成長することを、「大人になること」などと言ったりするが、これは正しくない。成長し損なった大人や、出来損ないの大人は沢山いるから便宜上、「大人」と「小人」を分けているに過ぎず、大人が子どもの範というわけではない。「大人になる事は難しい。親になる事はさらに難しい」などという。20歳過ぎれば大人、子どもができれば親、というなら事は簡単だ。
子どもの頃、大人は立派に見えた。お年寄りはさらに立派に見えた。ところが実際に大人になり、65歳以上のシルバー世代になってみると、ダメな大人は多く、つまらん老人も多い。子どもに見えていたのは背の高さや体格や、白髪頭や年齢としての大人でありお年寄りだったようだ。「立派」を定義するのも難しいが、立派でなくともいいからダメな大人にはなりたくない。
「ダメ」も定義はできないが、共通認識としての、「バカ」とか、「ダメ」とかのダメとしておく。「バカ」や、「ダメ」を挙げればきりがないくらいにあるが、共通認識として、「ダメ」のナンバーワンはなんだろうか?人にとって違うが、自分は、「ダメ大人」の一位は、「コドモ」だと考える。ようするに、大人になり切れてない人間という意味の、「コドモ」という言い方だ。
大人の社会で、これほど迷惑で困る人間はいないのではないか。「コドモ」というのは、「子ども」を侮辱した言い方でなく、「子どもなら許せるが、大人なら許されない」、そういう意味での、「コドモ」である。早い話が成長し損なった大人ということだ。「精神年齢が低い」ともいうが、ちょっとニュアンスが違う。大人に向けて、「コドモだね~」は、完全にバカにした言い方。
「精神年齢が低い」は、「年齢に相応していない」との意味で使うので、「コドモだね~」とも限らない。ではいい大人を見下げて、「コドモだね~」というのは何歳くらいを指しているのだろう。自分が言う場合は、学童期の小学生低学年くらいを浮かべているかも知れない。「幼児」とまでは思わないが、5歳~10歳くらいのニュアンスで言っているのだろう。
「コドモだね~」と言った相手から、「何歳くらいの子ども?」などと聞かれたことはない。これまで、どういう場合に言ったかを考えてみたが思い出せない。ならば、コドモと大人の徹底的な違いはなんだろう。かつて、大人と子どもの違いはオモチャの値段にあるといわれた。子どもは子どものオモチャ、大人は大人のオモチャ(といっても、例のアレではない)。
昔の子どもはそれこそ、棒きれや河原の石ころ、ラムネの玉など、あらゆるものを想像力と身体的エネルギーで、何でもオモチャにできたが、大人はそうはいかない。彼らの心身や遊興心を支えるためには高価な道具を必要とした。「あの男は女をオモチャにした」という言い方もされるが、これは比喩であろう。昔の子どものオモチャは手作りもあり、安上がりだった。
ところが、昨今の子どものオモチャの高価なこと。極めつけはスマホだろう。自転車もいいのに乗っている。靴とて高価なナイキやニューバランスなどは当たり前だ。ようするにこんにちにおいて、子どもと大人のオモチャには金額的な差はないということになる。ならば、「子どもと大人の差はオモチャの値段」というのは、現代においては死語になってしまっている。
大人が単純な遊びには満足しない。と言ってみても、スマホでゲームに熱中する大人もわんさかいる。これは昔にはなかったことだ。いわゆるテレビゲームに熱中する大人は皆無とは言わずとも希少だった。この辺も現代は大人と子どもの差がなくなっている。差がないということは、どちらがどちらかに歩み寄ったことになる。自分は大人が子ども化したと考える。
電車に乗って驚くのはほとんどの乗客がスマホをいじっている。自分は携帯すら持ち歩かないから、すごい光景に見えてしまう。個々がやりたいものが善、したくないものが悪とするなら、他人が他人の善悪を言うのはオカシイ。ただし、それほどに必要なものであることが不思議である。子どもにオモチャを与えると熱中するさまを、「子どものオモチャ」といった。
スマホは今や、「大人のオモチャ」である。不所持なのでゲーム以外に何をしているのか正直よく分からないが、それくらい手放さない人が多い。例えば野球中継がリアルタイム進行で表示されるようだが、携帯がない時代には電車内で経過も結果も知ることができなかった。家に帰って結果を知るが、勝てば勝ったで、負ければ負けたで、一喜一憂することになる。
結果を後で知るのも楽しい。が、どこにいても経過を追えるのを人は便利という。便利は補えるが、その代わりに後の、「一喜一憂」は味わえない。リアルタイム情報が現代の主流のようだが、自分にいわせれば後の愉しみが奪われている。昔は時間がゆるりと進んでいた。「果報は寝て待て」ともいった。スマホを必要としない自分は、ゆるりの時間を「良し」とする。
