リッジウェイの提案を受けたマッカーサーは、このままでは撤退の可能性ありとワシントンに増員派遣要請するも拒否された。ワシントンの方針に不満を抱くマッカーサーは、中国の本土爆撃も視野に原爆使用を提案する。戦線が拡大を見せる中、カナダなどは国連政治委員会に次の提案をする。①現状での即時停戦。②休戦期間中の朝鮮問題の政治的解決。
③外国軍隊の段階的撤退。④台湾問題と中国国連加盟問題の米英ソ中四か国による協議。現状国連軍は37度付近にまで後退し、ソウルは北の支配下という戦線状況のなか、上記提案は、米国にとっては屈辱的であるが、朝鮮半島での軍事行為に敗退の危険を感じていたアメリカは停戦案に同意するも、中国は国連加盟を強硬に推し進めたことで交渉は決裂した。
2月1日、国連総会は中国を侵略者とする非難決議案を採択したこともあって、国連軍は浮足立つ中朝軍の2月攻勢を撃破、3月7日に再びソウルを奪還した。わずか9カ月間にソウルの支配は4たび変わったことになる。戦いはその後も止むことなく激しさを増した。北側は大量の兵士を国連軍陣地に肉弾攻撃を展開したことで、中朝軍の死体は累々横たわっていた。
米軍は日本の基地から中朝軍陣地と補給拠点に猛爆撃を開始、主要都市を破壊する。マッカーサーは中国本土爆撃を柱とする強硬策をワシントンに要求したが、休戦を呼びかける声明文まで用意していたトルーマンと対立する。マッカーサーは、中国本土爆撃などの強硬策の必要説いた声明を日本で独断発表したことで、トルーマン声明は発表の機会を失った。
マッカーサーは、共和党議員からの書簡の返書で、トルーマン政権の政策は勝利の機会を失わせるものだと激しく非難したが、野党共和党が議会でトルーマン攻撃に使われた。1951年4月11日、トルーマンはマッカーサーを解任、後任にリッジウェイが任命された。第二次大戦後、日本の事実上の最高権力者であったマッカーサーは、4月16日に日本を離れた。
当時、米本土には共産主義への憎悪が充満していたが、対日戦の英雄でありながら反共の先鋒マッカーサーは、議会からも国民からも熱烈な歓迎を受けた。4月19日、米国上下両院合同会議に出席したマッカーサーは、「全人類の運命は党派などの方法でなく、国家の利害の最高段階によって決定されるべきものである」という冒頭の言葉から演説に入った。
最期に有名な、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の文言で締めくくった。「私はいま52年にわたる軍人生活を閉じようとしている。しかし私は若いころ兵営で友人達と歌った、『兵隊の歌』の一節をいまもよく覚えている。それは、『老兵士は静かにただ消えていく。しかし彼は永久に死ぬことがない』という意味のことを、誇らかに歌ったものであった。
この歌の老兵士と同じように、私はいま軍人生活を閉じ、ただ静かに消えていくのである。神により託された義務を果すべく努めた一老兵は、いまただ消えていくのである。諸君よ、さらばさようなら」。マッカーサーの後任となったリッジウェイは、トルーマンの意志を具現化すべく、南朝鮮防衛体制を構築したうえで、休戦交渉に持ち込むという任を負っていた。
そんな矢先、中朝軍は4月に大攻勢を仕掛ける。国連軍は40~50キロ押し返されたがソウルは守り抜く。無数の死体を置いて中朝軍は後退した。5月には東部山地で中朝軍の攻撃が再開され、国連軍は危機に陥るも応援部隊を増員して撃退する。4~5月の2か月間で中朝軍側の死者は20万人と推定されている。6月23日、ソ連のマリク国連代表が停戦交渉を呼びかけた。
6月30日、リッジウェイも金日成と中国軍を指揮する彭徳懐に休戦会談を提案し、7月1日、金日成が同意を表明。李承晩はアメリカの休戦会談提案が南朝鮮の、「頭越し」に行われたことに憤慨し、強硬に停戦交渉に反対する。李承晩の本音は、休戦後の南側の政治基盤の弱さや安全保障に不安を抱き、アメリカ軍の強硬路線による勝利を期待していた。
アメリカ側は李承晩の意に反して交渉を推進する。7月10日、開城付近で休戦会談が行われ、以下の4項目が議題となる。①軍事境界線確定と非武装地帯設置。②休戦監視機関の構成・権限・機能と休戦の具体的取り決め。③捕虜に関する取り決め。④関係諸国に対する勧告。軍事境界について国連軍側は現状維持を主張したが、北側は38度線を主張した。
