新潟市の女性が約2億2000万円をだまし取られる特殊詐欺事件があった。新潟県内の特殊詐欺事件としては過去最高の被害額。被害にあったのは新潟市に住む70歳代の女性。警察によると去年12月、「個人情報センター」を名乗る男から「個人情報が流出した」という電話があり、混乱した女性は相手の求めに応じてキャッシュカード12枚を渡し、暗証番号を教えた。
口座からは約2億2440万円が引き出され、これは新潟県内の特殊詐欺事件としては過去最高の被害額という。手口は、「個人情報が流出した」を被害者が真に受けたもので、想像するに、「個人情報が流出したことで暗証番号が洩れました。預金を引き出される可能性があるので、早急に引き出して当方で管理致します」という感じだったのでは?被害者はまさか虚偽とは思っていない。
だから、一日でも早く対処しなければ預金を引き出されてしまう。と、そのことで頭がいっぱいになったのだろう。なぜ、そんなことを信じたのかなどはもはや愚問だ。信じたのだから後の一切は預金の防御策ということになる。他人が被害者をどう罵ろうと、本人が残念がっているだろう。バカだのアホだの言ってみても何の足しにもならんし、同情とて同じこと。
それでも同情したいなら被害者にお金をあげた方がいい。詐欺というのは引っかかる時は嘘だと思っていないし、だから引っかかる。釣り糸から垂れるエサと同じで、魚はまさかである。人間も魚を騙すが、魚も騙してエサを捕まえる。これはあらゆる生物の進化的な話であり、他者を騙すというのは自己利益で生きるための手段であるが、人間社会も生きるために人を騙す。
粗悪品を良品、外国産を国内産、農薬まみれの食品、この程度の嘘はまだしも、他人の金品を騙し取ることもあり、それには防御策を講じるしか手立てはない。「この世は嘘と真実でできている」といった。確かに人の言葉は嘘か真実かで、中間というものはないが、人間は知能が高いゆえ、嘘とも真実とも言えぬ紛らわしい嘘もつくし、どちらを信じるかを相手に委ねる。
「人はなぜ騙されるのか?」について問えば、いろいろな返答が予想されるだろうが、手品やマジックは人を騙すためのもので、あれは騙して感激される嘘である。手先の器用さや素早さといったテクニックもあるが、マジックには必ず騙すための仕掛けがある。詐欺師が人を騙すのも仕掛けが必要だろうが、何の仕掛けもナシに言葉だけで騙したりの場合もある。
仕掛けのある詐欺で騙されるのは、仕掛けの存在に気づいてない場合であり、人には二種類いる。疑い深い人と、すぐに信じる人であり、中間はなくとも、どちらかには決められないが、どちらかの傾向性を示す人はいる。人は何かを信じないで生きることはできない弱い生き物だ。ゆえに宗教も生まれ、我々は信じるものに従って生きる。人は何を信じるかで人生は変わるだろう。
・いいといわれたものだけを信じる人。
・ダメといわれたものを信じる人。
・悪いといわれたものでも信じようとする人。
こうした前提で世の中を眺めて生きている。「あいつは悪いやつだ」と人から耳打ちされて信じる人もいる。全面的に信じなくとも、不安で気にする人はいる。所詮は人の見方で、自分の視点とは違うと意に介さない人もいる。自分はそのタイプで、これは経験的にも確証を得た。「いい」、「悪い」は人の事情であり、感性であって、他人のいう、「悪い」は自分に当てはまらない。
「先人の教え」についても言える。ネガティブな先人はこのようにいう。「おれたちがどんなに努力してもダメだったんだ。だから絶対に〇〇はやらない方がいい」。それにに対して、ポジティブな先人はこういうだろう。「おれたちが何度トライしてもダメだった。何とかお前たちがやってみせてくれ」。同じ、「先人」とはいえ、この違いである。よって人を、「先人」でくくることはできない。
「あの娘とは付き合わない方がいいわよ」などという女にしばしば出会うが、間違いなく利害関係がある。他人の利害関係を押し付けるなといいたいが、自分でみてよければ、「いい女」である。「あの男は気をつけろよ。すぐに金を貸してくれというから…」というのもあった。そんな忠告は無用で、貸したくないなら断ればいいが、断れない奴がそのように言ってるに過ぎない。
自分ができないから人もできないだろうと人は考えるものだ。大人の世界に余計な節介は無用。いろんな人間と付き合うことでいろんな体験をする。人間の育つ環境というのは、それぞれの家庭によって大きく異なるし、他人と付き合うだけで異文化体験である。日本の多くの家庭には必ず箸と茶碗は自分専用がある。習慣なのか、会社にも自分専用のコップや湯飲みを置く。
外国には自分専用の皿もフォークもないが、自分専用の湯飲みや箸や茶碗があるのは良し悪しである。若いころにこういうことがあった。彼女が二人のマグカップを買おうと提案してきた。買ったことで自他用を決めていたが、自分は区別も拘りもなく、フランクにどちらも使う。ある日彼女が、「私のカップ使ったでしょう。何で私のを使うの?自分のがあるでしょう?」という。
いわれて気づいたが、「それが何なんだ」と感じた。何も言わない女に比べて、ここまで細かく線引きしている女をうっとうしいと感じた。やはりというか、こういうタイプは一事が万事であった。どうしてここまでなるのかを想像をしてみた。茶碗が決められている家庭で年頃の娘に、「お父さんの茶碗で食べなさい」といったとする。おそらく、「いやだ」というだろう。決められているからである。
父がその理由を聞くと、「だって、汚いもん」というかも知れない。あくまで想像だがあり得る理由だ。「パパのパンツと一緒に洗うの止めて!」そんなことが社会問題化したこともあった。文化の違いというなら、自分専用の皿やフォークのない帰国子女にはあり得ない話で、文化だけの問題というよりも、父が家庭で虐げられ、粗大ゴミ扱いされているからではないか?
