嘘をつくのは実は難しい。場当たり的嘘ならなおのことで、ボロが出るのはついた嘘を忘れているからだ。矛盾を指摘されて、「そんなこと言ったっけ?」などはバカのつく嘘で、利口な人間はついた嘘をしっかり覚えている。もっとも、矛盾を指摘せず追い詰めたりもせず、「こいつは嘘をついているな」と腹の中で即断し、黙っているケースの場合が実は多い。
コロコロ変わる嘘をいちいち指摘していてもしょーがない。年端もいかぬ子ども時分に母のつく嘘にやるせない日々だった。昨日言ったことが今日で違うのなどはいい方で、つい先ほどと数分後では違うありさま。そういう体験もあってか、本能的に嘘つき女を見分ける技術が身についた。技術というのも変だが能力ではおこがましい。幸い妻は嘘にまったく無縁の女。
これまで一度たりとも自分に嘘はついたこともなければ、誰にも嘘をつかない女である。おそらく嘘のつき方を知らないのだろう。自らに嘘のつけない彼女に顕著なのは、「できないことをできない」と、正直にいえること。姑はその必要がない時に、「下の世話を頼むことになるかもしれない…」などと財産をちらつかせ、意地汚く嫁の腹を探ろうなどは頻繁だった。
そんなときに、「私は下の世話はできませんので…」と、ハッキリ姑に言っていた。もっとも姑自身、嫁と人間関係が円滑でないことは分かっていることもあり、嫁に赤子の如き下の世話を望む気持ちはなく、単に腹を探っているに過ぎない。底意地の悪い人間は、相手の腹を探ることをあからさまにやる。人の腹を探るような物言いほど気分の悪いことはない。
高尚なる人間同士の腹の探り合いは、相手に気づかれずにやるが、バカがやると見え透いて滑稽である。おそらく妻もその辺りを嗅ぎ取っていたのだろうが、人間関係が樹立していない同士が相手に身を預けらるほどバカにはなりたくない。そういう理性が母にあるかどうかは不明だが、姑が慈悲をもって妻に優しく接していれば、嫁とて下の世話は厭わないだろう。
人と人の関係(情)とはそういうものだ。昨今は身内といえども、そうした心労を回避できるよき時代にある。お金という負担は必要だが、金銭には代えられない心労負担を専門家に任せるのは社会の先進性である。人の嫌がる仕事を業とするのは昔も今もある。「親を養老院にいれるなどは恩知らずの親不孝者」などという硬直した考えが廃れたのは時代の流れであろう。
優しくしてくれた人への下の世話が、恩返しの意味を持つように、自分を虐げる人には御免被るというのは偽りなき人間の心情である。自己を偽ることに長けた人間は、いかなる不満も自らの良心に変換できるが、妻にはそうした器用さはない。無理をすればストレスとなり自身を破綻させる。よって嫁と姑の関係は、「姑も姑なら嫁も嫁」という、相互批判で丁度いい。
そのように言い合うことで、互いの不満のバランスを保っている。何事も無理をすると卑屈になる。大学が遊び目的なら中退者も増える。猫も杓子も大学ではなく、真に学びたいものだけに国費で援助しても国家の利益となる。大学の授業料無償化案も現実味を帯びてきた昨今である。しかるに小中学校は無料なのに、大学はなぜに有料なのか?考えてみると面白い。
義務教育がなぜに義務なのか、小中学校へ行かないと社会生活に不都合が生じるからだ。読み書きが出来ない大人は、「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることが難しい。「進入禁止」という文字も読めない意味も理解できないなら大変だ。高校進学率も義務教育化という現状だ。ところが大学教育は、受けなくても、「健康で文化的な最低限度の生活」には支障がない。
「小中学校へ行くか否か」の差と比べれば、「大学へ行くか否か」の差は小さい。そう考えると、大学進学を義務化して無償にする意味は何なのか?確かに真面目に勉強する大学生もいるが、そうでない人がむしろ多い。大学生に勉強を強要する義務は大学側にも教授にもなく、勉強しない学生が卒業できないリスクを考えて自己責任でサボることができるという現状である。
ならば授業料無償化案が議論される背景はどのような理由であろう。これは有能な学生に照準を当てたもので、例えば、「センター試験の得点が平均以上であった者については、授業料を貸与する。5年以内に卒業した場合には返済を免除する」となるなら、真に学ぼうとするものにとって朗報となる。優秀な学生を大学に無償で行かせても日本経済への貢献度は高い。
