男は若い時に実年齢より老けて見られたいもので、大人になりかけているときはむしろ大人として認知を得たいものだから、自身に残している幼児性や幼児的特徴を隠そうとしたりする。大人と子どもの違いは多だあるが、一例として大人は基本的に新しい情報を引き出すような質問を子どもの時ほどしなくなる。慣れないものに出くわしても冷静であったりする。
「なぜ?」、「何のために?」、「どうすればよいのか?」などと、子どものように問うことを大人はしなくなるばかりか、慣れないことを避けたりする。おそらくこれらは無知をさらけ出したくないためか、あるいは興味深い新たな体験には本当に無関心になってしまったかのいずれかであろう。古い様式の中に新しいものを取り入れるのは、面倒に決まっている。
ヒトの成長は肉体ばかりではない。精神的な成長も遂げて行こうとするが、何をもって成長を完成するのかに基準がない。成長しても無知な人間はいる。幼児のようなしつこさを伴った人間が成長し損なった大人であるように、様々な点において人は成長の不完全さを露呈する。甘い言葉に騙されたり、利用されたり、いじめられたりには、少ながらず要因がある。
・相手が何かしてくれる、と期待するから騙される。
・相手の言葉を鵜呑みにする、から利用される。
・必要以上に関わらなければいいのに、関係を持とうとするからママ友からいじめられる。
このように騙される側、利用される側、いじめられる側にも自身の気づかない原因がある。他人ばかりが悪く見え、自分のことはあまり見えないもので、だからすべてを他人のせいにしてみたりする。人間はなかなか物事を自身に照らして考えないものだ。いいことならそのように考えるが、よくないこと一切は他人のせいなら、人的な成長は見込めないだろう。
他人をあれこれ考える前に、徹底的に自分を、自身を考えてみる。他人の中に原因を探り、答えを見つけるより、自分の中に必ず存在する答えを見つけるべきと思う。自分の中に見つけた答えは、自分で正していけるが、他人の中に答えを見出してみても、他人を自分が修正することはできない。他人が悪いだけでなく、自分の問題点を探り、改善することを成長という。
このことが物事を解決するもっとも手近な方法ではないのか?「あいつがこうだったらいいのに…」、望んでみても相手はそうはなってくれない。「あいつがいなければいいのに…」、相手は簡単に消えてはくれない。それで自分が去るのか?はたまた世から消えようとするのか?そんなのおかしいし、もったいないし、死ぬ気で行動して物事が変えられないのか?
そのようによく言われる。「死ぬくらいなら何でもできるだろうに…」と普通は考える。自分もそのように思っていた。が、それくらいに自分を変えることは難しいということだ。「自分を変える努力をするくらいなら、死んだ方がマシ」ということのようだ。つまり、自己変革は死より難しいということだ。そういうものだろうか?そういうことだと数々の事例が示す。
それくらいに死というものが軽いということだが、事物の軽重は人によって違うということか。自殺の名所といわれるところには、自殺を思いとどまらせる立札がある。標語調の語呂のいい文句を書いているのもあるが、効果のほどはどうなのだろう。生きるのが辛い、死ねば楽になるのは確かにそうだし間違いない。死を選ぶのは楽を望み、楽になるのを選んでいる。
そういう人間に、「死ぬな!」は何の意味もない。自殺する者の気が知れないと思う自分は、死ぬ者の苦しみを理解していないのだろう。それも当然、死ぬ者の苦しみはその者独自のものだから、理解できるハズがない。死に行く者が楽を望む以上、死ぬ以外の楽を見つけてやるか、楽を求めるのをとりあえず止めるよう説得する以外に、死を静止することは難しい。
死を強く思い詰めている状況だから、そのことから解放してやるのもいいが、そうすると気持ちが変わることもある。何かを買おうという購買意欲に憑りつかれている状況に似ている。一旦、頭を冷やせば気持ちが冷めると似ている。自殺の名所静岡県の樹海には、「自宅で死ね。お前の葬儀代に県民の税金がつかわれている!」というのもあるが、地元民の本音だろう。
とにかく、「ここで死ぬのは止めてくれ」ということのようだ。我々も含めた人間は、なぜにこれほど多くの時間を費やして、友情や恋愛や人生や死について思考するのだろうか。それは人間の幸福を考えるとき、それらは避けては通れない大きな命題だからだろう。死は不幸なことであるが、人間にとって死は究極の目的である以上、幸福な死を摸索するのも当然である。
