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まともな「言い訳」などない

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言い訳とは、「何らかの事情で窮地に追い込まれたときに思わず発してしまう言葉、表現」 のこと。 大企業であれ、中堅中小企業であれ、どのような業界であろうが、 営業担当者はやたらと言い訳を口にするが、彼らには自由裁量が与えられている分、言い訳の発生する余地はある。言い訳は所詮言い訳であり、言わない方がいいに決まっていると思うが…

言い訳をする要因は山ほどあるが、あまり物事を考えない人間が深い思考ナシに行動してしまった時になど、言い訳の世話になる。もし、素直に自分の非を認めるとどうなるか?上司からは無能の烙印を押されてしまい、昇進や出世に影響する。それが怖いのか?将棋の弱い奴が負けた言い訳をどのように言おうと、相手から見れば弱い以外のなにもない。

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自分を弱いと認められないのは自尊心が災いしているのだろうが、だったら相手に、「強いですね~」と言えばよいのに、それすらいえない。人によっては臆面なく実力の違いを認める人もいる。勝った側にすれば、実力伯仲の相手かどうかは指して見れば分かること。相手に謙虚になって欲しいのではなく、実力差のある者がなんだかんだ言い訳されても言葉を失う。

薄氷を踏む勝利なら相手を称えもするが、圧倒的棋力差のある相手に負け惜しみや言い訳をされても、本音は返せないものだ。自分の弱さを正確に認識するのも力量だから、負けて言い訳三昧というのは弱い以前の問題である。営業マンの言い訳も似たようなもので、上司からすれば能力のあるナシは把握しているゆえ、無能者の言い訳は聞くに堪えない。

有能者なら…というより、有能者は無様な言い訳はしないもので、そうなると逆に上司の方が事情を聞きたくもなろう。「一体、どうしたんだ?流れを話してくれんか?」と、これは言い訳ではなく説明を求める。無能者の言い訳に対し、有能者は説明となる。「言い訳」を聞きたくないものなどいないが、下部社員の上司への説明(報告)は重要である。

自分も言い訳はまるで聞かない派だ。言い訳をしそうな人間は分かっているから、する前から、「またか」となる。いつも思うことながら、言い訳大好き人間という種は、相手は聞いていないなくらい分かりそうなものだが、それにもめげずになぜ言い訳をするのだろう?言い訳の惨めさ、愚かさに気づかないのか?それ以上に言い訳は自身のためなのか?

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自分の利益以上にみっともないが先立つから自分は言い訳が嫌いだが、言い訳をする人間はそこを考えないのだろう。上司や周囲から、「言い訳なんかするんじゃない!」と叱られたり、言われたりしても「言い訳」を拠り所にするのか?確かに管理職は言い訳を聞くのも仕事の内というが、言い訳をご法度にしたら下部社員はやるせないことになるのか?

自分も甘ったれていた年代には言い訳をしたかも知れない。自らにきつく戒めていたからあまり記憶にないが、どう考えても言い訳のくだらなさは実感させられる。それでも聞いてもらえると気持ちが癒されるから言うのだろうが、バカ丸出しとしか思えないから自分にはできない。他人の言い訳はその人の問題であるから、他人の「善」に批判はない。

が、男の言い訳は女々しく、言い訳のない人間関係は信頼に満ちている。言い訳という自己救済をせず、じっと内に秘めているときの人の気持ちに心を寄せてしまう。切羽詰まったときに、他人さえも自分の弾除けにする人間に、心を許せるはずがない。どう考えても自分が悪いにも関わらず、他人に罪をかぶせたり、逃れる算段をするなどは卑怯者である。

過去、言い訳を多発する人間に好意を持ったことはない。が、女は別だ。女の言い訳を咎めないと決めている。「女性は言い訳するもの。モテる男の恋愛はそこを乗り越える」というが、許容するのはモテたいからではない。言い訳も嘘の内と分類するが、嘘は大きく分けて以下の3つに限定される。①幻想的な嘘。②社会的承認を求めるための嘘。③自衛上の嘘。

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①は男には理解しがたい女の感性であり、本やアニメで見たことを現実が如く錯覚して喋る女は珍しくない。②は自分を良く見せたいという虚栄心や背伸びであり、嘘の程度としては①よりもレベルが高い。③は非力な女性の防御策である。自分が失敗したり、窮地に追い込まれたりした際、その責任や苦境から脱しようとしてつく嘘だから罪と言えば罪であるが…

ただし、人を陥れるような嘘をつく女は絶対に許さない。嘘にはついていい嘘とそうでない嘘があるが、人を陥れるような嘘はその極め付けであろう。こういう人間は傍に置けないから、追い出すか自分が去る。自衛上の嘘は本能の絡みもあるから、男女の識別なくこういう嘘は男でもつくが、自分の失敗を咎める言葉は存在しないと自分は思っている。

