京都・東山の麓にある、「哲学の道」は、銀閣寺橋から若王子橋までの疏水沿道で、約2km続く散策路である。哲学者の西田幾多郎らが好んだことから、「思索の小径」と呼ばれていたのがいつしか、「哲学の道」と呼ばれるようになった。そこには西田幾多郎の歌碑があり、「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」という西田の人生哲学が刻まれている。
これは西田の名言とされているが、このような当たり前の言葉でも西田が言えば名言となる。まあ、こういう考え方はいささか、「権威主義的」で自分は好きではない。誰が言ったかではなく、何を言ったかが重要と思っている。さりとて偉人や賢人の名言に耳を傾くことは多い。が、ルンペンであれ、年端のいかぬ子どもであれ、心を打つ言葉は誰彼なく素直に感じている。
自分は自分、他人は他人と西田が述べているのは、「自分と他人はそれぞれ解釈は異なってもいいから、それぞれが自分のスタイルで貫けばいいと聞こえる。影響は受けても最後は自分であるということ。自分のことを人に決めさせるな、我が道は吾が決めよ。という風に聞こえる。とかく自分のことを他人に委ねるのは、自分にらず、自己にあらずとも言っているようだ。
確かに主観と客観は対立する。主観が強いと客観的になれと言われたり、その逆もしかり。ならば、うまく使い分けるに越したことはないが、西田は主観客観を意識しなければいい、そういう状況こそが真実であるとした。西田はこの、「真実の世界」の具体例として以下の例えを述べている。今この場で素晴らしい音楽を聴いてうっとりしている状況があるとする。
聴くものはうっとり聞きほれていて、一体この音楽はどの位置からどの程度のボリュームで鳴っているとか、今この場所に音楽を聴く自分が存在しているとか、音楽を聴いている自分は、この音楽のどの部分を好きであるとか、などなどと主観も客観も含めたそういう判断を意識しているだろうか?そんなものは何もない。ただうっとり聴き惚れているだけに過ぎない。
「この状況こそが主観客観を超え、心と物事が一つになっている状況であり、さらにはこれこそが真実の世界である」と、西田は定義する。また、美しい花を見て、その花の美しさに心をうばわれているとき、「この花は形がこうでおおきさがこうで…」などの分析もない。それについ自覚や分析や判断という、「心の意識」がなく、目の前の物事ろ自分が一体になっている状態。
「見る自分」と、「見られる物事」が区別されず、ひとまとまりになっている瞬間。自分と物質・物事は本当は区別するべきではないのではないか。自分の心と物事の展開は、両者を合わせて一つとするべきではないか。そもそも、「私は私だ」、「目の前の物事は、私から切り離されたものだ」という認識自体、人間の思い込みであり、区別なくひとまとまりにすべきではないか。
真実の世界とはそういう世界ではないのか。 西田はこうした唯心論と唯物論の解放を、「純粋経験」と呼んだ。そして、「純粋経験」こそがヨーロッパ哲学的な主観客観を超えた、人間にとっての真実であると説明した。西田は、この思想をまとめた著書に、『善の研究』というタイトルをつけた。したがって、主観客観を超えた純粋経験こそ、「善」という西田の主張である。
なぜ、「善」であるのかについて、西田はこう述べている。「この書のテーマは人生の問題であり、人生にとって本当の善とは何かを説いている」。さらに西田は、「善とは自分の心の要求に応え、満足な気持ちになることであり、人間にとって最高の満足とは、ちっぽけな思い込みを超えて、宇宙との一体感を得、自分の無限性を感じ取ること」。意味は分かるが理解は難しい。
つまり、西田の説く、「純粋経験」を得ることが、人間にとっての最高の「善」ということになる。これは社会のルールである、「法律を守る」といった客観的善でもなければ、「己の欲望を満たす」といった主観的善でもない。「純粋経験」とはそれらを超越した素晴らしい経験である。と、西田のこうした壮大さ、スケール感が凡人には分かりづらいものとなる。
