北朝鮮にとって韓国という国はない。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府は、自国や自民族の呼称として、「朝鮮」を用いており、韓国を主権国家として正式に承認していないため、韓国政府が実効支配している地域の名称を用いて南朝鮮と呼んでいる。一方韓国は、1948年8月13日、李承晩の大韓民国政府樹立宣言まで、自国や自民族の呼称として「朝鮮」が用いられていた。
韓国にとって敵対する北朝鮮が半島全土の呼称として、「朝鮮」を用いていることや韓国を、「南朝鮮」と呼称すること、歴史的に芳しくない日本統治時代や李氏朝鮮を想起させることを背景として、「朝鮮」という呼称が忌避される傾向にある。したがって、「朝鮮民族」、「朝鮮語」などの言葉が日常使われることはほとんどなく、「韓民族」、「韓国語」などと呼ばれている。
南朝鮮単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日、大韓民国の実効支配が及ばなかった朝鮮半島北部は金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立した。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張する分断国家は、それぞれの朝鮮統一論を掲げ、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は建国翌日の9月10日に最高人民会議の演説で、「国土完整」を訴えた。
他方大韓民国(南朝鮮)の李承晩大統領は軍事力の行使をも視野に入れた、「北進統一」を唱えた。互いを併呑しようとする両政府は1950年に勃発した朝鮮戦争によって、実際に干戈を交える事になる。朝鮮戦争とはなぜ起こったか?1950年6月25日午前4時、北朝鮮軍は韓国への全面攻撃を開始した。30分にも及ぶ一斉砲撃の後、ソ連製T34型戦車を先頭に5方面から38度線を超えた。
攻撃に先立って北朝鮮側からの外交姿勢はあった。6月7日以後、平壌放送は南北平和統一提案を繰り返し、韓国滞在中の国連臨時朝鮮委員と南朝鮮の政党指導者に、統一方式案を手交したいと述べた。国連委員会はこの提案に応じ、6月10日に38度線開城付近で北朝鮮代表から文書を受け取る。が、北の代表は南の政党指導者に直接会うと38度線を超えて韓国警察に逮捕された。
平壌放送は釈放を激しく要求したが、韓国軍は、北側代表越境事件後、不測の事態を怖れて非常警戒令を発動するも、6月23日に解除してしまった。6月25日の侵攻は緊張が続いた後の最初の日曜日で、農繁期であったことから、農村出身兵士に休暇を与えた部隊も多く、北は完全な奇襲に成功した。開戦当時の韓国軍の戦闘能力は、北朝鮮軍にはるかに及ばなかった。
地上軍兵力は北の18万2000人に対し、南は9万5千人と約半分であった。戦車車両も北側のソ連製T34型242両、装甲車54両に対し、南側は戦車ゼロ、装甲車はわずか27両であった(村上薫著『朝鮮戦争』)。ばかりか、北側の軍隊はソ連の援助と指導を受けており、十分に訓練されていた。この時南側の統治勢力の中心には、亡命先のアメリカから帰国した李承晩らが着任した。
6月25日の戦闘開始とともに韓国軍は大打撃を受けた。ソウル正面の平野部は戦車を先頭ととする北の精鋭主力部隊の強襲にあい、瞬く間に突破された。この時北朝鮮軍は、韓国政府関係者、政党人、資本家、軍人、警官、地主に至るまで逮捕し、処刑したり北へ連行した。北側との協議推進派の政治家らは政治宣伝に利用できると連れ去られたが、すべて消息不明となる。
勢いをます北朝鮮軍は、土地の無償没収を強行し、「民族反逆者」の粛清と称し多数を処刑した。韓国政府はソウルの南方に逃げ、8月18日には朝鮮半島南端の釜山に退却・移動した。アメリカ国務省に駐韓大使から北朝鮮侵攻公電を受けたアチソン国務長官から報を受けたトルーマン大統領は地元に帰省中であったが、25日夜に国家安全保障会議を召集し、次の処置を命じた。
①マッカーサーに在韓米国人を引き揚げさせる。その為に米海軍の使用を認める。
②同じくマッカーサーに、急遽韓国軍に対する武器弾薬の補給をさせる。
③第七艦隊を台湾海峡に派遣する。
というものだが、第七艦隊派遣は、中国の台湾攻撃と蒋介石政権の大陸反抗抑止のためだった。26日にマッカーサーから、「韓国軍は崩壊寸前」の報を受けたトルーマンは、2度目の国家安全保障会議を召集し、「朝鮮半島の事態は、より大規模な『ベルリン封鎖』と同じと述べ、韓国支援のために米海空軍の使用を38度線以南に限って認めることをマッカーサーに指令。
