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「人の噂も75日」。メデタイ日本人

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国会議員や県議、市議、自治体の首長になるための国家試験のような筆記試験も実技試験はない。よって、誰でも選挙に当選すれば政治家という肩書がつく。元ヤクザであれ、プロレスラーであれ、落語家であれ、寺の坊主であれ、前職が政治に関係なくとも選挙に受かってバッヂをつけたらその日から政治家である。元アイドルグループ今井絵理子も政治家である。

今井絵理子は本当に政治家なのか?自分はそうは思わない。志がなくとも立候補はでき、選挙で票を集めれば議員にはなれるが、それだけで政治家といえない。銀行員と銀行家が違うように、議員と政治家も違うだろう。今井のことは歌手であったことくらいを週刊誌の記事で知る程度だが、一連の騒動で今井をよく知る地元沖縄のある人物から痛烈に批判された。

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その人物とは、SPEEDデビュー前の今井を親身になって面倒を見たり、歌や踊りのレッスンをした、「沖縄アクターズスクール」のマキノ社長である。同社長は、今回の不倫騒動を厳しく断罪し、国会議員としての彼女の資質にダメだしするなどした。マキノ氏はいう。「今井は子どもの頃は、良い子でがんばり屋で、強い意志をもっていましたが、勉強を怠った子です」。

勉強嫌いで芸能人になる人間は山ほどいるから、それはそれでいいにしても、政治家となるとそうもいかない。ただし、どんなバカでも国会議員資格試験がないから議員になることに不利とならない。マキノ氏はそういうことではなく、「自分でモノを考えて、他人のために尽くす。そういう点で今井は国会議員になるレベルじゃない。人気だけで選ばれた子です」という。

こんなことはマキノ氏が言わずとも誰もが思うこと、あえて身内に近い人の批判発言は、今井に辞職を迫ったものだろう。これまでのケースから考えても、このような不倫スキャンダルで党のイメージを失墜された議員は、離党や辞職勧告を受けてもおかしくないが、今井にお咎めがないのは政権への逆風続きという党内事情から、問題にしたくないという本音が見える。

「一線を越えてません」で世間を納得させられるなど、子ども騙しにも程があるが、女性ということでもあり、今井が党内における客寄せパンダの1年生議員であるからだろうと永田町関係者はいう。鎮静化するのを待てば、このような人物を党公認で立候補させた執行部の責任も免れる。よって、何かあると雲隠れしたり、病院に行く議員たちだが、マキノ氏は続ける。

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「(議員辞職について)僕があれこれいう必要はないが、今井に政治の世界は無理だというのは誰もが分かっている。今まで多くの議員が不倫で名を汚したが、あそこまで無防備な議員はいないでしょう。彼女のそうした恋愛体質が芸能界にいて、よくバレなかったよね。それが不思議でならない」と述べる。マキノ氏が自身でスカウトしたのは安室奈美恵だけだという。

「今井は10歳のころ、ちびっ子のど自慢で活躍していた安室を見て、なんてすごい子なんだろうという憧れを持ってスクールに入って来た子ですが、安室でもSPEEDの他のメンバーでも政治家は無理です」とマキノ氏はいうが、今井が仮に芸能界に戻ってきたとしても、「あの子はプロダクションと曲の力で売れただけ、大衆の評価のレベルではやっていけない」と念を押す。

今井は26日雲隠れから約一カ月ぶりに公務に復帰したが、自民党の部会終了後にマスコミの質問にはだんまりを貫いた。少しの間の風当たりを凌げば数年間は税金で食っていけると踏んでいるのだろう。辞職というのは党の執行部が勧告しない限り安泰でいられる。仮に本人が辞職を希望しても、執行部の判断に従うものだが、組織の力学とは個人の倫理観より優先する。

もっとも今井にそうした倫理観はなかろう。今では珍しくないタレント候補だが、タレント議員第一号は1946年、戦後初の衆議院議員選挙に東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松と言われている。ただし当時は芸能人等を指して、「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中、「芸能人代議士」と形容されていた。

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その後、NHKの「私の秘密」にレギュラー回答者として出演していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際、「タレント議員」という呼称が初めて使われた。さらに、1974年参議院選挙で全国区から出馬した女優でテレビタレントの山東昭子は、日立グループからの全面支援を受けて当選した。

