遅寝・遅起きは若さの特権か。気づけば日付を超えて、2時、3時でも目はらんらんとしていたし、床に入れば火事で身が燃えても目が覚めないくらいの爆睡である。朝はといえば、たとえ1分、1秒たりとて長く床に入っているなど、人の「若い」というエネルギーは、何をも怖れぬバイタリティを感じる。『若いってすばらしい』という歌は若さの息吹に溢れている。
年をとると早起きは苦痛でなくなるどことか、6時には当たり前に目が覚めてしまう。自分が年齢を感じる一番の点が早起きだろうか。かつて遅刻王と自負(?)した頃が嘘のような早起きだが、通常言われる老人の早起きの要因は、加齢とともに必要睡眠量が減少することにあるという。つまり、眠りを維持する力が低下するようになり、早朝覚醒が起こりやすくなる。
ということで、日中が暑い夏場の早朝ウォーキングは心地いい。今日もカンカン日照りだが、早朝ウォーキングで汗をかき、脳内に酸素を沢山含んだ血液を循環させながら、いろいろなことを考える。この世には賢者と愚者しかいないが、賢者でなければ愚者、愚者でなければ賢者というわけではない。どちらにも組せぬ中庸なる人間がもっとも多いのではないか。
しかし、中庸なる人間は賢者にもなれるが愚者の素質もある。何をもって賢者、何をもって愚者というのか。ディランは、いかなる答えも吹かれる風の中にあるという。人類全体に向かって訴える彼の言葉。「blowin’in the wind」の和訳は、「風に吹かれている」と直訳されるが、いろいろ解釈は可能だ。この部分の和訳の解釈一つで、歌の意味はだいぶ変わってくる。
「神のみぞ知る」という意味あいか、それとも、「すぐそこにあるのに…」 といった意味あいなのか。せめて、「答えは風の中にある」というなら、身近に感じられるが、風に吹かれて飛んでいってしまうという意味あいにも受け取れる。「近くにあるのに、手にすることができないもどかしさ…」。(正しい答え)というものは、そうしたもどかしいものなのかも知れない。
Yes, and how many times must a man look up
人は何度見上げれば
人は何度見上げれば
Before he can see the sky?
空を見ることができるのだろう
空を見ることができるのだろう
Yes, and how many ears must one man have
人はどれくらいの耳があれば
人はどれくらいの耳があれば
Before he can hear people cry?
人々の悲しみが聞こえるのだろう
人々の悲しみが聞こえるのだろう
Yes, and how many deaths will it take 'till he knows
どれくらいの人が死ねば
どれくらいの人が死ねば
That too many people have died?
あまりに多くの人々が死んだことに気づくのだろう
あまりに多くの人々が死んだことに気づくのだろう
Yes, and how many times must the cannon balls fly
どれだけの砲弾が飛び交えば
どれだけの砲弾が飛び交えば
Before they're forever banned?
撃つことを止めることができるのだろう
撃つことを止めることができるのだろう
The answer, my friend, is blowin' in the wind
友よ 「答え」は風に吹かれている
友よ 「答え」は風に吹かれている
The answer is blowin' in the wind
「答え」は風に吹かれている
「答え」は風に吹かれている
「砲弾は…」、「どれだけ死ねば…」の言葉にみる、戦争への嘆き。いつの世も戦争をしたい人は現れる。ディランのそういう嘆きである。彼自身が、その答えを提示できないのは、人間の多様さ、複雑さに、時代背景という要因がある。それがディランをして、「答えはとどまらない」、「常に風に吹かれて流れている」としたのだろうか。平和は簡単なことなのにそうもいかない。
今や、砲弾が数百メートル飛ぶ時代ではない。パックした火薬を数千キロもロケットで飛ばすことができる。関ケ原合戦も、ワーテルローの戦いも、上から重爆撃機による爆弾攻撃で瞬時に片が付うてしまう、恐ろしい時代となった。重火器を持った人間など、所詮は残務整理に駆り出されるようなもの。そういう都市破壊戦争を北朝鮮は、そしてアメリカはやろうとするのか?