翌27日、国連安保理事会も二回目の会議を開き、「北朝鮮の武力攻撃を撃退して平和と安全を回復するため、韓国援助を加盟国に建議する」などをアメリカの提案により決議した。29日、ワシントンはソ連国境から十分に離れた北朝鮮を目標とする米海空軍のよる攻撃と米地上軍二個師団を日本から派遣することを承認したが、占領維持目的のため小規模で装備も貧弱であった。
さたには訓練不足の新兵がほとんどであったため、最初に投入された米軍部隊は、北朝鮮軍から手痛い打撃を受ける。7月7日、マッカーサーはワシントンに増援部隊を要請したが、ワシントンは、全世界に展開している米軍にはその余裕がないと応じなかった。米韓軍は朝鮮半島島南部の、「釜山橋頭堡」に追い詰められるも、第八軍司令官ウォーカー中将は死守を命じた。
「釜山橋頭堡の戦い」として歴史に残す戦闘である。ウォーカー司令官による、「死守」の厳命は、民主国家にとってあるまじき軍人と後の米国議会で批判されている。韓国全土から300万人ともいわれる避難民が釜山橋頭堡に殺到したが、それらにゲリラが混じり込み、北側が総攻撃をかけたことで民間人と兵士の区別もつかない凄惨な戦闘がこの地で繰り返された。
9月15日、マッカーサーは本国から増援を得た新編成の第十軍部隊を朝鮮半島西海岸仁川に上陸させた。遠浅で潮の干満の差の激しい海岸での上陸作戦というマッカーサーの奇策は成功、9月26日、米軍はソウルを奪還。合わせて釜山橋頭堡からウォーカー率いる第八軍が北上、退路を断たれた北朝鮮軍は崩壊に向かうが、国連軍の38度線を超える進軍を巡って意見が対立する。
イギリスには北の侵攻撃退と平和回復が国連軍の目的であり、38度線を超える追撃は止めるべきと主張した。38度線を超える北進は、ソ連や中国の介入を招き、第三次世界大戦を誘発する危険も大きいとの理由で、アメリカ政府内部にも慎重論があったが、強硬派は慎重論を無視した。総司令官マッカーサーの頭には、満州を爆撃してもソ連は参戦しないという考えがあった。
当時アメリカ国民の大多数は、国家の威信にかけて北を徹底的に叩きのめすべきで、北を温存すれば再び侵略は繰り返されると考えた。北朝鮮軍は壊滅状態にあり、一気に北進することで朝鮮統一は容易な情勢であった。9月27日、トルーマンはマッカーサーに北進を許可するも、陸海空軍ともに満州・ソ連との国境を超えないこと、国境地帯では韓国軍以外は使わぬ条件とした。
10月7日、国連総会が、「朝鮮全土の安全確保と統一朝鮮民主国家樹立」のための国連軍北進を承認、米軍も38度線を超えた。トルーマンはしばしばワシントンの指示を無視するマッカーサーを牽制目的で、10月14日、ウェーク島でマッカーサーと会談した。その席でマッカーサーは中国とソ連の介入はあり得ないと自論を主張した。勢い国連軍は、10月20日に平壌を占領した。
マッカーサーは韓国軍だけでは弱体と読み、米韓全軍を鴨緑江を進撃させた。この頃中国では、「抗米援朝」キャンペーンが展開され、10月1日、周恩来首相は中国建国一周年の国慶節に北京駐在インド大使に、「米軍が38度線を超えれば中国は戦争に介入するが、韓国軍だけなら派兵しない」と語った。この警告はインド政府からワシントンにも伝えられたが無視された。
10月25日、韓国軍部隊が正体不明の軍隊に包囲されて大打撃を受ける事件があった。さらには各地で米韓軍が強敵に遭遇したが、これは中国軍の大挙介入であることが判明した。名目は「義勇軍」だが、当初は林彪率いる精鋭部隊の参戦に、国連軍は壊滅寸前の大苦戦を強いられ、敗走を余儀なくされる。退却する国連軍に乗じて多数の民衆が南へ移動し始めた。
中国軍介入と米軍史上始まって以来の大敗走は、ワシントンに衝撃を与えた。11月30日、トルーマンは、「原爆使用も辞さない」と発言して同盟国を驚かせた。12月初旬、英首相アトリーはワシントンに飛び、トルーマンと会談し、「戦争を朝鮮半島に局限する」原則を改めて確認した。12月14日、国連総会は、インド、イラン、カナダの三国による停戦三人委員会を決議。
三人委員会は、台湾問題討議のため国連安保理事会の招聘でニューヨークに来た中国代表と接触、「現状での停戦」を打診した。「現状」を意味するものは、この時すでに国連軍は38度線まで後退しているという、「現状」を指す。中国は、①外国軍隊の即時完全撤退、②アメリカ軍の台湾からの撤退、③中国の国連加盟という厳しい条件を示したことで、停戦は遠のいた。
国連軍を指揮していた第八軍司令官ウォーカーが、12月23日に車両事故で死亡し、後任に第二次大戦中イタリア戦線で名をあげたリッジウェイ中将が任命されたが、中朝軍は、翌年1月1日、38度線を超えて南進し、ソウルを再占領した。リッジウェイは国連軍の士気高揚と防衛線構築に傾注するも、南朝鮮防衛は困難と判断、日本への撤退計画を内密にマッカーサーに提案した。