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嫌なことを嫌と言える正直さ

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当たり前のことだが、自分以外は他人である。祖父母や親兄弟や、息子や娘であれ他人である。ここでいう他人とは、肉親と肉親外の意味ではなく、自己と他者という意味での他人だから、肉親は他人ではないのでは?とならない。したがって、社会というのは自分と他人でできており、そうした他人と自分との関係を人間関係という。が、他者と関わらなければそれにあらず。

職場の人間関係、近隣やサークルや趣味、夫婦や恋人や親子、不倫相手も人間関係である。人間は他人とあらゆる関係の場にあって、あらゆる関係を持っている。維持しているともいうが、他人と自分は常に壊れやすい状況にある。振り返ってみればそうした様々な人間関係を、崩壊と蘇生を繰り返しながら生き、現在も続行しながら生きている。それを人生という。

親子関係や兄弟のように自分の力によらず、生まれる前から決められている関係もあれば、ある日どこかでふとしたことで派生する関係もある。狙った獲物を落とそうと意図して芽生えた関係もある。人はよく、「自然に出会った」などというが、自然に出会うとは、街に出て通り過ぎる人をいい、それが立ち止まって話をした時点で、何らかの意図が発生している。

立ち話から、「良かったらお茶でも…」という時点では関係は樹立しておらず、一方的でしかないが、相手が承諾してついていくことになれば、それはもう双方の意志である。知らない者同士が偶然に会ったことは自然であっても、以後のすべては意志によって進行する。この時点で二人は無知と無責任で行動しているか、責任を持って行動しているか、の場合がある。

声をかけられた側が、「この人カッコイイ、ついていってもいい」と思う場合もあれば、何の考えもなく、夢遊病者が如く暇だからついていく場合もあれば、相手の積極さ、強引さに、「No」がいえびについていく場合もある。意志があれば自己責任、意志がないので自己責任ではないと言いたいものもいるが、深い考えなしについていくのも立派な自己責任である。

「あんまり深く考えなかったから」、「(意志はなかったし)相手のいうようにしただけ」などと自己責任回避を主張するズルい女はいるが、そんなものは通らない。先般の高畑裕太事件の時の被害者の言い分を聞きながら腹も立ったが、声をかけられてついて行ったことが自己責任であって、「そんなつもりはなかった」は、情緒未発達の18歳未満なら認められる場合もあろう。

法は力のない弱者を保護するためにある。高畑事件は裁判にすべき案件であったが、著名芸能人ということもあり、事実関係よりも有名税を支払う(事を荒立てないことを選択した)ことで解決したのは、仕掛けた側の思う壺であった。有名人は看板商売だから、そこに目をつけられてユスリやタカリの事例はしばしばある。こういう事例がある。山道で強姦された女がいた。

誰も見ていない、当人同士しか知らない現場のことを、それぞれが、「強姦だ」、「和姦だ」と食い違った場合、現場が人が通行できる山道より、下った斜面にあるか、登った斜面であるかが、判断の要素とされた。これを状況証拠とするが、事実であってもなくても、状況によって推理して判断するしかない。つまり、事実を第三者が知ることは絶対にないからだ。

いうまでもない登り斜面であれば和姦、下り斜面の場合は強姦とみなされる要素になる。知らない人も多いが、裁判は事実を争うものではないということ。法廷において、検察と弁護士があらゆる法廷戦術を用いて、事件を客観的に証明してみせることで、所詮事実は当事者以外は誰も知り得ない。したがって常識知らずで世間音痴の裁判官が下す判例に、「?」は多い。

「裁判員制度」は、そうした硬直した司法従事者に国民的・世間的な目線を反映させるために始まったもの。されど、法律に関心のない、あったく無知の国民が事件を裁くというのも問題がある。あっても問題、なくても問題なら、あるべきか、ないのがいいのかを、取り沙汰されている。現段階では、身に降りかかってきたことに最善を尽くすのは当然である。

クイズ番組の常連でない限り、何でもかんでも知っていればいいというものでもない。少なくとも多少なりの知識や教養がある人たちが裁判員に選ばれるわけでもない。そもそも、「教養」とは何?「精神文化一般に対する理解と知識をもち、人間的諸能力が全体的、調和的に発達している状態」。と、これは、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の記述である。

いかにも抽象的だが、教養ある人、ない人はその話の内容で判断できる。細々したことはともかく、教養の大意とは最近流行の、「〇〇力」になぞられるわけではないが、「物語力」・「仮説力」であろう。あるちょっとした体験でさえ、他人に話すとき、それをどれだけ分かり易く、主観を交えながら客観的に興味深く語ることができるかであり、これを、「物語力」とする。