さらに西田はこうした、「善」があらゆる宗教の根本だとする。即ち、「純粋経験」を得るとは宇宙と心が結ばれること。そして宇宙こそがあらゆる宗教の神の根本であると説いている。「純粋経験」をさらに煮詰めていえばこの世に存在する対立の図式、「主観と客観」、「自分と相手」などという区別や対立以前の、名づけや言葉にならない状態といえば解るだろう。
西田自身は、「純粋経験」を、主客未分の状態における直接的な経験と説明するが、これも分かりづらいなら、彼のいう具体例を思い起こせばいい。音楽を聴いて純粋にうっとりした状態そのものをいい、あることを判断したり、犯した失敗を反省したり以前の素因の状態にあるひとかたまりの、「何か」というものである。西田は禅思想に傾倒していたという。
よって、西田幾多郎いうところの、「純粋経験」という概念は、東洋思想のなかでも大乗仏教思想の禅仏教の世界解釈・認識論的解釈と非常によく似ているといわれる。前回のYouTube、「西部邁ゼミナール」のなかで、西部と佐伯が仏教思想について述べている。「『生』ががなくなって、『無』になってしまうというが、財布のお金が無くなってしまうというか、「空」になってしまう。
その話を、「逆転」させることもできますよね?「財布はもともと空っぽだった」と。なんか、「いつの間にかお金が入ってた」と。それで、買い物に行っただけで、また「元に戻っただけ」の話。そうも言えますよね」。確かに、生けるものにとって死は辛いものだが、生があるからこそ死があるともいえる。仏教の無常観とは、全てのものはとどまらず、移り変わるものとする。
佐伯はこのようにいう。「だから、『生』というものが、最初にあるというふうに言ってもよいけども、最初に何もない、『無』があって、無の中から、『生』がたまたま生み出されたと。私という生命体が生み出された。まずはね、その程度だというふうに、どこか考えておきましょうと…」。これを体系的にしたのが、「色即是空」であって、生をつき詰めれば空っぽとある。
空っぽであっても決して無意味ということではなく、所詮人間は、無常観のなかに、「生」を漂わせているに過ぎない。西部は面白いことをいう。、「女性は日本列島に6000万人いるが、僕の前に現れる女性はごく限られていて、ゼロの時もあるけども大体一か二。この人とどうするか。婚姻関係を結ぶか、あるいは離縁するかといった選択問題、決断問題がいつもつきまとうじゃない?
そう簡単に、『空』とか、『無』とか言っておれん、というのが、『色(色即是空における「色」)』の段階。しかし、「どうしてこの女を選んだんだ?」と考えたら、根も葉もない理由でありまして説明しきれません、という意味においては、『空』となる。それに応えて佐伯は、「ある女性と結婚してみたが、どうもうまくいかなかった。で、取り替えてBという女性と結婚したい。
それもどうもうまくいかない。じゃあ、もう結婚やめて、あちこちでB~Fと遊びましょうという話になってくる。これはまぁ、『自由主義の原理』であり、あるいは、『資本主義の原理』と言ってもいい」。というように、自由主義社会においては、離婚や浮気や不倫は避けられない。なぜなら、全てのものが自由意思で行為され、自由意思で選択されるからだ。
西田の思想は、仏教の禅思想が出発点となっているのは間違いない。が、西田が参禅していたのは哲学のためと言うより、むしろ自身の個人的生活の上の苦悩からであろう。彼の個人的生活の上の苦悩は、芥川龍之介と似ており、そうした苦悩をエネルギーに変えて、西田は哲学を、芥川は小説に投じた。西田は苦悩から思索を完成したが、芥川は思索の果てに自殺を選ぶ。
自殺の理由は種々あるが、芥川のいう、「ぼんやりした不安」というのも衝撃である。縁側にぼんやり佇む人が、その数分後に自殺をするものか?そういうことでも人は死ぬと考えれば不思議ではない。自殺寸前の彼はキリストの生涯に興味を持ち、死の床には聖書があった。人間が何かの崇高を抱き、それを人生の中心とするなら、自分を中心とする危険性も孕む。
芥川は西洋に憧れながらも日本の旧き美を残そうと格闘していた。芥川を尊敬していた三島由紀夫も同じ志を持った作家である。だから最後に自死し、自分の文学というものを永遠に留めようとした。人間はつき詰めて物事を考えたら、解決のためには自殺する意外に手はないかも知れない。そうした罪深い存在であり、批判的にいうなら、意地汚らしい存在ともいえる。