世に偉大な人間はいる。実存する人間にも架空の人間にも偉大な人は存在するが、狭い社会で生きる我々にとって、そうした人物を伝記で読み、小説で知ることになる。子どもが、「尊敬するのは両親です」というのも他愛ない子どもらしい感性だが、入社試験の面接でこれを言うのは羞恥とされるだろう。決して両親が悪いというのではなく、思考があまりに狭隘である。
インターネット創世期ころ(当時はパソコン通信といった)に、「実在のヒーローと架空のヒーローと、どっちがいいか」という熱い議論が懐かしく思い出される。 歯科医師の彼は実父を尊敬しているらしく、断固として実在のヒーローと言い張った。あの頃は、黒白決着つけなければ収まらない感性に蹂躙されていたのだろう。それぞれに拠り所があればそれでいい。
そういうものがまるでなかった。今に思えば若かったのだろうし、若さとは熱さであろう。今はそれに自己批判も含めた、「バカさ」もプラスされている。ユゴーの『レ・ミゼラブル』に共感する人は多い。ジャン=バル・ジャンは、数ある小説の中でもっとも有名な主人公であろう、それくらいにインパクトがある。彼の人徳を一言でいうなら、人間としての誠実さである。
それプラス彼は、「他人に対して許された存在」という自分を排除している。これはつき詰めると、「甘えの排除」ということか。彼のその思いは一時期の、「許されない」ではなく、生涯にわたって自分が許されることはないのだという自覚は、恐ろしく強靭な精神力にちがいない。普通の人間が、「自分は他人に許されたかたちで存在し得ない」となると鬱になろう。
一時期もホッとできず、許されざる存在として生涯疎外されつづけるのは大変なことだが、それも執拗に彼を追うジャベールの存在がある。ならばいっそ許された存在として生き、人間としての誠実さを捨てればいいのでは?と考えるが、これは理論的・現実的に不可能である。なぜなら、人間としての誠実さを捨てることは、他者にとって許されざる存在に転落するからだ。
逆説的な言い方になるが、「人間としての誠実さ」と、「他人に対して許された存在」という二つを両立させるのはまさに敵対関係の如きである。しかるに二つの命題を両立させる努力は、何ら傷つくことなく人生の問題を処理するが如きの徒労であろう。人間というのは、こうした二つの命題に敵対することでしか救われない存在なのかも知れない。
人間と人間の真の人間関係というのは、信頼と尊敬である。が、それらは互いが人間としての惨めさや貴さや苦しさなどを、なんとか感じとっているという相手への感情である。そうであるなら、人間が人間としての誠実さを失ったとき、尊敬や信頼は消滅してしまうだろう。森村誠一に『人間の証明』という作品がある。何が人間であることの証明であるというのか?
著名なファッションデザイナー八杉恭子には、黒人兵との間に私生児を産んだ過去がある。彼はジョニーといい、ニューヨークのハーレムに住んでいたが、恭子を頼って日本にくる。恭子は自分の過去を抹殺するため、ジョニーを殺害し、同時に自身の過去を知る関係者も殺害する。よくある手法だが、松本清張『砂の器』の天才ピアニスト和賀英良も同じ轍を踏む。
清張も森村も『レ・ミゼラブル』は必読であろう。バル・ジャンも受刑者という過去を持ちながら実業家兼市長という名声を得ている。ところが自分と似た別人が誤認逮捕をされ、そのことで追われ身であったバル・ジャンの容疑が晴れ、危機回避となるはずであった。しかし、無実の罪で他人が身代わりとなろうとすることに苦悶したバル・ジャンは意を決して法廷に向かう。
何ということであろう?地位も名誉も一切をなげうっての行為に誰もが唖然としたはずだ。果たしてこれだけのことができる人間がこの世にいるだろうか?確かに人間としてこれ以上はない崇高な行為であるが、清張や森村はバル・ジャンの否定するかの如く、あからさまな人間の真実を描いた。人間とはこういうものだ、これこそが、「人間の証明」であるとしたのだろう。
正義に殉じることは美しい。人間としてこの上ない行為であろう。が、雪印食品の牛肉偽装を告発した西宮冷蔵はどういう結末にいたったか?いわゆる、「雪印食品偽装事件」である。西宮冷蔵水谷洋一社長の正義感は、雪印食品株式会社を倒産に追い込んだものの、西宮冷蔵自体も取引中止が頻発し、休業を余儀なくされた。これが社会正義を行使した顛末である。
