主義を嫌っているが、日本の、「治安維持法」が政府批判を圧殺して戦争への道を容易にしたことも理解しており、このような体制をいつまでも維持することは許されないと考えた。マッカーサーはすぐさま手を打ち10月4日、GHQは政治的・民事的・宗教的自由に対する制限の撤廃を求める、「政治警察廃止に関する覚書」を日本政府に手交した。
①天皇及び皇室に関する自由な討議を含む思想・宗教・集会・言論の自由を保障する事。
②治安維持法をはじめ、自由を奪う一連の法律・勅令。省令・命令・規則を廃止する事とし、その効力を即時停止する事。
③右の法令などによって拘禁されている人々を釈放する事。
④秘密警察や言論統制機関などの一切を禁止する事。
⑤内務大臣、警察関係首脳部、全国の思想警察及び弾圧活動に関係する官吏を罷免する事。
東久邇宮内閣はこの覚書を拒否し、翌10月5日、内閣総辞職を行った。内大臣木戸幸一は近衛文麿らと協議し、蓼原喜重郎を後任に推挙することにし、外相吉田茂を通じてGHQの了解を得た。10月9日、蓼原内閣が発足し、10月15日には、「治安維持法」などの政治犯・思想犯取り締まり法規が、「勅令」で廃止された。自由と民主主義を国是とするアメリカは日本を変革させていく。
アメリカの日本占領が長引いた第二の理由は冷戦であろう。枢軸側の敗戦国のなかでもドイツは東西に分裂されたため、戦後処理は一層困難になったが、アメリカの日本占領目的は、日本の非軍事化・民主主義化から対共産主義戦略を重点とする日本再建で、そのための対日政策として、日本自身の共産主義化の防止、極東における対共産圏戦略としての日本の位置づけである。
朝鮮戦争におけるアメリカ軍の軍事拠点としての日本の重要性は不可欠のものとなった。それらから日本の基地が自由に使用できるという条件なしに、対日講和は認められないという考えになって行く。終戦から6年後の1951年9月8日、日本と連合諸国はサンフランシスコにおいて講和条約を締結、ここに第二次世界大戦における戦争状態が終結となった。
この条約によって日本は政治および経済条項で特別の義務や責任が課せらることはなかった。また、賠償についても日本の弁済能力が不十分なことを認めて、役務賠償や連合諸国による在外資産の管理や処分を明記したものの、連合諸国は条約に特に定めがない限り賠償請求権を放棄すると規定されていた。しかし、領土問題に関してはいくつかの遺恨を残すことになった。
沖縄などの諸島は米国信託統治下とされたが、千島列島・南樺太に関しては帰属する国家を明記しなかった。講和条約にさきがけた1950年3月、対日講和の担当者に国務省顧問ダレスが就任する。6月に来日したダレスは、マッカーサーを説得して新戦略構想を提案した。これは日本全土を潜在的な軍事基地と考え、自由に使用できるようにするというものであった。
以後この構想の下に米政府の対日講和が推進されていく。またこの時期、朝鮮戦争が勃発したこともあって、ダレスは日本を同盟国としておく必要があるとしてトルーマンに対日講和を推進した。ところが、12月には中国軍介入で朝鮮戦争の戦況は米軍不利になり、ダレスは再び対日講和に反対する統合参謀本部を説得、講和を進めるも、翌1951年1月~2月再び悪化する。
在日米軍の殆どすべてを朝鮮半島に投入した場合に備えての予備兵力として、日本軍の再軍備を迫る。結果講和条約の前提条件として再軍備が決定。当時の総理大臣 吉田茂はこれを受け、警察予備隊(後の自衛隊)を発足させているが、これはマッカーサーが吉田茂に書簡で進言したもので、「民主主義社会の安全を守るために警察力の増強が必要である」と述べている。
朝鮮戦争が勃発した二週間後のことであった。日本再軍備は直接にはマッカーサーの指示で開始されたが、日本側にも再軍備の必要性を認める意見は広く存在していた。敗戦・占領と同時に旧陸海軍は武装解除され解散させられたが、日本側の関係者の大多数は、この事態は一時的なものとの認識であった。このように、占領下における武装解除から自衛隊の創設を記してみた。
今や、観念の政党といわれた社会党は消滅し、共産党に於いても自衛隊を軍隊だから憲法違反と声たかだかの声は聞かなくなった。特に北朝鮮問題が、戦争の現実味を帯びた昨今、「竹やりで戦えばいい」などという声は皆無である。観念話が好きな人は多いが、彼らが現実的な対処が苦手とするのは自明の理であって、雲を掴むような手で実態を掴むことはできない。
一発、「ドカン!」と北朝鮮の打った核爆弾が、日本や韓国の都市部やアメリカ領内の海岸部で破裂したらどうなるのだろうか?「バカに金と力を与えるなかれ」といわれるが、バカはお金を使うことしか、あるいは力を誇示することしか、他にやることはないのだろうか。今に思えば金正恩よりは父の金正日が、金正日より父の金成日の方が立派(?)に見えるのはなぜ?
三代目にして国は亡ぶという。初代の苦労を二代目は現状維持がやっと、三代目になれば先代の苦労も先々代の苦労など、どこ吹く風の勝手なふるまいで自爆であるなら、北朝鮮そのままである。未来予想図は誰にも見えないが、自国民を飢えさせる金正恩を常人でないとするなら、さらなる動向は予測できない。今となっては、アメリカもクリントン女史を選ぶべきだったか…
この際本気で軍拡しないと舐められっぱなしになる。北朝鮮のような貧乏国が国民を飢えさせてまで軍拡に走るのも、それしか生きる道がないからだが、日本は中立国ではないし、武器を持たなければ攻撃されないなど甘美な幻想だ。自国を自力で守ってこそ独立国の証しだが、憲法が障害になるというなら憲法を変えるしかない。万が一の急場は超法規的措置で対応すればいい。
昨日、北朝鮮は国際社会の意表を突くかのように核実験を行った。北朝鮮は水爆実験が成功したと報じている。これに対して、トランプ大統領は核実験後8時間、黙したままで不気味さを感じた。ようやくツイッターで投稿した内容は、「北朝鮮は、ならず者国家であり、中国にとってもやっかい者である」。これで北朝鮮の核実験への避難は、日米中ロ韓となったが…