さらには、その出来事はどの程度のダメージ、あるいはメリットを自分にもたらし、話す相手の好奇心をどれほど満足させるかを推し測る。これが仮説力。こういう場面に教養が現れるが、そういう人間でありたいという切なる願望が、自分に熱心にブログを書かせている。これも一つの手段であって、何もしないよりは、「する」が勝る、自分の「行動」持論である。

そのためには、「今日、何があった」というのは、自分にとって意味をなさない。「関係」についての考えを進める。関係における初期にあっては、「無知と無関心」であるのは少しの例外を除いて、多く当てはまるものだろう。「人は自らの欲望の対象を求めて他者と関係して行く」と、これはフロイトの言葉であり、凡人が考えてみても疑いの余地はない。

例えば、「性的関係」という言葉。今井絵理子が誰の入れ知恵か、親密な関係やホテルでの逢瀬をしておきながら、「一線を越えていない」などと発言した。いかにも一線を超えなければ純愛であるかの如く、ズルく卑怯な物言いであるが、所詮は言葉のお遊びである。二人の関係は状況的にも親密であり、したがって、言葉通りの言い分は裁判では通用しない。

相手の男は必至で女性を庇うが、庇うことで女性を不法行為という罪から救おうとするが、こんなことは男の妻が訴訟を起こせば何ら無意味である。政治家も芸能人も看板商売であるからか、雨あがりの宮迫も、「こっちが迫ってもやらせてくれなかった」と女性を持ち上げるが、今どきの女がどれほど貞操が硬いのか。事前に宮迫が、「そういうから」と承諾を取ったのだろう。

この言葉によって、女の品格が向上したと本人は思ったかも知れぬが、結局女をズルくさせるのが男であるのがよく分かる。おそらく宮迫は妻には真実を話す羽目になったろうが、宮迫の妻も離婚を前提にしないなら、事を荒立てて夫が社会的に葬られるのは得策でない。島尾敏雄の『死の棘』状態に、妻から一言一句を問い詰められ、告白されられたのではと邪推する。

ヒステリー女の狂乱さに男の人格も崩壊するおぞましさは、乙武洋匡を訴えた妻にも現れている。一たび狂えば夫婦は他人だが、「俺の面倒を見ないというなら、障害者虐待で訴えるぞ」と乙武は妻にいったというが、結局は、障害を持つ相手故に、いわれなき従順を強いられた妻の逆襲であろう。「どうして私はここまで夫の奴隷にならなければならないのか?」その思いが告訴では?

障害者は障害者らしく大人しくしておけというのではなく、社会的弱者なのだから、何をやっても免罪されるという乙武の障害者であることの特権意識が問題である。障害者も普通の人間という意識は本人も周囲も大事だが、男尊女卑を嫌悪し、男女平等を訴えるなら、都合のいい時だけ、「女」を出すべきではなく、障害者も同様にそういう自覚を持たなければならない。

乙武は断罪されるべきであろう。これまで障害者という特権意識三昧の陰で耐え忍び、不自由を強いられた妻の反乱を自分は理解したい。乙武の5人の愛人を妻は容認していたと身勝手な自負は告訴によってそうではないと証明された。健常者で5人の愛人が許されないと同様に、障害者なら許される道理がない。障害者に生まれ、障害者に育った乙武が抱く勝手な厚遇感である。

彼にはパスカルのこの言葉を贈りたい。「他人の観念のなかで一つの架空な生活を生きようと欲し、そのために目立つことをしようとする。我々は絶えず自己の架空な存在を飾り、それを保とうと努め、真の存在をなおざりにする。」

おそらく、人間は真の存在に気づいていく過程で、他人のなかにある自分の架空の存在に、興味をなくすにちがいない。「誰とでも仲良く」など、無理なことは諭さない。好きな人を嫌いになることも、嫌いな人を好きになることも、所詮は感情であるがゆえにできない。「わたしは嫌いな人でも付き合うようにする」みたいなことを真顔でいう女性はいる。

いかにも自己正当化の言葉。ようは、そういう人間を排除しきれる強さがないのを、虚飾の自己肯定感がそれを言わせている。誰が好き好んで嫌な人間と付き合いたいものか。女性は生まれてこの方嘘をつく資質に長けているのだろう。嘘つき母に苦しんだ自分からすれば、女の嘘はある種の病的という認識だが、嫌なものは嫌、許せないものは許せない。


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