誤解を招く言い方だが(という前置きの要不要はともかく)、日本人の頭の悪さの要因はどこにあるのだろうか?ノーベル賞を授与された日本人も沢山いるではないか?彼らは頭のいい人たちでは?といわれれば、もちろんバカにノーベル賞が取れるものではないが、科学者というのはそれ以上に地道な研究態度が評価されることになる。頭が良くても情熱がなければただの人。
「天才とは99%の努力」といったエジソンの言葉を思い出すが、寝食を忘れて本当に努力した人にとって天才の称号など、「そんなもん要らん」となるのだろう。井上陽水の歌詞に、「いつかノーベル賞でももらうつもりでガンバッてるんじゃないか」というのがある。フォークソングの歌詞にノーベル賞は驚いたが、陽水の歌詞に深い意味はない事は知られている。
この曲の冒頭は、「窓の外ではリンゴ売り、声をからしてリンゴ売り、きっと誰かがふざけて、リンゴ売りのまねをしているだけなんだろ」ではじまる。誰がふざけてリンゴ売りのまねなんかするだろうか?意味など不要、何でもいいから曲に歌詞がついていればいいという陽水の着想のようだが、素晴らしくも深遠な歌詞でノーベル賞を獲ったボブ・ディランとは違う。
別に陽水を批判しているわけではないが、ミュージシャンの楽曲の歌詞がノーベル賞というのは、歌詞が文学として認められたということになる。これはディランの才能もさることながら、手を抜くことなくひたむきに楽曲に取り組んだことも評価されたのだろう。ディランは晩餐会のスピーチ原稿に、「信じられない。素晴らしい、夢にも思わなかった」の一文を寄せた。
ノーベル文学賞選考委員であるソーダトン大学教授サラ・ダニアス氏は、「ディラン氏は賞にふさわしい人で、それでこの賞を獲ったのです。英語文化の伝統の中でも偉大な詩人です」と語っている。しかしディランの受賞に対して、欧米では是非をめぐる議論が巻き起こっているという。特に疑問の声を上げているのは、文学を本業としている小説家たちであるという。
ある小説家は、「ノスタルジー優先の良くない受賞だ」とし、別の小説家は、「だったら私でもグラミーもらえるのかしら?」と皮肉った。ミュージシャンの書く詩、つまり『歌詞』を文学とされてしまうことに、文筆家を本業とする彼らが違和感を抱くのは分からぬでもない。が、あるイギリスの詩人は、「最も良い言葉が最も良い順序で配列されている」と称賛した。
ニューヨークタイムズは、「音楽界の象徴というべきディランの受賞により、賞に新しい文化的価値を加え、若い世代に身近に感じてもらいたかたのでは」というスウェーデン・アカデミーの狙いを分析した。ディランの代表作に『風に吹かれて』がある。当時のレコードには訳詞がなく、辞書を片手に必死で詩の意味を探ったが、ビートルズの愛や恋の楽曲とは異質であった。
『時代は変わる』の歌詞にもどれほど勇気とパワーをもらったことか。中島みゆきにも『時代』という楽曲があり、♪ 時代はめぐると似た内容であるが、比べる必要はないけれども、チープであるのは否めない。ディランの頭が明晰で、陽水やみゆきがバカという事ではなく、彼らにも深遠な歌詞はあるだろう。が、ディランのノーベル賞には頷かざるを得ない。
日本人の頭の悪さを感じるのは、日本人である自分が日本人を見聞きして感じるのではなく、西洋人の話の内容や語彙などから、日本人とは思考回路が大きく違うのを感じさせられる。例えば日本人コメディアンで代表的な人物は誰であろうか? 志村けん、萩本欽一、ビートたけし、古いところでは三木のり平や森繁久彌、植木等、小松政夫、伊東四朗などが浮かぶ。
イギリスにモンテ・パイソンというコメディグループがある。ケンブリッジ大学、オックスフォード大学のコメディサークル出身者が、知的で皮肉と痴性あふれる不条理な芸風で人気を博した。片や、アメリカにジョージ・カーリンというコメディアンがいた。彼は自国アメリカの政治・経済や社会を痛烈に、しかも汚い言葉で批判することで人気を得たが、2008年に他界した。
知らない人もいるだろうが、YouTubeに彼の映像がある。これを見ると、日本のコメディアンがいかにチープで中身も内容もないのが分かろう。カーリンもバカを言うが、彼のようにバカを演じる理性は日本のコメディアンにはない。近年はコメディアンからコメンテータに鞍替えする芸人が多く、我々は元バカ芸人から、バカ発言を聞かされているということになるのだろう。