また、恋愛においてはその時、その場にあって気持ちを高揚させるための嘘は許される範疇であろう。人間は言葉によって情緒さえも変動する特権を与えられている。ついていい嘘を許容しなければ人間の生活はあまりに無味で乾燥したものになろう。「嘘」の媚薬効果は誰もが知っているが、あまりに多用すると、人は嘘になれてしまい、効果も半減する。

男も女も嘘をつくが、男の嘘を許容できないのは、自分が男であるからだ。異性は分からない部分が多だあり、ゆえに許容する。忘れられない女がいた。彼女は、「ノー」が言えない典型的なタイプで、勤務先退社を公言した際、仕事上(証券会社)の大口顧客から慰労食事会に誘われた。ところが好事魔多しというか、そのままクルマでモーテルに突っ込まれたという。

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こうした男の行為は、同じ男として批判できない。女の態度遺憾によって犯罪か同意か決まる。女もいろいろで、予期せぬ事態にあって蛇に睨まれた蛙が如く何もできない女がいる。顧客であれ、食事をご馳走になったとしても、ザックリ抵抗する勝ち気な女もいるが、彼女は言葉を発せないタイプである。数日後、その時のこと一部始終を告白したのだった。

当時は週に一度会う程度であったから、彼女が告白したのは事があって後のデートの日であった。デートといっても親と同居の彼女が自分の部屋に来て食事を作ったり、音楽を聴いたりであった。彼女は余程の決心があったようで、言葉少なに淡々と話し始めた。終始説明に徹し、言い訳の類はなかった。20代の若い自分は、彼女の告白にただ驚くしかなく聞き入った。

黙っておけば分からぬことをあえて口にする彼女の良心を受け入れるキャパもなければ、自分という恋人がいながら、貞操を死守する義務感の無さに腹がたった。出会って2か月で数回程度しか会ってない自分と、数年来の顔見知り客とでは、自分の方が遠慮はあったと察する。自分は彼女を責め、彼女は許しを乞う言葉はなく、告白の結果にわが身を託していたのかも知れない。

彼女の涙は作り芝居でもなければ、自身の不甲斐なさを責めるものだった。本来、責任の取り方とはこういうものかも知れない。彼女の愚行を自分は許せなかった。その日を境に二人は会うことはなかった。これが男の矜持であり、それを遵守したまでだ。そして数年が経って、自分が成熟した暁になって、彼女は自分のその後における女性観の規範の女性となった。

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自分にとって忘れることのできない範とする女性は3人いる。一人はデートの際の彼女の支払い分をメモして、貯金箱に入れていたM、そして彼女と、さらには、私が灰皿を持って歩くからタバコのポイ捨てをしないでと懇願したYである。自分の人間観に影響を与えたこれらの女性は、自分の考える人間というものを遥かに超えた存在として頭に焼き付いている。

それぞれは、道徳心というのか、良心というのか、善意とでもいうのか、さらには人間としての行動の起点というべきなのか、いずれも自分の人間観を超えていた。我々は人に許しを乞うという偽善をあまりに軽率に行っている。許しを乞うことで、他人に自分の存在を認めてもらおうという意図が隠されている。詫びて、謝って、なんとか自分を認めてもらおうと…

さまざまな謝罪というものを目にしたが、上記の彼女ほど誠実な謝罪をそれ以前も以後も体験したことがない。なぜなら、彼女は謝罪の言葉を一言も発しなかったからだ。女なら誰でも大好きな、「ごめんなさい」、「許して」などをまったく口にしなかった。犯した罪の制裁というのは、相手が自分を憎み殺そうという怒りを受け入れることだと、それを彼女から見て取った。

詫びることで相手が自分を抹殺しようとする怒りをくじき、それによって自分の罪を免罪するという狡さ、卑怯さが微塵もないところに偽善が感じられなかった。人間は徳を身につけた者が立派ではなく、純粋で素直な人こそが自然に満ちている。なぜなら、人為で徳など身につけなくても自然であることが素晴らしい。彼女の自然さは身につけないことで備わったもの。

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謝って受け入れられようととする弱者の偽善に比べて、その自然さの根拠は分からないが、自然の美というものは美を意識することなく、勝手に存在していると考えられる。それを我々が勝ってに、「自然は美しい」と言っているだけで、決して美的に存在してはいない。したがって人間は、自らの罪の許しを乞うという偽善を犯すかぎり、生の実在感を手に入れることはできない。

謝ることで、この世のいったい何が変わるのか。相手にかけた迷惑が取り返せるものではなかろう。変わることがあるとするなら、謝罪によって相手の憎しみがやわらぎ、自分の存在を相手に認めてもらえることになる。これを意図して我々はあらゆる偽善を犯している。善良そうな顔や行動の裏にあるものは、弱々しく相手にとりいって生きようとするしたたかさである。

こうした思索を与えてくれたのが彼女である。黙ってさえいれば敵も作らないし、非難もされずにすむのに、あえて敵をつくり、非難される行動に出られる人間を真に道徳的といったのはこういう意味。真実というのは、言う側も聞く側も双方が傷つく。だからこそ真実は価値を持つ。それを教えてくれた彼女は今どこに?決して消え去ることのない一期一会の奇縁である。


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