スマホ時代に電車で本を読む人を見ない。電子書籍の人もいるのか?というより、スマホは情報収集ツールとしての引き合いがメインである。沢山の情報を知ることはできるが、読書と違って情報は知識ではない。となると、昨今は知識より情報優先ということになるが、したいことが善である。社会構造がこれだけ変われば、長い間に人間の構造も変わっていくだろう。
昔、本をまったく読まない女がいた。理由を聞くと、「何で読むの?」と返された。「いろいろあるが、本は知識の泉だ」というと、「何で知識がそんなに必要なの?」と怪訝な顔でいう。「人に聞くな。(知識を)欲しい自分には必要で、無用のお前にはなくていい」と、話を収束させた。そして今、「情報」も同じことで、欲しい者には必要だが、不要の者には無用也。
時代が巡れば人の、「要・不要」も変わってくる。だからスマホが持たれている。人は時代に合わせて変わって行くが、時代に呑まれぬ者もいる。いつの時代も若者は時流に敏感に即応するが、高齢者は、「要・不要」を見極め、自分らしい生き方を選ぶ。最近とみに感じるのは、高カロリー食を体が望まなくなった。好きだったカツ丼、うな重を食べたいと思わない。
よく食べていた中華料理すら、何カ月食べないでも体は求めない。今、一番の御馳走といえば、おむすびかも知れない。現代人は主食・副食・間食と、カロリー過多である。それに警鐘を鳴らしてか、一汁一菜が見直されている。昔の武士や大名級はともかく、平民はおむすびと梅干で生きていた。一日で200km走るトップクラスの飛脚は、おむすび2つと漬物数枚だった。
そんな彼らに肉を食べさせたところ、胃もたれて早く走れなかった。それを見た小泉八雲は、「日本人の食事は完成されている」と記している。あちらこちらの幼稚園で週に一回、「ノーおかずデー」と銘打ち、おむすび持参の励行がなされている。週3回の幼稚園もある。子どもは良く動く。園児はくまなく動き回る。それでも昔の子どもの運動量に比べると少ない。
昔の子どもは園内で駆け回るし、家でも走り回る。今の園児たちは間違いなくジャンクフード漬けでオーバーカロリー間違いなし。化学調味料の蓄積などもあって、がんが発症しやすい体になっているかもしれない。それを思えばおにぎりは自然食。不純物が溜まりに溜まった高齢者は、それこそ週5日おにぎりで大丈夫のはず。始めてはいないが、やってみようかいな?
園児や学童期だけではない。飽食の時代でありながら、皆が楽をし始めて動かなくなった。家事はこれ以上ないほどに楽になり、タワシとマケンでせっせと浴室掃除をしなくとも、お風呂掃除の機械がある。極めつけはお掃除ロボット。まるで動かないことを得したような気になる主婦が、電柱体型になるのも分からぬでもない。ちょっとそこまで行くにも、「足がいる」という。
現代人のいう、「足」とはクルマ。本来足といえば、「二本足」だが、今はそれを足といわない。生活家電や文明の利器に囲まれた、「健康で文化的な生活」は、どこか嘘の臭いがする。真に、「健康で文化的な生活」とは動き回ることではないのか?日常生活で散々楽してダイエットに苦労するはいかにも滑稽である。「楽は苦の種」と昔人はいったが、今は、「楽は肥の種」であろう。
人生の物差しは自分で作る。我々がやることは、単にみんながやっているというだけで決めることはない。だから、自分はスマホを持たない、携帯も持ち歩かない。自分に本当に大切なものを大切にしているだけだ。何が自分の人生にとってかけがえのないことかを考えて、自分のやることを決めているに過ぎない。別に人と違ったこと、変わったことをしたい訳でもない。
人のやれないことをやって自慢するのも可笑しい。自分にとって必要ないこと、大切でないことには挑戦する意味もない。自分にとって大切なことは、誰もができようができまいが大切なことなのだ。これを自分の物差しという。これが周囲を見ないで、自分を大事にする。これが案外自信につながる。なぜなら、どんな人間にも自分にしかやれない役割というものがある。
その役割に早く気づくこと。それが自信につながっていく。その役割を全力を出してこなし切るときにこそ、強い自信が生まれる。そのためには、「他人は他人」、「自分は自分」をおさらいする。くだらないと分かりつつ、それでも人間は自分と他人を比較するが、つまらぬ虚栄心はさっぱり捨てて、真の自分を見つめることで味わえる人生もあるようだ。