あくまでカーリンと比較してのことなので他意はない。しかし、日本人でカーリンのようなユーモアとペーソスに溢れ、しかも個性的で観衆を魅了させる芸人が、これまでもこの先も育つ土壌はあるのか?カーリンが冒頭に指摘するように、学校教育の問題が大きい。右向け右と言わんばかりの号令で、同じ種類の人間ばかりを造ろうとする日本の初等教育の使命である。
アメリカは違うだろうと思いきや、学校教育をはじめとするこの国の真のオーナーとは、巨大に富んだ商業利権のオーナーたちだという。彼らがもっとも忌避するのは、情報に通じ、教養もあり、批評的な思考回路を持つ市民たちだと、まさにカーリン自身を名指ししているかのようだ。企業の利益に媚びるな、反する人間であれと、後人を発奮・扇動させるような物言いをする。
数日前、雪印食品を廃社に追い込んだ西宮冷蔵の告発を取り上げたが、社長の水谷洋一氏の動機は、「これで自分は英雄になれる」という目論みがあったという。不正を告発した正義感は立派であるが、そんな動機であったことを聞くと、何ともチープな正義であろう。ある所に多額の寄付をして銅像を建てられてご満悦の資産家を、篤志家といわないようにである。
「善とは善意志で行うもの」とニーチェは言ったが、善行の目的が自身の名誉欲とあっては本末転倒か。善意に見返りを求める人間の浅ましさは批判されてしかり。「人に親切にするということは、見返りを求めるどころか、親切にした相手に殺されても文句を言わない、という気持ちでやるべきもの」という安吾の言葉に触れ、普段の親切という偽善に心砕かれたことがあった。
それもあってか水谷社長の、「これで英雄になれる」という動機には違和感を持った。どうして英雄になれるかは、マスコミやメディアが彼の善行を取り上げるさまを描いたからであろう。企業をあのような告発をすることで、果たして他の企業から、「西宮冷蔵の社長は、悪事を告発する素晴らしい会社だ。我が社も何とか力になりたい」と、賛同されるだろうか?
企業側から見て、信頼・信用を抱かれるというのは、企業の不正告発なのだろうか?残念ながら水谷社長には企業の論理と市民の利益は隔絶するものという認識がなかったように思う。自分は、衣料品店で注文していないものを、注文したとこじつけられ、押し付けられた。普通ならばそんな会社はあり得ないが、現実にそういうあり得ない店もあるという事実。
こういう事例もあった。メロンの行商が飛び込みで自宅に来たのはいいが、味見をさせておいて、断ると凄んで見せ、捨て台詞を吐いて出て行った。これも社会である。昔でいう押し売りの類は未だ存在するのも、人間が感情で人と接するからであり、キチンと社員教育を施された営業マンなら、断った顧客に笑顔を絶やさないのは、バックに企業の暖簾を背負っているからだ。
それすら忘れて感情的になれば、会社の信用を落とすことになり、そういう社員は会社にとって不利益でしかない。とかく人間は自己中で感情的になるもの、だから教育によって理性を植えつける。西宮冷蔵の水谷社長は、自身の正義感を旗を振って主張したものの、他社から倉庫の契約解除をされたことで行き詰まったが、英雄気取りを画策した見通しの甘さと感じた。
安吾の論法でいうなら、廃業する覚悟を持って市民の利益を優先したというなら、鏡にしたい人物であるが、正義の行使だけでは生きてはいけない現実もある。だからといって、悪に目をつむり、悪に加担するのも間違っている。その見極めと、覚悟の行動であるべきだった。「英雄になれる」という思惑への反動は、自分なら予想できたし、世の中そんなに甘くない。
道行く人にカンパを求める水谷社長にカーリンのような真の反骨精神があるなら、テレビで毒舌を振りまくなど新境地開拓もあった。カーリンのユニークさは以下の言葉にも言える。「宗教は常にありえない物語を説いている。考えてもみてくれ。見えもしない奴が空に住み、そいつが毎日毎分の全てをお見通しで、さらにその見えない奴が、10個のしてはいけないことを並べている。
そしてしちゃいけないことをしたときには特別な場所へ追いやられ、そこには永遠に続く火や煙や拷問や激痛が用意されている。そこでこの世の終りまで焼かれ、叫び、苦しみ続けるのである。だが、そいつには愛があり、そして愛があり、さらに愛があり、金を必要としている」。同じ無神論者としてカーリンの毒のある言葉には、太刀打ちできない教養が滲んでいる。