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Channel: 死ぬまで生きよう!
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他者から受ける被害も自己の責任

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人間は、隠匿している本心をつかれると微妙に反応するもので、つまり、それが虚栄心や自尊心が見透かされた時の反応である。『イワンのバカ』という面白い話がある。読んだ人もいようが、読んで忘れた人もいよう。中身は忘れても要旨を理解してる人もいよう。童話や寓話は細々した内容より大意が大事で、『舌きりスズメ』しかり、『桃太郎』しかり…

『傘地蔵』、『浦島太郎』、『こぶとり爺さん』などが、西洋では、『マッチ売りの少女』、『赤頭巾』など、面白い話は山ほどある。少し年代が上がれば、ディケンズやフォークナーもいい、オーヘンリーの、『最後の一葉』などは不滅の短編名作である。『ああ、無情』や、『罪と罰』、『戦争と平和』といった長編は、中高生のときに逃すと読む時間が得られない。

思春期には、「本を捨てて街へ出よう」となってしまいがちになる。もっとも、自分の場合であるが…。さて、『イワンのバカ』についてトルストイは、田舎人のイワンを通して、都会人的虚飾や、富や肩書き、頭の良さや学者であるという、うぬぼれを否定し、素朴で勤勉で、実直な農民で馬鹿のイワンこそ、人間として素晴らしいということを語ろうとした。

もっとも現代的な視点で、考えれば『イワンのバカ』(1885年)にも問題はあろう。「金持ち」、「利口」、「有能」より、「嘘のつけない正直で素朴で心の温かい働き者」のほうが偉い、尊いと、トルストイの思惑どおり読んでいいのかという懸念はある。確かに実社会では後者は前者に負け、世の中で人の上にたって、世界を動かしているのは前者であるからだ。

人間の本質についてニーチェは、「人々が神を信じ神を崇めるのは、人々が強者への怨念を隠し持ち、それを晴らしてくれる超越存在を欲しているからだ」という。そのことが、「強者は悪で、弱者は善という『子羊の思想』を生む」と解釈した。「真理」とは?「虚偽」とは?多くの寓話は虚偽、真理ではないという考えに立てば、『イワンのバカ』も虚偽である。

寓話の凄さは、日常的人間の視点を180度転換しょうとする。通常、人間が宇宙を観照する場合、その広大無辺さ、底知れず偉大な秩序に感嘆し、我を忘れる。しかし、それは人間が自分の日常の在り方から宇宙を考察すればこそであって、あくまで日常的な「生と認識」が基準となっており、宇宙全体の進行からするなら、「認識」などは、なんら必然性をもたない。

ばかりか、「真理」を無条件的に求める場合には、認識主体の生命すら危険にさらされかねない。とするなら、一体なんのために、「認識」というものは存在するのか?ニーチェが、『道徳外の意味における真理と虚偽』のなかで、「真偽」で設定したのはこの問題である。彼のいう「道徳外」とは何?そしてわざわざ、「道徳外」という設定を何故に必要としたのか?

「真理と虚偽」は通常、道徳内の視点から見られているとニーチェは考え、「善悪」もまた道徳的観点から判断されるなら、「真と善」、「偽と悪」との癒着を打ち破り、真と偽を善悪とかかわりのないところで考察しようとした。であるなら、善悪という道徳的合意から引き剥がされた真と偽、それらは一体は何と結び合わされることになるのだろうか。

ニーチェの命題を思考すると頭がおかしくなる。思考はマスターベーションであるが、マスターベーション的放出で終わってはダメだ。「人間の知性など存在していなかったような永遠というものが、これまですでにあったのである。そしてまた人間の知性が消滅してしまえば、何事も生起しなかったのと同じことになるであろう」。こういう言葉の前に挫折をする。

ネットで人の悪口を言うのも気晴らしだが、暴言を吐いて人を脅すような人も程度は同じ。しつこい人間が大人になりそこなった人であるように、ネットで暴言を吐く人が「おこちゃま」といわれるのも、未熟さを揶揄するものだ。人間は社会に出て他人の痛みを知るなど、人間関係を構築するうえで、さまざまな体験をしながらだんだんと大人になって行く。

そうであるのに人に暴言を吐くような他人を平気で傷つけようなどする人間は、そうした経験の少ない未熟な人間もしくは、やり場のないストレスに侵されている場合もある。あるいは自分の素性を知られていないことから、なりたい人格を演じられる。インターネット初期には、いわゆるネットオタクといわれる人間が、蓑を被って別人格になりきる者が多かった。

