信頼とは真実の関係の中で生まれる。真実を価値とするのは嘘を無価値とするからで、そもそも真実そのものに価値があるというのではない。真実はふつうに当たり前に存在するものだが、世に嘘が蔓延する昨今においては真実が価値を持つ。道徳的価値も同じようなものだが、誤解を怖れずいうなら、道徳を守るとは、自立できない人間の弱さを現わすにすぎない。
未成年者や子どもを道徳的に厳しく躾けるのは、未成年者や子どもが未熟であるからに過ぎない。したがって、道徳とは守るべきものというのではなく、自分が弱く、自立できないから仕方なく従わせるものと自分は考えている。人間は強くなると他人に冷淡になれるように、道徳にさえ冷淡になれる。道徳を守るだけの面白味のない生き方より、自らを範として生きることができる。
倫理や道徳は固い殻の中にあるもの。それを打ち破ってその中にある栄養分だけを吸収すればいい。それが大人だろ?まあ、自由を愛する革新的な人間であるなら、道徳や倫理に埋もれた生活は退屈だ。「そんな勝手な自由は許されない!」という自由とは、そういう生きる人達の自由であって、自由が一つだけでないとしたら、本当の自由が何かを摸索してもいい。
思うに我がままで勝手気ままな自由などは真の自由ではなく、はた迷惑な自由である。自分のたてた掟、自分が従うべき掟をどう作り、どう守るかは人によって異なる。昔ある奴が、「自由とは、決まり(法)や道徳を守ったうえでの自由」と言った。それは彼の思う自由であって、もし、反社会的な自由が認められないなら、ピカソもビートルズも出現しなかったろう。
自由とは自分に沿った生き方をすること。当然ながら人間は社会的な動物だから、勝手気ままは許されない。社会の決まりを守るよう自らに制約をかけるのは当然である。暴走族や人に迷惑をかけるのが自由などと、バカもいいとこで、自由が何かを知らぬ者の戯言である。人の後ろをついていくのではなく、「自分だけの歩き方」を見つけのが自由なる精神である。
劣等感は自分と他人を比べるから起こるのであって、比較して劣等感に悩むより、良いところを磨けばいい。人間がみな同じでなければならないと決めているのは、案外自分であったりする。だとすれば劣等感の原因は、物事に対する独善的解釈でもある。己の解釈や考え方を変えれば、劣等感も消え、自分と他人を比較しなくなる。劣等感は一人相撲に過ぎない。
だから幸福になろうと思えば簡単、すぐにでもなれる。他人と自分を比較せず、自分は自分と思えばそれが幸福ではないかと。人と比較して励みにする人もいるが、そういう人はポジティブな人であり、そうした志向の無い人は、いつも人と自分を比べてネガティブになっている。人はお金持ちで自分は貧乏でも、自分のいいところを見つけて愛せば幸せでは?
ネガティブな人は、「自分なんか…」という言葉を口癖のようにいう。「自分なんか…」という言葉を多用する人は、ネガティブ以前に自分に甘えている。「自分なんか…」と思ったところで、よくなるものでもないし、言葉に甘えて現状維持でいようとするところがだらしない。マンネリ自己批判ばかりの人間は、向上心もなければ他人の批判を嫌うところもある。
自己批判は甘美なもので傷つくこともない。傷つくことのない自己批判を何度したところで成長するハズがない。比べて他人の批判は辛辣で傷つく、だから価値がある。「自分は(将棋)が弱い」。「ここで一番弱い」と、顔を合わす度にその言葉をいう人がいた。うっとうしいので自分は言ってみた。「その言葉、もう何百回も聞いた。もう、言うの止めたら?」。
うじうじした男の自己保身なのか、「あんたとはやらん、勝てないから」というので、「いいんじゃないか?ここで一番弱いなら負けたって普通だろ?」と皮肉を言ってみた。すると、「ちょっと強いからって、威張ることないだろ?」と、卑屈さ丸出しである。「だったら二枚落ち(飛車よ角を落とす)でやったら、勝つんじゃないか?」。こんな風に言ってみると、こう返してきた。
「そんなんで勝っても意味ないし、負けたら笑いものだからやらん」と、自尊心は一人前だ。60歳過ぎてこうなっていてはつける薬はない。二枚落ちで鍛えれば棋力は上がると思うから言ってみたが、自尊心が向上心を妨げる。「弱い」と先手をうっておけば、「弱いね~」と言われないための防御心であるのは分かっている。よほど傷ついた人生を送って来たのだろうか。
誰もが傷ついた人生を送っているのに、耐性をつけようとせず、自身を誤魔化すことばかり考えているから成長がおぼつかない。彼の人生だから批判はしないが、人間関係を持とうとすれば、もう少し前向きに生きてみてはどうかくらいの老婆心も沸くが、自分の殻に閉じこもった人との対等な人間関係はできない。以後は彼に合わせた対処をするしかなくなる。