続いて、NHKアナウンサーの宮田輝、同じく高橋圭三らが参議院全国区で高得票で当選することで、参議院は、「芸能院」と揶揄された。石原慎太郎が1971年に東京都知事の推薦候補として名が挙がったとき、参議院全国区ならともかく、彼は首都の知事に相応しくないと自民党から共産党に至る政治家は口々に、「彼はタレントではないか」と見下した発言をした。

有力な都議会議員さえも、「日本の首都でおふざけ選挙はすべきでない」と述べ、多くの議員もまた、「何百万票集めたところで、それらはタレント人気の票ではないか」と、そんな時代であった。これに意を唱えたのが当時早大教授だった加藤諦三である。彼は、「こんな政治家の発言は許されるべきでないし、これほど東京都民をバカにした発言はない」と批判した。

「自らの票は政治を分かった人の票であるが、タレントの票はそうではないといいたいようだが、金や血縁や義理で集めた票が、タレント票より良質だなどは断じてあり得ない」と加藤氏。民主主義社会が選挙によって代表者を選び、その代表者によって政治を行う限り、その選挙民をバカにしていたのでは政治家は勤まらないと、石原氏の都知事立候補を擁護した。

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誰が出ようが、誰に投票しようが、それが民主主義であり、批判はすべきでないとの主張である。そもそも民主主義とは、一人一人の人間に同じ一票を与えようとする、そのことに意味がある。もっとも40年以上も前のことで、10年ひと昔というように、時代は流れ、変わって行く。加藤氏が友人石原氏を擁護するのは分かるが、参議院なら誰でもいいという事でもないだろう。

指原莉乃でも自民党は公認するだろうか?民主主義の最大の欠点は衆愚政治に陥りやすい危険性を孕んでいる。知的訓練を受けていない有権者が、有能でないものをリーダーに選んだところで民主主義である。小説家の石原慎太郎はタレントに属するが、タレント票で都政はマズイという当時の風評に異を唱えた加藤氏であるが、今井絵理子を容認するとは思えない。

自分はこう考える。誰が出るにしても、結局は本人の志と努力とやる気の問題である。執行部が誰を推薦するのも構わないが、当選した議員には勉強会に参加させるなどして責任を取るべきで、これすらなく、議員の不倫や汚職ばかりが表沙汰になっては、公務の廉潔がなりたたない。政治家の出処進退は個人の決断というが、言葉の裏には公認という責任逃れが見える。

自分党が今井に辞職勧告をしないのは、先に述べた客寄せパンダであるからで、それこそ国民を舐めたものだろう。マスコミも自民党と裏で結託してか、矛先を不倫相手の橋本市議に変えて今井議員の鎮静化を図っているようだ。ジャーナリズムとは権力の監視であるが、その点において、日本にジャーナリズムはない。文春も新潮も部数を伸ばすだけの三流誌となった。

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橋本市議のついた嘘は羞恥は超えている。穴があったら入りたいという気持ちだろうが、今や今井の穴は蓋をされ、二人は仲は終焉模様。常々思うが人間の謝罪というのは屁にも劣る。自分が謝罪を信じないのは、真実を提示しない謝罪の一体どこが謝罪であるか。ほとんどは嘘の謝罪である。本当の謝罪とは、先ずは真実を正直に述べる。それで頭をさげるなら分かる。

謝罪の言葉はなくとも真実を述べることで、迷惑をかけた相手に誠実に向き合うこと。それが本当の謝罪である。後は一切を相手に委ねる。したがって、真実を述べない謝罪は嘘の謝罪である。相手を騙し、それが謝罪といえるのか?臭い芝居をしているだけだろ。今井を立候補時から応援した山東昭子は、今井が、「離党でも辞職でも…」と号泣したとマスコミに公表した。

自分を支持してくれる相手に、「離党でも辞職でも…」といったところで、「さっさと辞めろ」といわれることもない。その上での泣きの演技は、女のしたたかさという他ない。人間は卑怯でズルく虫のいい生き物である。それでも、人の嘘八百の謝罪に同情し、許し、共感する人間がいる限り、人には都合という恩典が与えられる。日本人は、「水に流す」というのを好むようだ。

如何に怠け者でも謝罪をしたら許してやれとなる。嘘の謝罪の怠け者を許すとどうなるかも考えないヒトの良さ、無責任さで、「水に流せ」というように、日本人にとって美徳であるようだ。だからか、罪を犯すなりした人間は、少しの間病院に逃げ込んだり、雲隠れしたり、じっとしていれば収まると見切っている。こういうところに、日本人の真摯な謝罪というものが生まれない。

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