これに対し、「大卒は生涯所得が高いから自分で学費を払わせるべき」という反対意見がある。大卒は高卒より生涯所得が数千万円高いとなっている。ゆえに、「大学生に奨学金を貸与し、将来の所得で返済させれば良い。卒業時に免除する必要はない」という二つの考えについてだが、「大卒が生涯所得が高いのは、それだけ日本経済に貢献しているからなのか?」
もしくは、「大学卒の肩書きがあると就職活動で有利であることが、生涯所得の高い仕事に就ける」理由なのか?一体どちらであろう。大学の在り方の問題としては全社であるべきだが、後者の理由で大学進学者も多いのが現実である。こういった議論が乱舞しているようだが、現実と理想の狭間にあって、大学の存在意義について考えるなら前者の方向性が理想である。
大学の話はさておき、人間関係に於いての興味は尽きない。何歳になっても自己を偽って生きる人は、どこかの時点で自身の実在感を求めなかったからだろう。誰でも自分は「そうだ」、あるいは、「こうだ」と思っている。が、それは真の自分ではなく、嘘の自分であったり、自分がそうありたいと願っている姿であったりする。そこに本人が気づこうとしない。
人間が自己の深みに至れないのは、自分に嘘をついているからである。その嘘をつき詰めて崩壊させるのが怖いのだろう。確かに宗教的バックボーンもなく、付和雷同型の日本人が自己を偽ることに関しては得意のようだし、まら、偽ることが許される環境の中で育ってきた。これが、「性善説」である。人間はみんないい人なる説は、確かに人間の一面であろう。
もう一つの面は、人間はみんな悪いんだということ。だから教育しなければならない。朝鮮半島が火種になっているが、「誰もが平和を願っているはずなのに、なぜ戦争の危機が起きるのか」というのは木を見て森をもない疑問である。ようするに、誰もが平和を願ってはいず、誰もが戦争をしたくないなどと思っていないのだ。平和を願うのは人間の本音であろう。
が、本音は決して一つだけではない。平和を望まないのも人によっては本音である。その国民がどういう国民であるかを見るためには、国民の選んだリーダーを見るのも方法だが、国民によって選出されない非民主的世襲国家も存在する。世界が一つにまとまろうとすれども、一筋縄でいかない国の問題もある。政治家は社会を動かすには、「性善説」がいいのを知っている。
が、真の政治理論は必ず性悪説をとるとも言われている。性善説は支配階級には都合がよく、庶民にとっては都合が悪い。したがって、性悪説をとることは庶民を生かすことになる。社会は政治によって動かされるが、社会によって政治が動かされるのは革命である。政治主導の社会は、これだけが人生だと言わんばかりの人生を作りがちになる。学歴社会しかり…
そうしてそれらを社会的圧力によって集団の成員に強制してくる。国民しかり…。しかも、その圧力はやがては国民に内面化され、内側から人間を規制してくる。危険なことだが付和雷同日本人には、「右に習え」の資質がある。規制や束縛とは、失うもので、ゆえに自分は、規制や束縛を嫌っている。学歴社会に絶望感を抱くものは、絶望を通してしか物事を見なくなる。
すべての、「関係」というものは進行形である。決して固定されていない流動的なもの。愛する者同士は憎しみ合い、信頼関係は不信に、昨日までの平和が一変して対立に、一挙にして変わる。そうした変化をもたらせながら人間は強者になっていく。敵を作れるか、作れないかも人間の行動の真価がかかっている。敵を作る行動に出られないものは何事もなし得ない。
黙っていさえすれば立派で道徳的と奉られるのに、あえて不道徳のかぎりを尽くせる人間は魅力的であり、彼こそ真に道徳的な人間であろう。世間が偽善に固まっているというなら、世間が抹殺しようとする人間こそ道徳的である。こうした逆説的論理は結構存在する。誰もが遅刻の言い訳を考える中で、「寝坊しました」とあえて言える人間こそが道徳的であると信じていた。
何事も、「右へ習え」が正しいとは思わない。自分が新しいものを作って見せようとする人間の意気込みこそバイタリティーである。他人から尊敬や感謝が欲しいなどの人間はそれだけの人間であって、そんなものを振り捨ててでもあえて行動できる人間にこそ魅力的である。他人に、「わかる」、「わかる」などと言われてご満悦では、どこか人間として小さすぎないか?
分かり合うことが最大の徳ではなかろう。他人から見て、「わかる」、「わかる」の行動よりも、「分からない」、「理解不能」という行動こそ魅力的と感ずる。というのも、「わかる」、「わかる」という行動に生の緊迫感というものが足りない。かかる行動によって、周囲が一変することこそ行動足り得るし、やりがいある人生であろう。何をおいても人生は楽しむためのもの。