中島義道の書籍が売れているらしい。彼の著作のタイトルはおそらく編集者が考えるのだろうが、いかにも中島義道らしさが感じられる。『善人ほど悪い奴はいない』の副題は、「ニーチェの人間学」であり、帯には「本当は怖いニーチェの言葉」の文字の下に小さな文字で、「弱くて卑劣で善良なニーチェから学ぼう」とあるが、「弱くて卑劣で善良」とはいささか奇異だ。
「強くて逞しくて狡猾で」というなら学ぶ価値もあろうというもの。現代人が病んでいるのは、信頼の砦というべき家族や家庭における欺瞞を述べた書籍が多く出版されているのを見ても分かるように、欺瞞とまでいわずとも曖昧漂う時代の様相だ。幸せな夫婦に見えても探れば不倫実行中と、芸能人の浮気ばかり追い回すことで、部数を伸ばす週刊誌である。
税金で養われる政治家や子どもを指導する教育関係者が自堕落であってはならぬが、芸能人が一体なんだというのか?ベッキーや斎藤由貴の下半身が緩かろうが、人民裁判が如く吊し上げて、誰の何が満たされるのだろう。言行不一致でおすまし顔でCMをやるのが不謹慎というなら、違約金を払って降りるくらいのバカをやった自己責任は取る必要はある。
不倫が露呈すれば、配偶者のある側がどうするこうするの問題で、カメラの前で「やった」といわせるのがメディアの使命でもあるまい。配偶者のある者は婚姻という法的な関係にあるのは事実であれ、夫婦関係が形骸化しているからこそ、他人に目が行き、手も出るのだろうから、冷めた夫婦の形式的な人間関係よりも、許されざる関係の方が、関係という意味においては「真」である。
やったか、やらないかを問い詰め、問題にすべきは配偶者であって、外野は関係なかろう。「色を好むは真の情」というように、誰だって色は好きなはずだし、二人で部屋に入ればやるだろうし、「やっていない」と嘘をいうのもいいが、「ご想像にお任せします」となぜ言わない。何を言おうが言うまいが、どうせ人は想像するんだろうから、そういえばいいのよ。
「イエス」か、「ノー」か、答える義務はないのだし、何を言っても限りない黒なら、だから「想像に任せる」でいいと思うが、それだと肯定したことになるからか?だから否定をするが、否定すれば、「バカ」呼ばわりされるだけ。不倫というのは、許されざることを自覚的・意志的にとり結ぶ関係であり、紛れもない真の関係であろう。しかし、彼らに覚悟が足りない。
許されざる行為であるなら覚悟をもってやる。それでこそ、実体のある関係だろう。つまり、苦悶をともなっての意志的・自覚的な自発行為であるなら、その行為こそが実在感をもって迫ってくる。見つからなければこれ幸いというゲスな火遊びならそれでもいいが、バレた時の対処くらい考えておくべきで、どう思われようとも、「想像に任せます」でいいのでは?
性的関係と取りざたされることを極度に怖れるのは、成熟した大人とは思えぬ幼児性を感じる。どちらにせよ、覚悟もないドロボウ猫的火遊びなら、一切は自身に跳ね返ってこようし、苦しい弁解で笑いものになるがいい。不倫はどっちもどっち、共犯である。男に罪をかぶせて逃れんとする今井絵理子に男気をみせた市議の額に冷や汗たらたらはカッコ悪い。
女性というのはどんなに男を愛していても、自身の罪を逃れるものなら逃れようとするが、不倫にしろ別な犯罪にしろ、「共犯」ということにおいて女性はこのようである。こういうところのズルさが女の性根の悪さといわれもする。自分はその気、そのつもりであっても、「私は拒否した」、「拒んだのに」などというもので、これは避けられない女性の本性であろう。
「彼の手が到達したとき、彼女は拒むというより、迎えるようにその部分をすぼめてみせた」。これはある有名な小説の一節だが、この程度では女に共犯意識はわかないもので、ハニートラップ確定といわれた高畑裕太事件の時も、逃れるべくは必至で嘘に走る女のしたたかさに男は呆れてしまう。あからさまな嘘を女につかれ、茫然自失の経験が過去にあった。
醜いものを臆することなく突き出して生きる図太い神経の持ち主もいるが、男には男の矜持がある。そうした男の純性を、弱さという見方もできよう。血も涙もない冷徹・冷淡な男もいる。女もいる。前者は信長、後者には西太后が浮かぶ。悪逆非道の信長、冷酷無比の西太后などといわれるが、天下布武の野望の信長に対し、西太后は人が苦しむのを喜んだという。
光秀の謀反に、「是非もなし」と言った信長の往生際だが、西太后は以下の遺言を残している。「以後、再び女性に国政を任せてはならない」。これをどう理解すべきか?謙虚なる自己批判か、あるいは男たちへの痛烈なる皮肉なのか。真意は彼女のみ知るが、後人には思索が求められよう。これは余談だが、以前近所のスーパーに西太后のそっくりのおばさんがいた。