現時点での接触戦を境界線とする国連軍側に北が合意した。最大の難問は捕虜問題である。国連軍側は、人権尊重のため捕虜の一人一人に自由な意思を確かめ、各人が望む国へ送るべきと主張。これに北側が反対、もとの国に全員送還すべきと主張した。公表された捕虜の数は、国連軍側の中朝合計12万2474人、中朝側の米韓その他を合わせ1万1559人であった。
1952年4月19日、北側は捕虜の自由意思にもとづく送還に同意した。ところが、個人面接の結果、中朝軍捕虜数の半数に近い6万人余りが帰国を拒否したことで、北側は母国強制送還に変更する。共産国家でのリンチや処刑などの重罰を危惧したものと思われる。1952年のアメリカ大統領選で、朝鮮休戦実現を公約に掲げた共和党のアイゼンハワーが勝利した。
アメリカ国民は当初マッカーサーの北進を支持したが、戦線膠着で犠牲が増えると早急な休戦を望んだ。1953年、ソ連のスターリンが死去。新しく首相となったマレンコフは3月15日、ソ連最高会議の演説で朝鮮紛争の平和的解決を説いた。最終段階で休戦に強く抵抗したのは李承晩だが、捕虜問題で中国が折れ、7月27日に板門店で休戦協定が調印された。
朝鮮戦争は第二次大戦後最初の大戦争である。戦闘地域は局地的だが、規模は国際的であり、兵員、兵器、弾薬の使用量や犠牲者の多さ、犠牲の大きさは世界大戦と比肩しうるものであった。休戦時の国連軍側地上兵力は、アメリカ軍30万、韓国軍59万、その他国連軍4万の合計93万と、空軍・非戦闘員などを加えた動員総数は、117万人と発表されている。
米軍戦死者3万3629人、負傷者10万3284人、捕虜・行方不明者5178人。韓国軍戦死者41万5000人、負傷・行方不明42万9000人と発表されている。米韓以外の国連軍死傷者1万7000人でうち英連邦諸国が7000人。北側は戦果は挙げるも自国側の損害を公表していない。米軍側の推定では、中国軍殺傷者数約90万、北朝鮮側のそれが約52万、合計142万とされている。
朝鮮半島の全土が戦場となり、多くの民間人が犠牲になった朝鮮戦争である。その数は正確には分からないが、韓国側の民間人犠牲者は死者・行方不明者合計76万、負傷者23万、北朝鮮側の民間人の喪失は、南への難民68万、死傷者200万人といわれ、双方合わせて凄まじい犠牲者数だが、驚くべきはこの戦争で米軍は太平洋戦争を上回る弾薬を投入している。
北側の政策決定過程を知ることはできないが、侵攻の動機はある程度の推理は可能だ。とにかく共産主義者たちは、朝鮮民族の統一を最終的には実力で達成するという戦略をもっていること。彼らの戦略によれば、戦争は侵略ではなく革命であり、内戦という考えである。「目的は手段を正当化する」という考えは正しいのか、正しくないのか。それは目的にもよろう。
マキャヴェリズムとは、どんな手段や非道徳的な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定されるという思想で、ルネサンス期の政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリの著書『君主論』の内容に由来するが、目的のためには手段を選ばないマキャヴェリズム信奉者をマキャベリストと呼ぶが、「出世のためなら他人を蹴落としてでも…」と公言する人間は何人かいた。
高度経済成長期には自己充溢や幸福を求めたモーレツ人間はいたろうし、卒業式で歌われる『仰げば尊し』にも、「身を立て、名をあげ、やよ励めよ」などと、これは立身出世を遂げろと言っている。侵略されたら戦わずに捕虜になるのか、それとも武器を手にして戦うのか。前者を無抵抗主義というなら、後者を戦争と呼ぶ。共産党の野坂参三はこんなことを言っていた。
「侵略された国が自国を奪い返すための戦争は正しい戦争だ」。歴史の現実を見れば、国家としての自衛権と必要最小限の兵備を考えるのは、国民の生命と財産を守る義務のある国家として当然であり、これを憲法において放棄し、無抵抗主義を採用するなど、無責任国家である。「正しい戦争などない」。「正当化される戦争はない」とふやけたことをいう人がいる。
「美辞麗句」が好きな人なのだろう。確かに戦争放棄条項をうたった憲法草案は理想主義によって彩られてはいるが、これが実は日本を腑抜けにするための戦略であったというのを、当時の帝国議会の議員たちはしらなかったろう。国民の多数は、戦争の惨禍を目の当たりにした直後であるだけに、そうしたプロパガンダに酔わされた部分もあったのだろう。