自分も当初、実社会では考えられないような、初対面の相手に対する接し方や言葉遣いにかなり違和感を抱いて、マジに腹を立てたり言い合いもしたが、あるメールを機にネット内にたむろする人間の本性を告白され、納得させられたことがあった。去りゆく人間の決別の言葉であり、「ネットの多くは自己を誇大に膨らませた小心者と留め置かれた方がいいと思います。」

そういう告白と忠告であった。当時はインターネットやパソコンに長じた人間の多くは、実社会とはつながりの希薄ないわゆるオタク人間が多かったのだろう。現実もネットも同じ人間と思い込んでいた自分は、そうした脆弱なオタク気質らが、架空の人格を作り上げていたことに驚かされた。しかし、そうせざるを得ない理由も告白者の話を聞き、理解するに至った。

実社会では上手く立ち回れない弱者が、ネットという秘匿性の高い世界の中で、理想像に自分を演じるのは、昨今の真面目で大人しく人見知りの少女が、ネットで異性関係を求め、はたまた中年男の優しさに魅かれて行くのと同じ構造である。その意味において、インターネットというのは実社会と同じ一つの社会であり、ネット社会で自分の居場所を見つける人もいる。

ネット社会を別の一つの社会として構築するという考えは、自分には全くないし、その必要性も感じない。つまり、ネットの自分も実社会の自分も全く同じ自分である。ネットだから少し、いいオヤジぶってというのもないし、むしろネットと現実の自分を違うように取られるのは違和感がある。自分のネットの利用は、実社会の延長で、実社会で言えることをネットでいう。

反対にネットで言えることはそのまま実社会で言える。ところが、ネットでは別の自分でありたい人の気持ちもよく分かる。おそらく、実社会では不足や不満があるのだろう。インターネット創世期には、よく言い合いをした。喧嘩腰になる事もあった。ところが、ネット内の言い合いや喧嘩ほどバカげたことはない。罵詈雑言の羅列は何の意味ももたない、それが分かった。

相手の電話番号を聞いて遣り合ったこともあるが、それすらバカげていた。ネットでの喧嘩は売ろうが売られようが、だからといってどうにもならないということ。他人の言い合いや喧嘩も見るが、だいたいにおいて会話になっていない。そもそも怒りや憤懣を文字にすることで萎えてしまう。「ネット上では議論にさえならない」と高名な論客がいうが、その通りだろう。

もっともな理由は匿名性にある。それが、「大人げない」言い合いとなり、固定ハンドル活動している場合であっても、社会生活とは切り離されたキャラとして、自由に言い合えるなら、まさにやりたい放題になってしまう。それを凝縮すれば、ネットなんてのは、所詮は言いたいことを言うだけの場でしかないってのが正論であろう。社会的人格を秘している故の所業だ。

ブログ記事に対する腹に一物であれ、一言書いていく人の多くが「通りすがり」や「匿名」である。何かを怖れて書くのだろうが、それでも書きたいのがネットである。自分はネットで不毛の言い合いをしないことにしたが、そのためにも他人の記事にコメントすることはない。それが単なる自己満足であり、自己顕示であるのさえ、「不毛」と感じるようになった。

自分のようにそこまで考える人もいないわけだし、コメントを書いて言い合いするのも喧嘩をするのも他人の自由で、否定はしないし、同調したリ仲良くするのも、それも目的なら良い事だと思っている。自分の価値観に自身が固執しても、他人に強制や進言するなどはない。他人の記事を読めば、まさに人はいろいろであり、そのいろいろがブログという文化を作っている。

明晰なるブログの管理人は、作法を逸脱した来訪者や、記事への批判意見をそれぞれに対処するが、それが叶わずブログを休止したり、行きづまって新たなハンドルで立ち上げたり、完全に中止した人はいずれも被害者である。ある用意周到なブロガーは、多少なりとも意見を違いを披露されただけで、「ここは掲示板ではないので控えてください」と速攻注意をする。

この手際の良さからして、過去に悪しき体験があるのだろう。掲示板やブログに、「荒らし」という言葉も生まれたと同時に、「ネットイナゴ」という言葉も生まれた。加害側は不満やストレスを抱えており、それを晴らさんがために他人を中傷し、罵倒するようだが、平穏にブログを書いていた人にとっては、「晴天の霹靂」か、ブログは怖いなどと怯える要因にもなる。

たかがネット、されどネット、どの程度の心境はともかく、キツイことや、ヒドイことを言われたことで、「死んでしまいたいです」などの記述もある。何を書こうが、どう受け取られようが、どのように返されようが、一切は自己責任である。というのは、言って行くところはどこにもなく、誰も助けてはくれない。よって、逃げるもよし、対処法を考えるもよし…


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