詩人は詩人、政治家は政治家。ノーベル賞詩人が何を言おうと、聞く耳持たぬ政治家は、なにゆえに戦争をしたいのか、戦争を起こさんと待ち構えているようだ。昨日、麻生副総理のヒトラー発言が飛び出し、即刻謝罪したが、以前にも憲法改正論をめぐって、以下のような発言をした。「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。
誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうか」。この発言には米国のユダヤ人人権団体、「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が批判声明を出したほか、中国、韓国両外務省も批判するコメントを発表。ドイツ紙ツァイト(電子版)も、「ナチス時代を肯定的にとらえる発言をして、国際的な怒りを買った」と報じるなど、海外にも波紋が広がった。
昨日の発言は自身が率いる自民党麻生派(志公会)の研修会でのこと。「(政治家に)動機は問わない。結果が大事だ。いくら動機が正しくても何百万人殺しちゃったヒトラーはやっぱり駄目だ」とした。麻生氏は、『我が闘争』に影響を受けた隠れヒトラーフリークではないか?発言の是非よりも潜在的なヒトラー崇拝がなくて、こういう言葉が出るとは思わない。
開戦後のヒトラーのことはともかく、彼の開戦動機は将校たちに語った以下の言葉である。「血を流すことなくこれ以上の成果をあげることはできぬ。ダンツィヒが当面の目標ではない。我々の関心は東方における生存権の拡大であり、食糧の確保である。つまりポーランドに攻撃を加える決心をするだけのことである。この際、正義、不正、条約など、どうでもいい」。
戦争はそうした国際間の縛りを解くことで始められる。ナチスドイツは、「独ソ不可侵条約」を破ってソ連への侵攻を開始したが、この条約の実態は、ヒトラーのポーランド侵攻を可能にするためであった。なぜなら、「独ソ不可侵条約」の秘密の付属議定書には、占領目前のポーランド分割についての規定が記されており、当時のソ連指導者はこのことを承知していた。
ソ連もまた、「日ソ不可侵条約」を反故にし、日本のポツダム宣言受諾後も侵攻を行った。日本は表向きソ連を非難をするが、実は、「日ソ中立条約締結」からわずか3ヶ月の時点で、明白な条約違反を承知のうえで対ソ戦準備を進めていた。第二次世界大戦は、ドイツのポーランド侵攻に始まり、そのことを可能にしたのが、「独ソ条約」であるなどは、歴史の事実である。
ヴァイツゼッガー前大統領は、1985年5月8日のドイツ降伏の日、戦後40年記念スピーチを行っている。「この戦いの間、多くの民族がナチズム統治の下に苦しみ、汚辱にまみれた。苦しめられ、隷属させられ、汚辱にまみれた民族が最後に一つだけ残った。それがドイツ民族である」という表現で、ナチズムの最大の被害者はドイツ民族であると述べている。
「この戦いに勝利を収める力のないドイツ民族など、滅びてしまうがいい」と鼓舞したヒトラーの発言を拠り所に、ドイツ民族はヒトラーの犠牲となったが、その前に他民族をも犠牲にしたという論法で、あえて、ドイツ人=加害者という言い方をしない。ヴァイツゼッガー前大統領は、1995年8月、戦後50年記念の年に来日し、「ドイツと日本の戦後50年」と題して講演した。
NHKはこの講演を数度にわたって放映し、自分も録画をしていたが、全てのビデオテープは湿気とカビで破棄してしまった。ヴァイツゼッガー講演の要旨は、十数年に及ぶナチスの支配は、ドイツの長い歴史における、「異常な一時期」だが、日本の歴史には戦前から戦後にかけて連続性があるとし、ドイツ史には断絶があるが、日本史にはそれがないと比較をした。
ナチスドイツというのは、歴史上においてかつてない党主導による独裁国家であり、いわばテロ国家とも、全体主義的革命国家という側面もあった。これは日本の軍国主義とは事を異にするもので、日本がナチスのようなテロ国家にならずに済んだのは、天皇制があったからではないか。いかに常軌を逸した人間であれ、軍部の暴発であれ、天皇の権威には逆らえない。
確かに戦前、戦後において天皇が統治する日本の歴史には連続性がある。これが日本とドイツの体制の質的相違であるのは事実である。ヴァイツゼッガーは戦後40年スピーチで5月8日のいわゆる終戦記念日を、「ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制から、ドイツ民族が解放された記念すべき日」という表現をしたが、これは上手い言葉のレトリックである。
ドイツは好まざる悪魔に12年間だけ支配されるにいたったが、それ以前のドイツ史にも以後のドイツ史にも悪魔はいない。ポーランドやフランスがこのナチスという悪魔から解放されたと同じように、1945年5月8日をもってドイツも悪魔から解放されたのだった。この日を境に綺麗さっぱり浄化をされたと言わんばかりの含みを臆面なく述べるヴァイツゼッガーである。
天皇制という日本の歴史の連続性は非難するが、ドイツは戦後にナチスから解放された民主国家になったが、日本は飛躍的な経済発展が多少の制度変革はあったにせよ、いまだに天皇制などの古い体制を引きずっているという言辞は、招かれた国にたいしてあまりに厚顔無恥といえるが、ヨイショも愛想もしないところが、いかにも実直ドイツ人らしいといえる。
同じ敗戦国でありながら、日本とドイツをこのような比較で論じるドイツ人というのも、厚顔無恥といわざるをえない。ドイツ国民がヒトラーを信奉していたのはどこ吹く風、そうした過去には一切言及せず、ヒトラーが悪の枢軸とならば踵を返し、ナチズムという暴力集団に歴史が占領されたドイツは被害者であると。まあ、それが国家、国家利益というものだ。
日本人政治家はそこまで頭が回らないバカが多すぎるとしか言いようがない。米国の正義と善意を信奉し、主人に従順なるポチが如く使い走りに勤しむ。「米国は日本のために有難い何かを言ってくれる、してくれる、だから日本は米国に譲歩すべきである」という依存が根本にある。譲歩が悪い、妥協がよくないではなく、国家意思がないところが問題なりきかと…