およそ人間について、どれだけの思考を持って推し測ろうとも、人間を理解することは至難である。ゆえに人間は偉大であり、反面愚かな生き物でもある。人間は、人間が人間であるという尊厳を、いったいどこで保てばいいのだろうか。神が人間を苦しめるのか、人間が人間を追い詰め、苦しめているのか…。無神論者の自分にとっては、いうまでもない後者である。
人と人はいい出会いもあり、よくない出会いもある。いい相手、よくない相手の見極めができない時に、いいも悪いもない。そこを思うと、いい相手、よくない相手はひとえに自分の力量にあるとするなら、精神が幼い時分にいい相手に出会ってもダメに決まっている。時期が煮詰まった時に巡り合うのが理想であるが。人の出会いはそんな都合よくは行かない。
沢山のいい相手にも恵まれ、同じように悪い相手にも遭遇したが、スルーもあったろう。が、大事なことはそれらを通じて、規範意識を完成させること。であるなら、全ての出会いは自分の肥やしになる。「いい出会いがない」、「男運が悪い」などの言葉を耳目にするが、人間はそういうものだ。自身が深遠なる目を持たずして、あれこれ勝手気ままをいうもの。
人を正しく見るためには、自らも熟成されていなければならない。「自分を客観視すれば心の平穏が…」という芭蕉の言葉(「茶や与次兵衛宛て書翰」)から派生したものだが、自分を客観視するための方法は以下のようなものがあるのではないか。①1人になる。②他人の意見に耳を傾ける。③普段会わない人と会う。④電車の中で携帯に夢中にならず夢想する。
④は多少の皮肉も入っている。人間は動き始めると立ち止まるのは容易でないと書いたが、自分がしかと自分を見つめ、自分の人生を変えていくために一度や二度は立ち止まる必要がある。ただがむしゃらに、ひたすらに走るだけなら、過去の延長でしかなかろう。過ぎ去った自分であるが、あの時の自分に何が必要だったか、そのために立ち止まり自分を客観視する。
「温故知新」という慣用句も、この場合には適切だ。言い訳は薬味があるようで、実は自分のためにはならない。さまざまな事柄から言い訳を排して生きる自分だが、あの時の彼女の真摯な心の美しさに自分は、まだまだ到底足りていないかも知れない。当時は、「何でだ?」と、訳の分からぬ錯乱状態であったことが、今にして、いい場面に対峙できたと思っている。
こうした書き込みも自分自身を立ち止めているのだろう。巷いわれることだが、いいことも悪いことも肥しになるというが、肥しにするからなるのであって、記憶の中から捨て去られたことも多い。真理を説く聖人もいれば、真理を説く宗教もある。真理という高尚なものは、なかなか手にするのは至難だが、真実というのは日々の暮らしのなかにいくらでもある。
自分にも他人にも嘘をつかず、他人を思いやることこそ理想の生き方。通俗的な発想だがこれがなかなか難しい。自分の利害を超え、さらには自らを賭す気持ちがなければ真実は語れない。近ごろは、「文春砲」という言葉も生まれ、取材合戦が社会現象になっているが、陰でこそこそとよろしくやってるつもりが、余程上手くやらないと暴かれてしまうご時世だ。
暴かれた者たちは腹の中で、「クソったれ文春めが!」と憤っていると思うが、誰にに怒ったところでそれが事実であるなら認めるしかない。ところが、何故にかあらたまった謝罪会見なるものを開き、鏡の前で何度も練習したであろう繕い顔で謝罪とお辞儀を披露する。「謝罪会見」という名前よろしく謝罪がメインとなるが、バレて腹が立っているのに謝罪とは疑わしい。
世間がどう思おうと、謝罪のふりをしてみせる。いわゆるポーズという奴。正しくは、「クソったれ会見」というのが相応しいが、そうもいかない。それにしてもだ、こそこそやっていながらそれがバレて謝罪ってのは可笑しな話。いっそ本音で、「文春のクズ週刊誌め、分からないと思ってやっているのものを、人のプライバシー暴いて稼ぐなよ!」と言えば立派だが。
何の謝罪で何を謝っているのかさっぱり分からん。例えば、万引きで捕まって、「ごめんなさい」というのも、どういうごめんなさいなのか?悪い事したからごめんなさいなのか?それとも、悪い事をしたのがバレたからごめんなさいなのか?どっちもどっちとしか言いようがない。ようするに、「ごめんなさい」というのは、いかにも便利な言葉として使われている。
見つからなくてとも悪い事ではないのか?子どもじゃないならそんなことは分かっている。であるなら、見つかったことで、「ごめんなさい」をいう機会を与えてもらったということになるが、そんなごめんなさいのどこが謝罪であるのか?バレたことで自己保身に及んでいる不甲斐ない人たちである。とりあえず、「ごめんなさい」を言っておけばということだ。