非難のための批判は持つべきでないが、人を導くのは難しく、その義務も負ってない。愚痴や不満ばかりの人間にせめて、「それは止めたら?」を進言する者がいてもよかろう。嫌われことになっても、好かれたいがなければいい。「人にできて自分にできない」が劣等感の根源になっている人に対しては、「できることがそれほど大切か?」を説いてあげるといい。
「将棋が強いことがそんなに凄いことか?」を、正直な気持ちとして持っているなら、「自分は強い」などと自慢することもないが、弱い人は卑屈になる。劣等感と優越感は表裏にあるから、こういう性格の人が、強くなると自慢をするのだろう。たまたま弱いから卑屈になっており、たまたま強い人であったなら優越感に浸ることになる。人間は案外単純かもしれない。
ある人は負けてこんな風に言った。「今日は眼鏡がないから調子がでない」。言い訳好きはこちらが想像しないことをいって笑わせてくれる。「眼鏡があったら手が見えるってこともないでしょ?」とは口には出さず、「そうですね、眼鏡があったら違うでしょうね」と合わせる。勝者は敗者をいたわるのが惻隠の情というが、ユニークな言い訳は聞く楽しさもある。
遅刻の言い訳すら言わなかった自分。言い訳にどういう効用があるにせよ、自らを辱めるものでしかない。昨今は不倫の言い訳が、これまた子どもじみていて面白い。不倫という行為その事よりも、言い訳の方が圧倒的に羞恥と思うが、言い訳で何かを守ろうとする人間の悲哀が見える。悪事を行う際の覚悟の無さが伝わってくる。見つかる前提で悪事をやれないものか?
善人づらして悪事をやるのが人間と思うが、悪事をやるのは悪人に決まっているのに、なぜかその覚悟がない。だから、腹をくくって堂々としてられない。すべてを棒に振るくらいの潔さもなければ覚悟もなく、見つからないで上手く凌げればとあれこれ画策する。見つからなければ、「やり得」との誘惑に負けるのは分かるが、見つかってしまえばそれは負けでは?
日本人の、「恥の文化」はいつごろから消滅したのか。「恥の文化」は、武士の高い倫理観と志に支えられ、彼らは常に恥を重んじていた。これが一般的な、「恥の文化」と自分も思っていたが、これが曲解であるのが分かった。日本人の恥の文化について鋭い考察をしたとされるルース・ベネディクト著の『菊と刀』のどこにも武士たちを褒めちぎった記述はない。
西洋社会は罪の文化といわれる。これは、人間は自分たちの行為は常に神の監視下にあることで正しい行いに務めんとする。ゆえに、誰かに悪行が知られることがなくても罪悪感を感じる。日本人は誰かに自分の悪行が知られたら、非常に恥ずかしさを感じ、その結果死さえ厭わない。しかし、自分がやっていることが他人にばれなければ、自分の行為を悪いとは感じない。
これこそがベネディクトの言う、「恥の文化」であり、決して日本人の倫理観の高さを述べべているのではない。バレようが悪いことは悪いことの欧米人に対し、バレなければたとえ悪いことでもやったもん勝ちという日本人。善悪はどちらというより、どちらが大人であろうか?不倫や悪事が露呈した時の日本人の言い訳を聞けば分かろう。まるで子どもの言い訳である。
「遅刻の言い訳はした方がいい」と同僚がいう。「遅刻に羞恥を感じない言い訳があるのか?」と問う。「ないけど、言い訳はそんなものよ」という。納得しなかった。稚拙な嘘など誰が信じるだろう。嘘をついて得る評価より、「騙す」ことで失う信頼が大きい。自分はその場限りを繕うための嘘の必要性をまるで感じなかったし、しみったれた人間こそ羞恥である。
同僚は、「遅刻は欠勤より評価が悪い」などと分かったようなことを親切面でいうが、問題は現実に遅刻をしたことであって、「遅刻は欠勤より評価が悪い」というのは、遅刻を戒める言葉なら理解もできようが、やったことの責任を逃れるわけにはいかないだろう。これが当たり前でなくて、何が正しいことになる。評価を下げられてもその程度の人間なら仕方ない。
バカげていると感じるのは、遅刻した社員の言い訳など、上司は飽きるほど聞かされているハズ。どれもこれもつまらん言い訳をいう奴ばかりで、腹の中では「ゴチャゴチャ言う暇があったらさっさと仕事しろ!」だろう。それにも関わらず、くだらん言い訳を言う人間のバカさでしかない。何事もそうだが、自分が不利な時の理屈はみすぼらしい。事実をいう方が健康的である。
評価を得たいなら、得るべく人間になるしかない。物事を自然に捉えて、あるがままに生きて行こうとする自分にとって、評価や他人の目より、自分を騙すこと以上の羞恥はない。無能な人間ほど周囲に有能如き振る舞うが、無いものを有るように見せることではなく、有能となろうと思う気持ちであり、そのための努力であって、斯くの人間はそれをやりたくないのだろう。