正義は悪にとっては害悪である。となると、告発以降、取引を中止した企業は、「悪」ということになる。悪の意味は企業の論理からすれば複雑な意味を含んでおり、雪印食品以外の他の業者は、雪印を敵に回した形の行政まで潰しにかかっている図式が見え隠れする。官から営業停止を受けたのも、会社と取引をしてて巻き込まれたくない他の業者の本音が浮き彫りになる。
水谷社長の行為は国民に対する、「人間としての誠実さ」を示したものの、「他人(企業論理)に対して許された存在」とはならなかったということだ。上記したように、この二つを両立させるのは至難ということになる。水谷社長は企業側から許されたかたちでで存在し得ないという絶望感を抱いた。反面、国民から許されたい思いがカンパという形となっている。
正義を貫いた代償とがこうした悲惨な結果となるなら、誰も正義を行使しなくなるだろう。いや、正義は代償を求めるものではなく、たとえ野垂れ死にしても悔いを残さずといえば聞こえはいいが、水谷社長は、善悪はともかく正義の代償を国民に求めてしまっている。決して物乞いではない。あくまで善意を…、ということなのだろうが、物乞いというのは善意を拠り所にしている。
水谷社長には同情とか、お気の毒とか、そういう言葉は相応しくないのかも知れぬが、さりとて彼は英雄というでもなく、適当な言葉が見当たらない。「正義」とは、"物事の正しい道理"であるが、企業というのは組織である。個人個人が働いているが、社員といわれる人間のほとんどが組織に埋没してしまってる以上、個人の倫理は腐敗していると言っていい。
組織の人間は組織の命によって動く以上、水谷社長の正義は企業にとって迷惑以外のなにものでもなかった。結局企業の論理(正義)とは、我々にとって多勢に無勢ということだ。企業は利益を上げなければならない宿命を負うが、さりとて世知辛い世の中を実感させられる。世知辛いとは勘定高いの意で、反語が何かを思いつかないが、「質素・倹約」なんかどうだろう。
世知辛いが勘定高いなら、打算と同義となる。打算の反語は、「無私」となろう。武士を捨てた芭蕉は、現実逃避から風流の精神に辿り着いたと書いたが、風流という言葉を今の時代で使うのは難しい。きらびやかで成金趣味と対照的な、そんな風流な時代もあったろう。風流の精神、風流な時代というのは、世知辛い世とは隔絶の感があったでは?そんなイメージが湧いてくる。
「自分を客観視すれば心の平穏が得られる」と説いた芭蕉であるが、200年以上も経てば違った思想も生まれる。西田幾多郎といえば、日本を代表とする哲学者である。『善の研究』を著したが、これは難解であることでも有名だ。自分も人並みに読んだが、理解できない本は読んだとはいえない。したがって、読んだふりをした。岩波版は解説もなく気合をいれない理解は大変だ。
近年は平易に噛み砕いた解説付き版もあり、『まんがで読破 善の研究』なるものまで至れり尽くせりである。もはや脳みそに汗し、気力と執念で読むべく本も今となってはない。幸いにしてYouTubeなどで偉い学者や評論家が、難解な本について語るゼミナールを見聞きすれば、他人の主観であるけれどもこれを、「受け売り」の芸という。年を重ねればそれも十分也。
芭蕉の対比としての西田だが、彼は、「主観客観を意識しない状況こそ真実である」という思想を確立させた。「純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである」。(『善の研究』より)
我々は普通、「主観」、「客観」という立場から物事をとらえ、考えようとする。「主観」は個人的な感情や価値基準、「客観」とは、個人の感情を抜きに物事の性質をとらえること。さらに注釈をいえば、「主観」は、これを好む、あるいは嫌う、自己の心の存在という自我の意識。対して、「客観」は、自己の好き嫌いに関係なく物事は存在するという、絶対性である。
自我の意識に拘れば、「この世に確かなものはない。確かなのは、この世を自分なりに感じとる己の心」となるが、これを唯心論という。他方、物質の絶対性に拘れば、「この世は物質のみで動いている。見えないものは真実ではない」となり、これを唯物論という。西田はこうした、「主観と客観の対立」の図式に疑問を投げかけ、独自の思想展開で両者を一つにした。