なんというくだらなさであろう。バレなければいいものを、バレたから謝るということなら、バラされた文春に怒れよ。どこに向いて頭をさげている?体裁を繕っているバカどもである。本当の謝罪とは見つかる前に、「自分は悪いことをしました」と、それなら分からなくもない。見つかった謝罪のどこが謝罪か?謝罪言葉を言わされる羽目になっただけではないか。
前回書いたように、自分の罪を自身で認めてそのことを謝罪することよりも、あった事実を相手に伝える必要性がある感じたのは、義務感だろうと思われる。なぜに義務を感じたのかは彼女の気持ちだから分からないが、推察は可能だ。告白することで何の得もなく、黙っていれば知られることもないことを正直に述べようとするのは、如何に正直な子どもでもできない。
あのときなぜ彼女がなぜ告白したかについては、折を見ては考えたりしたが、彼女自身が自らに対する愚かさ、不甲斐なさが許せなかったのだと結論した。ホテルに行くことを了承したのではなく、いきなり車で突っ込まれた時の明晰な対応ができなかったことへの後悔。相手が上得意顧客ということもあったのかも知れないし、危機管理意識の欠如だったかもしれない。
それでも黙っていれば素知らぬ顔でいられるが、自分に嘘をつくのが耐えられないというほどに、その時の自分を強く責めたのではないか。自らを責め、自らを恥じ、自らの人格を罵倒されようと、事実を告げるべきと決断した。これはもう、「自分はいい人なんかではない」という告白も兼ねている。人は誰でもいい人ぶるが、こうまで自身の屈辱を披露できるものだろうか?
人間はここまで正直になれるものだろうか?自らの意志で行為したことを問い詰めても嘘で誤魔化し、逃げ回るのが本来の人間だが、自分より2歳下で当時23歳の彼女の人間性レベルは自分を遥かに超えていた。これらの考えは数十年後を経た思考であり、当時はバカな女だと思っていた。同じ話ではないが、「なぜだ?」と感じたのは『レ・ミゼラブル』のなかにもあった。
自分と間違えられて逮捕された男を救うために、一切を投げ出したジャン・バルジャンの利害を超えた人間の尊さをユゴーは描いていた。仏教やキリスト教には、「懺悔」という行いがある。中国には、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉がある。懺悔は、自分が犯した罪や過ちを反省し、神仏や他人に許しを請い、心身の苦悩からの解放を求める宗教行為。
キリスト教で懺悔(ざんげ)というが、仏教では懺悔(さんげ)という。「天網恢恢~」の語句は、老子第73章にあり、「天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰を被る」ということ。これらの言葉はあっても、人の意識にそのまま内在することはないが、自身の良心と闘う人はいるだろう。
自分の意に反することは、いかなる状況であっても拒否は可能と、自分の照らして他人を考えなかった若い時代に、「あなたに好意があったからあなたの営業成績に尽くした」(彼女の言葉)などと言われたというが、卑怯者はやるためには何でもいうものだ。告白を聞きながら、その場の状況を考える余裕もなく、ただ裏切ったくらいにしか思わなかった当時の自分。
善人というのは、善人であるがゆえに悪人さえも許容してしまう。そこのところが善人であることの問題点で、悪人はまた善人を手玉に取りやすいということもある。嘘を嘘として認めないで生きるのが、嘘つきにとって楽な生き方であるように、真実を隠して生きるのは、善人にとっては心苦しいこと。今ならそうした道理も理解するが、あまりに自分は若く無知だった。
男と女がプラスの世界を築き上げるためには犠牲を少なくすることだが、人間にとってもっとも難しい踏み絵とは、その人のために今までの自分を壊すことができるかということか。彼女は自分の知らない世界で生きていた。それゆえに自分の意志ではどうにもならない世界であり、そうした中で彼女と自分の関係を迫られるが、これは人と自分の対決という言い方もできる。
「共生」、「共存」というのは綺麗な言い方だが、その境地に至るまで人間同士は闘いである。当面は彼女の表面的な、「木」ばかりを見るが、やがて互いが心の奥の、「森」を見ることになったとき、さらには何の覆いもなく、自分の存在にその森が触れてくるとき、相手と自分の世界が構築されることになる。それまで互いはまさに、未開の地、奥まった森である。
若さというのは自分の目に映る相手ばかりで、相手の目に映る(であろう)自分の姿など考えもしない。主観ばかりが鍛えられ、増幅されるが、客観というのはたまに、申し訳程度に顔を覗ける。「若さとは無知である」。これで言い得ている。ならば若者には若者好みというものが備わっている。今の自分に、「若者好み」なるものは逆立ちしても備えがない。