粗大ゴミ扱いするのは言わずと知れた妻、そういうものが以心伝心子どもに伝わる。家庭内の問題は、妻(母親)が主導権を持つことが多く、思慮の乏しき女はよい家庭環境をつくれないのではないか?夫唱婦随の時代から対等な時代に移行したのは、良きこともある反面、父親の威厳が喪失したとも言われている。夫婦不協和の原因は、互いの短所のあげつらいだろう。
「隣の花は赤い」という諺があるが、これはある意味正しく、ある意味間違っている。というのは、我々は自分の選んだ花の方を、隣の花より赤いと思い込もうとするが、「人間は自分の選んだものをよく見ようとする」というのは心理学傾向にいわれている。結婚数年後の夫の欠点というのは、恋愛から結婚に移行した自分の判断と矛盾していることに気づかずに虐げる。
こんなことがあっていいものかと思うが、現実には各人各所に存在する。夫は夫で不作の妻に後悔はするも、心に押しとどめている。浮気や不倫は人間が新しい物好きなゆえに、必然的に起こることだが、それを抑止するのは愛情であったり、理性であったり、あるいは恐怖であったりする。ならばカミさんが怖いという恐妻家は浮気をしないのか?そんなことはない。
なぜなら、隣の花は赤く見えるというように、恐妻ならなおのこと他の女はよく見えるだろう。浮気の要因は複合的な場合も多く、たとえば二人で協調し合えば互いが得になるのに、ある場面においてどちらか裏切った方が、もっと得をする場面において人は裏切り合い、共倒れの結果を招いたりする。折角口説いた女、相手も了承を得た。そのとき頭の中に嫁の顔はない。
どんなに怖い嫁であれ、いや、怖い嫁であるからこそ消したくもなろう。話を戻そう。「"自分だけは詐欺なんかに引っかからない"と思っている人ほど騙されやすい」と、悪徳商法の被害者心理に詳しいある大学教授はいう。それを証明するかのように、内閣府が’16年に行った世論調査では、「自分は被害に遭わないと思う」と答えた人の割合は80・7%と高い。
大学教授が言おうが、内閣府の調査であろうが、自分には納得できない。そもそも世論調査で、「自分は被害に遭わないと思う」という数字が多いのは当たり前で、「自分は被害に遭うと思う」などという呑気な人間いるのか?いても少数だろうが、不安の要因は何だろう?外に出て交通事故にあうかもとか、飛行機に乗る前に落ちるかもとか、そういう一抹の不安だろうか?
「自分は被害に遭わないと思う」と答えた人の割合は80・7%であるからといって、「"自分だけは詐欺なんかに引っかからない"と思っている人ほど騙されやすい」というのは論理の飛躍というもので、こんなデータは信じない。自分は詐欺に引っかからないと思うから気持ちが緩んで詐欺にあいやすい、引っかかるを懸念する人は用心深いから詐欺にかかりにくい。
いかにも取って付けたかの論理で、詐欺に絶対に引っかからないと思っている自分は、「あなたは危ないです」などと、寝ぼけたことを言うなである。引っかからないのは、見ず知らずの人間の出まかせを信じないからで、信用や信頼というのは軽いものではなく、同様に「責任」も重い。したがって、信用、信頼、責任をそのように感じていたら詐欺とは無縁だろう。
電話の相手が何を名乗り何を語ろうが、見ず知らずの相手を信用・信頼するのが軽率。奴らはあらゆる手立てで信用させようとするが、神とてそうであるように、信じる前には疑う。本当に信じたいなら、まずは疑う。この被害者は身内は?いても信頼できないのか?数億の財産すべてを自分名義で分散というのも、事情は分からないが資産管理に問題はなかったのか?